疫病の退縮
北里が摂から国家規模の秘密を開陳された日から、二週間後。
ペストの勢力はついに底をつきはじめてとみえて、死者数が0を数える日が長らく続いた。
しかしそれに伴い血清製造に奮励してきた神谷教授から、これ以上血清製造は素材不足で出来そうにない、という旨の通達が届いた。
施設そのものが灰燼に帰した国立感染症研究所の復旧の目処は無論立たず、風月学園は自助によるペストの対処を余儀なくされた。
「血清の製造が不可能になったそうだ。ここ十日は新たな死者・患者は共に出ていないが、以後も予防には細心の注意を払うようにしてくれ」
夏の暑さも減退し始めた八月下旬、摂は体育館に空きが多く集まった生徒達に向け、引き続きの用心を呼び掛けた。
生徒達は壇上の摂の長袖姿を傍目に暑苦しく思いながら、定例の注意喚起に耳を傾け、集会は解散になった。
生存者の中には部活動を再開した人も多く、北里と共に死体運搬を担っていた角刈りは次期キャプテンやその人に追随していた実力人が総じて命を落とした結果、キャプテンに任命される恩恵に与って、インターハイ出場停止の悲嘆はどこへやら、内心では僥倖にホクホクしている。極めて薄情者だ。
薄情な角刈りとは関わり合う気にもならず、北里は多分に暇を持て余していた
教師によってはどうせ学校に蟄居状態ならばと、時間割を組んで授業を行っている者もいたが、北里は参加せず校舎の日陰で午睡を貪ったり、図書室に籠って手当たり次第本を開いたりしていた。
集会の後図書室に涼みに来た北里は、窓際で外景を眺めて心臓の辺りを押さえて佇んでいる梅野を見つけた。
「梅野さん、何やってんですか?」
北里が近づいて話しかけると、梅野は悪戯を見咎められた子供のように恐ろし気に振り向いた。
「べ、別に悪気はないんだ」
「は、なんのことですか?」
「僕は失礼するよ」
事件現場を後にする犯人のような慌てぶりで、梅野は北里の横を通り抜けて図書室から出ていった。
去り際の慌て様が気がかりで、梅野が立っていた窓の傍から同じように外を見る。
向かいの棟の一階に保健室があり、事務用テーブルで摂が紙に何やら書き込んでいる姿が窺えた。
梅野が先生を観察していたのか?
自分の思い付きに愕然として、北里は梅野の去った図書室のドアの外に懐疑を向けた。
八月二十九日の九時をもって隔離を解除、という県庁からの公示で、学園内に隔離された者達は歓喜に湧き返った。
公示が行われた日の二十三時を過ぎた深更に、タンクトップの男が淡い光の懐中電灯を片手に、保健室に足音を立てぬように慎重な足の運びで近づいていた。
男はドアを開け保健室に忍び入る。
保健室のスチールベッドでは白い布団の上に摂が、寝息も立てず床に就いていた。
摂の寝ているベッドを仕切る白いカーテンを、男は音が出ないよう両手でゆっくり開ける。
ベッドの上に無警戒の摂の姿を認めて、男は舌を回して唇を湿らす。
スーツズボンに長袖の薄手ブラウスの上に白衣を纏った格好の摂に、欲情に駆られ血走った目で上半身から下半身をねめ回す。
待ち望んだ場面が訪れた歓喜に口笛を吹きそうになる気持ちを抑えつけて、摂の白衣に手をかけた。
白衣を細腕から外して床に放り捨てる。次はどこを剥ぎ取ろうかと、脱衣の順番に悩む。
数秒悩んで、ズボンに手を伸ばす。
摂の腰のベルトのバックルを緩めて、ズボンを膝まで下ろした。
懐中電灯で摂の下半身に照らすと、その手に触れるのを期待していた白磁の柔肌に、明らかな異変が生じていた。
下着に被覆された鼠径部から膝に掛けての大部分が、赤黒く腫脹していた。
「嘘だ……」
愛しい女性の身をペストが侵している。その受け止め難い眼前の様相に、動きを止めて呆然と立ち竦んだ。
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