第二話 イアク

 歩く二つの足音が、船内に響いていた。まるで生き物の体内を歩いているような感覚に包まれる。小刻みに水面が揺れるような、機関動力の駆動音と振動が足元を伝ってくる。無機質な床と窓のない壁は、整然と美しく整えられている。その反面、天井にはパイプが這うように複雑に伸びていた。

 所々に人工石が埋め込まれ、血管に血液を送り出すポンプのように脈動しながら、淡く点滅している。埃と油の混ざり合った匂いが鼻をくすぐり、アルーンは初めて体験する環境に、どこか高揚を覚えていた。

 しばらく歩いただろうか。思っていた以上に、この船内は広い。整然とした通路をいくつも抜けた先、キジクがふと足を止めた。彼の視線の先には、無骨で頑丈そうな金属製のドアが立ちはだかっている。

 ドアがきしむような音を立てて横に開かれると、そこから柔らかな陽光が差し込んできた。アルーンは光に目を細め、白く霞む空気に目が慣れていくのを感じた。船の奥まった構造からは想像もつかないほど、開放感のある場所だった。

 キジクが向かっていたのは、どうやら船の先頭にあるブリッジだったらしい。そこは広々とした空間で、前方はほとんどガラスのように透けており、外の景色が一望できる。誘導してくれたキジクの背中越しに、間延びした男性の声が響いてきた。

 ハゲ上がった頭に、髭が吸い寄せられたような顔立ち。大きな樽のような腹を抱えているが、肩幅は広く、全体的にどっしりとした体格の男だった。

「おう、キジクじゃねえか。どしたい?」

「副長、頭目にお話が。船内に不審者が入り込んでいました」

「ぐははっ、そりゃまた物好きだな。どこのどいつだ? あんな白い掃き溜めみてぇな場所から出てきた奴ってのは?」

 しわがれた笑い声が、ブリッジから廊下の奥まで豪快に響き渡る。その声に反応するように、アルーンがキジクの腕をすり抜けて一歩前に出た。猫のように身をかがめる動作は素早く、キジクの制止も間に合わない。

 まるで散歩の途中で立ち寄っただけのように、アルーンは両手を背中で組みながら、にこやかに一礼する。

「初めまして、アルーンよ」

 その顔はどこか悪戯っ子のようで、軽やかな笑みを浮かべている。副長と呼ばれた男はその姿に目を丸くし、そして次の瞬間、大きな腹を抱えながら再び笑い出した。

「ガハッハ! おい頭目、とんだ荷運びになったな!」

「待ってください、副長はこのことを知っておられたのですか?」

 キジクの声が少し高ぶる。副長の愉快そうな笑みが、今度はブリッジの奥に向けられた。キジクの目がその視線を追うと、操舵席の隣に悠々と腰を預けている男がいた。

 こいつ……まさか、最初から分かっていたのか。

 不意を突かれたように、キジクは堪えきれず言葉を挟んだ。

「頭目を仲間外れにするのはよくないぞ。頭目も知っていたからな。つまり、主犯は二人――。まあ、運んでいた“荷”の中身を知ったのは、いまが初めてだがな」

「ふざけないでください!」

 キジクが強めに言葉を返す。事態の半分は仕組まれていたと知り、まるでビックリ箱を開けたような気分だった。

 操舵主の隣で静かに座っていた男が、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 高身長に切れ長の目、こめかみには白髪の線が一本走っている。全体的に鋭い印象の男だった。一言で言えば、まるで鷲のような風貌――観察力の鋭さをそのまま具現化したような目つきだ。

 落ち着いた声音ではあるが、柔らかさはない。むしろ、内に秘めた威圧感が静かに周囲を支配していた。

「詳細な地図、手薄な警備配置、そして脆弱な壁面の情報提供。……取引内容としては、決して悪くはなかったと思っていたがな」

 頭目の低い声がブリッジ内に響く。その言葉を受けて、アルーンは肩をすくめて笑った。

「悪くないどころか、これ以上ないほどの好条件だったでしょう? もう二度と使えない手にはなっちゃったけど」

「蛇竜の住処だ。もとより、こちらも最初からそのつもりだったがな」

 短く返すと、頭目は改めてアルーンに目を向けた。細められたその視線には、冷静な観察とわずかな苛立ちが交じっている。やがて、一つため息を吐いた。

「だがな……。奪取した報酬よりも、“荷”のリスクが上回るとは思っていなかった」

「多少のリスクでしょう? 女の子を一人、運ぶだけじゃない。目くじらを立てるほどの価値はないと思うけど」

「ただの女、ただの子供であれば、な」

 その一言に含まれた重みが、空気の流れを一変させた。

 一呼吸の静寂が流れた。その刹那、頭目の眼光が鋭さを増す。まるで、一歩踏み込めば一瞬で相手を潰しかねない猛禽のような視線だった。

 数秒にも満たない沈黙の中で、彼はすでに判断を下していたのだろう。目の前の少女を見据えながら、淡々と事実を並べ始める。

「今回の情報提供元については、こちらでも裏を取ってある。最奥で高みの見物を決め込んでいたのは、白色人種の中でも老獪と知られる侯爵の一人だ」

 視線を少し下げ、アルーンの髪飾りに目を留める。

「お前の髪につけられているその飾り──オレンジ色の人工石は、この世に存在する中でも最上級品。それを五つもあしらっているとなれば……王位継承権を持つ者の証と見て間違いない」

