疫病による歪曲

 後一週間を経て、ようやくペストの勢力に陰りが差し始めた。

 昨日の死者数7 総死者数348

 時刻は深夜十一時。

 救護員から死者数の報告を受けた摂は、蓄えが僅かになったインスタントコーヒーを注いだカップを手に持って飲みながら、考察に耽っていた。

「何故急激に数が減ったんだ?」

「良い兆候じゃないですか」

 梅野は大事ではないというトーンで言う。同じくカップに注いだインスタントコーヒーを片手に持っている。

「良い兆候であることは確かだ。だからこそ、数が減った理由が分かれば対策を突き詰められる」

「難しく考えることないと思いますよ。理由は媒介者の減少じゃありませんかね」

 梅野は根拠として、この一週間で救護員の活躍により鼠の死骸の駆除が完了していること、生存者数が元の数の半数を割ったことを言った。

 摂は梅野の意見を納得しつつも、物足りない表情をする。

「それだけが原因ならば単純にペストの力が弱まってきたことになる。しかし対策を講じず、ペストが力を取り戻したら元の木阿弥だ」

「そうだね」

 梅野は若干生返事になった。眼前で頬杖をつき熟慮する摂の姿に、この場の討議に相応しくない性的な劣情を禁じ得ない。

 美しいよ摂、などと気障な台詞が口を衝いて出るのを抑えている。

「梅野、他に何か考えられるか?」

 頬杖をついたまま、目線だけ上げて摂は尋ねる。

 偶さかの上目遣いに、梅野はどぎまぎする。

「ああ、俺にはわからない」

「真剣に考えろ」

 きつい口調を浴びせられ、余計に梅野の頭は摂への欲情でいっぱいになった。

何も考えられなくなり、討議の席上にいるのが堪えられず、梅野は席を立った。

「疲れたから、俺はもう寝るよ」

「そうか。お休み」

 素っ気ないはずの摂の声が、今の梅野にはこの世で最も艶めかしく聞こえる。


 北里は割り当て時間が過ぎ別の救護員に療養室の番を交替してもらうと、疲れて重い身体を屋上へと歩ませた。

 深夜の屋上に出ると、真夏の暑さに反して涼しい風が頬に触れる。

 落下防止の網目のフェンスに、自分を屋上に呼び出した人物が凭れているのを見つけるのに、そう時間はいらなかった。

「渋三郎君、お疲れ様」

 フェンスに凭れている人物森下哲は、微笑を湛えて北里の労務をねぎらった。

「おう。哲の方は番は何時からだ?」

「次だよ」

「それまで寝なくていいのか?」

「うん、渋三郎君と話したくて」

 かねてから談話するつもりで屋上で待っていたらしい。北里は気遣う。

「待たせてごめんな、寒かっただろ?」

「ううん、夜風が気持ちいいよ」

 この後しばし会話が途切れて、二人は無言で夜風を浴びていたが、フェンスから身を起こした哲が唐突に口を開く。

「隔離生活も三週間が過ぎたよ。夏休みも半分なくなちゃった」

「そうだな。夏の間、どこにも行ってないのにな」

「渋三郎君は遠出する予定なかったでしょ」

 見透かしているぞ、という目で笑いかける。

 図星を指されて、北里は言い返す言葉がない。

「やっぱりね」

「予定がないから、どうしたっていうんだ?」

「どうもしないよ。ちょっとした変化が学園内に生じてることを、渋三郎君が気付いてるか訊きたくて」

「学園内のちょっとした変化?」

「うん、ほんとにちょっとした変化さ」

 世界の秘密を自分だけが知っているような、世の人を見下げる笑みを浮かべる。

 北里には哲の冷笑が星の瞬く夜空を仰いでいて目に入らず、真面目に考える。

「変化か。防疫意識が著しく高くなったこと?」

「それは間違ってないけど、僕が言いたいのはそんな人間の本能的変化じゃない」

 何故気付かないんだと嘆くように語気を強めた。

 初めて見る友人の剣幕に、北里は呆気にとられる。

「何をそんなムキになってるんだ、哲?」

「渋三郎君は三週間、何を見てきたんだ! 同調性、脆弱性、権勢欲、枚挙にいとまがないほど愚かな性質を備えていた。それの何一つも渋三郎君は見出せなかったのかい」

「俺は哲ほど人間観察に熱心じゃない」

「そうなんだ、説明しないとわからないんだ」

 哲は失望を噛みしめた。

 渋三郎君は世に拗ねてるんじゃなく、ただの鈍感なんだ。

「ごめんな、わからなくて。もし出来るなら、その哲の見出した性質を教えてくれ。何に興味があるのか、友人として知りたい」

「僕の事を友人として見ていてくれたんだ。ありがたいね」

 友人という言葉に哲は、暗然として冷徹な心がほぐれた気がした。

 わからないことでも理解しようとしてくれるんだ。

「いいよ。教える」

 哲は北里の呑み込みが容易くなるよう、頭の中でパラフレーズして説明する。

「ペスト菌で隔離されたと知った後、ほとんどの人が取った行動はまさに同調だったんだ。姉さんが救護員を募集したが、最初志願する人は僕と北里君以外誰一人いなかった。救護員になれば血清を優先して投与してもらえる見返りがあっても、周囲の人が志願しないから誰も志願したがらなかった。

 救護員になっているメンバーを思い浮かべてみてよ。ほとんどが日頃クラスで居場所に苦しんでる人だよ。

 そうして救護員にならなかった人達はペストに感染していった。そうしたら案外、ころりと死んでしまう。彼女に手を握られながらとか、友達と腹を切り合って臨終した人もいる。ペストの齎す死の前に逃げたんだ。

 でも中には自害せず治療を受けた人もいたよ。そのくせ恩義を預けるはずの僕たち救護員に盾突くんだ。死に際でも威張れると思い込んでる。

 そういった出来事から同調性、脆弱性、権勢欲の愚かな三つの性質を見出したんだ」

 北里はそれは確かに愚かだ、と納得の意で頷いた。

「ペストで性格が愚かに変化したんだな」

「違うよ」

 哲は北里の認識が浅い首を振って示す。

「違うのか」

「愚かさが露出して、今まで学園に流れていた気風そのものが一転したんだ」

「気風って目に見えにくいな」

「そうかもしれない。でも屈従関係と言えば少し思い当たるところもあるよね?」

「屈従関係か、例えば虐めとかか?」

「そうそう。ペストのおかげで、この学園内においては虐めは根絶されたはずだ。今まで虐めをしていた側が、いじめの対象だった者から看護という慈悲を与えられてる屈辱だろうね」

 ふふふ、と引き攣った笑い声が哲の口から洩れる。

 その哄笑に北里は友人の二面性を垣間見た。自分は哲の事を思い違いしていた、という悔しい実感を得た。

「お前がそんなことを考えていたなんて、俺はお前の事を全然知らないんだな」

「今の僕、気持ち悪いでしょ?」

「少しな。それは哲の本性か?」

「そうだね。気の置ける友達にしか見せない一面だよ」

 面白おかしく哲は笑った。

「渋三郎君の方は、いつも僕に見せてるのが本性?」

「ああ、俺は表裏ない男だからな」

 ははは、と渋三郎も機嫌よく笑い出す。

「せっかくだし、僕と姉さんしか知らない秘密も教えるよ」

 哲は和んだ空気に紛れて、姉弟の抱える内証話を打ち明けた。

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