救援となりし医学の大家

 爽涼な空気に満ちた軽井沢の一角、緑木に囲まれた別荘のバルコニーでウッドチェアにもたれて、ウイスキーグラスでダイエット用ゴボウ茶を飲んでいた神谷茂郎は、邸内が突然騒がしくなったことが耳に障った。

「またお袋にせっつかれてるのか。懲りんな」

 助手の毎度のドジを思い起こして、気にすることはないと神谷は腹の突き出た肥満体を椅子の上で身じろがせ、尻の痛くない姿勢になる。

 軽井沢の自然に全身を浸している神谷のいるバルコニーへ、ドタドタと忙しい足音が近づいてくる。

 足音の主は窓際で止まり、勢いよくガラス窓を開けた。

「神谷さん、大変です!」

「今度は何をしでかしたんだ」

 窓を開けて大声を出した助手に、神谷は振り向かず呆れた声を返す。ゴボウ茶をぐびりと飲み下す。

「俺は何もしでかしてませんよ。心外だ」

「うん? お袋からお目玉喰らったんじゃないのか?」

「毎回怒られてるわけじゃありません。それよりも懐かしい人物から電話ですよ」

「懐かしい人物、誰のことだ?」

 助手はニンマリと笑う。

「森下摂です、覚えてるでしょう?」

「ああ、あの才媛か。奇特な人物から電話が来たもんだ」

 神谷の記憶にある森下摂は、まさに才媛の名を欲しいままにしたエリート医学生だった。

 医学系の大学で教鞭を執っていた時期の教え子の一人だったが、忽然と姿を晦まして連絡が取れなくなっていた。それがまた三年経った今になって、何故電話を寄越してきたのか。

「とりあえず、電話代われ」

 神谷は助手から受話器を受け取る。

「電話代わったぞ。神谷だ」

『早急に血清五十個作って搬送してほしい』

 摂からの人様を顧みない要求に、神谷は反駁する。

「五十個もすぐに作れるわけがない。わしを過労で殺す気つもりか」

『くたばってもいいから、早く血清を作って送ってくれ。生徒達が死んでしまう』

「わしはまだ、くたばらんぞ。うん、生徒? 森下、今どこで働いてるんだ?」

『学校の保健師だが』

 神谷は開いた口が塞がらない。

「学校の保健師だあ? お前の頭なら研究機関でも働けるだろ、それに免許持ってるのか?」

『それは訊くな、うるさ型の教師たちにバレると差し障りがある』

「わかった。学校の保健師をしてることについては訊かないでおこう。それより、血清を作れと言ったが、何の抗血清だ」

『何も知らないのか?』

「そうだな。軽井沢の自然を満喫するため、無駄な情報は耳に入れないようにしているからな」

『なるほど、それなら知らなくても不思議じゃない』

「それで何の抗血清を作ればいいんだ」

『ペストだ』

 神谷は唖然とした。現代の日本にペスト!

「送れる準備が出来次第知らせるから、連絡先を教えてくれ』

『今話してる電話番号でいい』

「わかった」

 神谷が了承した刹那、ぷつりと通話が切られた。


「森下は血清を関取に依頼したのか」

 保健室のテーブルの上で生徒名簿に載った姓名を頭に叩き込みつつ、梅野は摂から血清の生成を頼んだ受け手の名を聞かされた。

「関取と呼ぶな。見苦しい体型は相変わらずだろうが、世界に名のある血清治療の大家だぞ」

「関取の人脈なら、国立感染症研究所でのワクチン製造も容易く依頼できるだろうしね」

「問題は供給数が間に合うかどうかだ」

 難しい顔つきで摂は対面に座る。梅野は名簿から顔を上げた。

「罹患者は何人?」

「感染したのが恥とばかりに、誰も感染の申告どころか診断さえ受けに来ない。おかげで罹患者数の把握しようがない。皆が皆、次の日になったら部屋の中で死んでる」

「なるほど、摂も案外信用されてないんだな」

 梅野がからかうように言う。

「所詮は保健室の先生だからな」

 鼻で笑い、自ら皮肉った。

 その時、保健室のドアがノックされる。

「入っていいぞ」

 摂がドアの外に返事をすると、ゆっくりとドアが開けられ二人の青年が敷居を跨いだ。

 入室してきたのは、森下哲と北里渋三郎の二人だ。

「この二人は?」

 梅野が摂に紹介を求める。

 摂が答えるまでもなく、二人は梅野に名乗る。

「森下哲です」

「北里渋三郎だ」

 哲は愛想よく。北里は仏頂面だ。

「どうも、梅野信二です。県庁の衛生課から来たんだ、よろしく」

 梅野は二人に軽く頭を下げた。

「二人は森下先生に用があるのかな?」

「救護員に志願しに来たんだよ。そうだよね、渋三郎君?」

「俺は哲の付き添いで救護員になるだけだ。哲がなる気がなかったら、俺はなる気はねえよ」

 北里は使命感でも大志でもない、友達付き合いでの志願だ。

 救護員を募集した本人である摂は、値踏みするように二人の体躯を見遣る。

「治療器具を運んだり患者を担架に載せたり、かなりの力仕事だぞ。仕事をこなせる自信があるか?」

「出来る限りのことはするよ、姉さん」

「ほどほどに仕事する」

 体力的には北里の方が壮健だが、さりとて哲はやる気に満ち溢れている。

 弟に力仕事に駆り出すのは気が引けたが、人員がいないよりマシか、と思い摂は自身に言い聞かせた。

「他にやってくれる人もいないからな。助かるよ」

 姉に助かると言われたのが嬉しく、勢い込んで哲が尋ねる。

「姉さん、何か仕事ない?」

「今はこれといってないな」

 病弱で支えられてばかりだった哲の瞳が、働く意欲で凛凛と輝いている。

 摂は弟のために急ごしらえの仕事を考え出す。

 自分の執務机の抽斗から無地の用紙を取り出して急いで書付けると、弟に差し出した。

「北里と二人で体育館から書かれた備品を持ってきてくれ」

「わかったよ姉さん。渋三郎君、行こう」

「ああ」

 用紙を受け取り、嬉々として哲は北里を伴って任務に繰り出していった。

 救護員二人の足音が聞こえなくなると、摂は背後からの微笑ましそうに見つめる視線に振り向く。

「なんだ梅野、私の様子が面白いか?」

「大学の時と変わってないなと思ってね。弟への愛は朽ちないんだな」

 険を含んだ目で梅野を睨み返す。

「うるさい、だまれ」

 詰られるのにも親しみを感じているように、梅野はヘラヘラ相好を崩した。

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