 言葉に含まれた事実は重く、ブリッジ内に緊張が走る。

「あら、人工石の位を知ってるなんてすごいわね。……元よ。元・王位継承第一位。けれど今朝からは、ただの根無し草も同然なの」

 さらりと語られた事実に、ブリッジ内がざわつき始める。この場にいる誰もが、それが意味するところを理解していた。彼女は、次期王の座にもっとも近かった存在――それが、いま目前に立っている。

 頭目は一瞬だけ眉をひそめたが、特に動揺を見せることなく言葉を継いだ。

齟齬そごだな。宮殿は、今なおお前を王女として正式に認識している。間違いなく、今ごろ大騒ぎだろう。向こうでは精鋭部隊が救助のために編成され、ここに追手を差し向けるのも時間の問題だ」

 彼の声には、事態を静かに見極める者の冷静さが宿っていた。

「断言してあげる。いまの宮殿には、私に最精鋭を割く余力なんてないのよ。あそこは今、他国への侵略戦争に全戦力を振り向けてる最中。追ってくるとしたら、せいぜい宮殿の守備に回されていた第三部隊以下よ」

 胸を張り、自信満々に語るアルーンの表情は誇らしげだった。だが、その言葉を裏付ける確かな証拠はどこにもない。あるのは、彼女自身の口から出た情報のみだ。

 実際のところ、たとえ第三部隊であっても、白色人種の軍の練度は高く、一般の軍隊に所属ずる精鋭部隊と遜色ない力を持つ。ブリッジの空気は重く、頭目は何も言わず、ただ沈黙を貫いていた。周囲の船員たちも、懐疑的な視線をアルーンに投げてくる。

 気まずい空気をやり過ごすように、アルーンはふっと笑っておどけてみせた。

「大丈夫よ、あなたたちなら十分逃げ切れるはず。わざわざ腕利きの船を選んで乗り込んできたんだから。この空の海での駆け引きは、お手の物なんじゃないかしら?」

「軽く言ってくれるな……。見えた空着場そらつきばを確認したが、あちらは高速強襲艇の“サメ型”を使って追ってきている。安全圏に入る前に、のち数刻で喰いつかれる可能性が高い」

 副長の声は低く、しかし確実な脅威を告げていた。

「分かってるなら、対策の立てようもあるでしょ?」

 アルーンはまるでゲームでも楽しんでいるかのように微笑む。

「相手の手の内が見えているなら、こちらが勝ったも同然よ」

 そう言って、人差し指を一本、ぴんと立てる。次いで中指を加えて二本にし、ウィンクをひとつ。さらに胸を軽く張って、勢いよく言い放つ。

「それに──宝の強奪で一番貢献したのは、私でしょ?」

 その言葉には確固たる自信が宿っていた。

 「ほう。ただ船内で朝まで寝ていたお前が、何をしたというんだ?」

 頭目の言葉には皮肉が滲んでいたが、アルーンは気にする様子もなく、あっさりと答えた。

「警備が手薄だった? 違うわ。私が、侵略遠征の発動に合わせて警備の交代時間と配置変更の指示を“仕組んだ”の。詳細な地図があったでしょう? でも実際は、そんなもの一枚も存在しない。あなたが持っているその地図──あれは、私が徹夜で手描きしたのよ」

 アルーンは唇の端をわずかに上げ、少し得意げに続ける。

「壁の弱い箇所を調べ上げたのも、私。時間がなかったから本当に苦労したのよ? でも、やりきったわ」

「つまり、今回の手引きをしたのは……お前だと?」

「そうよ。侯爵のお爺様と二人で綿密に計画したの。うまくいってよかったわ」

 無邪気な笑顔で言い切るアルーンに、周囲の船員たちは一様に沈黙する。まるで正気を疑うような視線が、その背中に突き刺さっていた。

 ──このアルーンという女、正気なのか?

 ブリッジ内の空気が一層冷たくなる。船員たちの視線が静かに、しかし露骨に彼女へと向けられていた。どこか呆れたような、あるいは信じられないといった面持ちで。

 なにを好き好んで、自らの住処を強襲させる必要があるのか。脱出のために警備の薄くなった隙を狙うという手段ならまだ理解できる。だが、これはもはやそれを遥かに超えていた。

 ──王族自ら、王族を裏切ったのだ。

 白色人種の中でも、世界屈指の地位を持つ者が、自らの財産を奪われたばかりか、王家の面目そのものを地に落としたのだ。

「狙いが見えない。こちらとしては、今すぐ強制的に下船してもらいたいところだ。これだけの茶番を仕掛けてまで……お前の目的は、一体何だ?」

 そう問う頭目に、アルーンはにこりと笑って答える。

「宮殿が派遣した侵略軍よりも先に、どうしても手に入れたいものがあるの」

 そう言って、アルーンは袖の中に手を差し入れ、一体の小さな人形──アバスを無造作に取り出した。ぬいぐるみのような姿をしたその自動人形は、彼女の腕の中でぎゅっと縮こまり、泣きそうな声を上げる。

『ギャー! 私はおいしくないです! ただの金属の塊です! どろどろに溶かされて売られるなんてイヤですー!』

「アバス、ごめんね。ちょっと静かにしてて。声紋認証コード、アルーン・ジェノバティカ。モード切り替え──待機」

 アバスの表情がふっと消え、全身の動きがぴたりと止まる。アルーンは周囲を見回し、航路図が広げられた机に目を止めた。今やほとんどの情報は空中投影か、脳内モニターによる表示が当たり前となった時代に、紙ベースの資料とは珍しい。

「その机、ちょっと借りるわね」

 そう言うと、アバスを丁寧に仰向けに寝かせ、服越しに腹部の装置を軽く押す。途端にアバスの口と両目が光り出し、空中に立体のホログラフがふわりと浮かび上がった。そこにはいくつもの箱型のアイコンが並んでいる。

 アルーンはその中の一つを選択し、次の瞬間、分厚い書物の映像が空中に展開された。指で空中をなぞってページを次々に送り、やがて一度止めて、少し戻す。停止したページには、見たこともない記号がびっしりと並んでいた。

 頭目が顎に手を添え、じっと覗き込む。

「自動人形か……ずいぶん高価なものを連れているな。それにこれは──前時代、英語から派生した古代文字の一種か」

「博識ね、驚いた。そう、これは私たちが知らない“ずーっと昔の文明”が遺した、偉大なる記憶の残滓。あなたたちが襲った第五級の宝物庫とは別に、“奥の間”という一級の堅牢な宝物庫があるの。このデータ媒体──紙の原本は、そこに保管されている貴重な一冊。存在を知る者は、私を含めてほんの数人しかいないわ」

 「つまり……こちらが奪った宝物は、あくまで表層のものだったというわけか」

 頭目の問いに、アルーンはあっさりとうなずいた。

「そうよ。あれは第五級の宝物庫。でも、それでも十分な収穫だったはずよ?」

 実際、彼女の言葉に嘘はなかった。今回の襲撃で手に入れた物資や財宝は、莫大な利益をもたらすものだった。このスザティーガ号に所属する三十名ほどの船員たちは、すべての維持費を加味しても、今後五年間は働かずとも暮らしていけるほどの分け前を得られるだろう。

「話を戻すわね。この世界には、すでにいくつもの文明が存在して、そして滅びているの」

 アルーンは、投影された書のページをなぞりながら語り始める。

「二つ前の文明では、“白と黒の大火かくばくだん”が世界を飲み込み、私の祖先──白の新人類が生まれた。そして一つ前の文明は“人工石”を生み出し、緑の新人類を残して忽然と姿を消した。この本は、その一つ前の文明が最盛期に遺した、貴重な記憶の断片なの」

 そう言ってアルーンは、一文が記された箇所を指差した。その先にあるのは、見慣れない記号がびっしりと並ぶ謎の文。

 彼女以外、誰もその文字を読めなかった。首をかしげる者たちの前で、アルーンは指先でページをなぞりながら、淡々と訳文を口にする。

「『内に眠る回転の法は地上のすべて、空も海も隔てなく人々に平等を与える』……そう書いてあるの」

「どういう意味だ、それは?」

「そのままの意味よ。地上の万物に分け隔てのない、平等をもたらす法則。私は……この“回転の法”が、どうしても欲しいの」

「そこで一つ、お願いがあるの」

 アルーンは一歩踏み出し、はっきりとした口調で言った。

「私は宮殿の外をほとんど知らないの。だから、旅先を案内してくれる人が必要なの。この船から一人……同行者を貸してもらえないかしら?」

 その頼みに、頭目は即座に眉をひそめた。

「面白くもなんともない冗談だ。他をあたれ」

 副長もすぐに続く。

「悪いがな、渡せる路銀もなければ、融通できる人手もない。次の町までは送ってやるが、そこで降りてもらう。それ以上は勘弁してくれや」

「そうはいかないわ」

 アルーンの声には意外なほどの固い意志がこもっていた。

「私の目的には、どうしても外界の世情に詳しい仲間が必要なのよ」

「……つまりは、死出の旅に部下を巻き添えにしろと? なんとも曖昧だな。具体的には何だ、それは」

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