危機の認知と緊急集会

 平穏に生きてきた現代日本人には、病原菌で死に至るというのは、馴染みの薄い感覚であろう。しかし百年ほど遡ってみれば、往時の日本医療技術では不治の病であった結核病は、結核菌に感染することで発症する、まさに死神に近しいものだった。

 果たして風月学園における未曽有の事態は、ついに死者を出したのである。

 高温の発熱にうなされていた男子寮の数人が、医者の病名宣告も受けられぬまま、この世を去った。

「一体、何が起きているんだ!」

 学園理事長の石山が禿げあがった頭を抱えながら、慷慨悲憤した。

「落ち着いてください、理事長」

 この世も末の如く喚く石山を、教頭の柴田が宥めにかかる。

 が、石山は声が聞こえていないかのようにうおおおおお、と一人で悲嘆する。

「石山さん、みっともないですよ」

 理事長室に屑籠の反故を処分するためにたまたま部屋にいた、初老の域を超えた女性用務員の進藤が釘を刺す。

 石山は抱えていた頭から手を離して、途端に背筋を伸ばす。

「その通りで。しかし現時点で教諭の中にも体調を崩しているものがおりまして、事態は深刻かと」

 体調を崩した教諭と言うのは、前記されているサッカー部顧問の山田だ。

 おどおどと諫言する石山に、喝を入れるように進藤は言う。

「深刻だとお思いになるならば、今すぐに理事長自ら策を練りなさい」

「はっ」

 硬化してしまうんじゃないかと心配なるほど、背筋をピンと伸ばしきる。

「いいですか石山理事長。元理事長である私ならば、生徒の事を第一に考えて事態の対応から収束させるまで、頭を弱音は吐きませんでした」

 現理事長の陰に隠れて実権を握る進藤は、石山に苦言を呈すると、後の判断は委ねて理事長室からゴミ袋を抱えて別の場所へと去った。

 畏怖すべき元理事長の姿がなくなると、石山は教頭の方を向いて俄然尊大に命じる。

「お前がなんとかして対応策を案出し、生徒達に連絡しとけ」

 自分に押し付けるな、とポストの差に悲しくなりながらも、教頭は従順な顔で応諾した。

 その後すぐにウイルス感染に注意し、生徒と職員は予防に努めるよう指示する旨のメールが発信された。

 ウイルスの種類を断定できないが故の、学校側の情報開示の不足は否めない。

 ほとんどの生徒や職員が思い込みで、ウイルスをインフルだとかノロだとかと推断したのだ。

 メールの配信以降、生徒や教師の各々が感染予防に努めたのだが、風月学園を襲う細菌の勢力は衰えるどころか隆盛するばかりであり、翌日には十人の死者が出た。


 翌日、新たな死者数報告がテレビを通じて全国に放送された。

 昨日の死者数 七人。現在までの総死者数 十七人

 県庁の衛生課から派遣された調査員は、石山理事に学園封鎖を申し出た。

 理事は申し出を受諾、生徒への通知を行った後、学園封鎖を励行した。

 通知を受け取った生徒の何人かが、社会から切り離され病原菌によって殺されるのを恐れて、学園外へ逃げようと正門と裏門に集まった。

 しかし通知を受け取った時点ですでに遅く、外への門は当直で門番を務める二人の教諭によって閉ざされていた。

「俺達を外に出せ」

 金髪の男子生徒の一人が門番の教諭に訴える。

「気の毒だが、それは出来ない」

「何故だ!」

「先生にも訳が分からない。しかし、理事長からの指示なんだ」

 本当に気の毒に思っているのだろう、門番の教諭は悲痛な顔で言った。

 教諭の心の痛みはお構いなしに、金髪の男子生徒はがなり立てる。

「ハゲ理事になんて従ってられねえ、開けねえとぶっ殺すぞ」

「先生を殺したところで門は開かないぞ」

「嘘つけ、閉めたのお前達だろ」

 折り合いのつかない生徒と教諭の問答に、事態にそぐわない校内放送の軽やかなメロディーが被さる。

 門の前にいる者たちは静まり返る。

『生徒と門番以外の職員は全員体育館に集まってください』

 スピーカーから流れたのは、生徒達には聞き覚えのない緊張感のある若い男性の声だ。

『現在この学園に起こっている事態についての説明を行います。これはあなた達の生死に直接関係する話です』

 学園内に散らばっている生徒たちは、声の正体に疑問を持ちながらも各々体育館へ歩き出す。

「お前たち、体育館に行くんだ」

 門番の教諭は、放送に聞き耳を立てていた門前の生徒らに言い付けた。

 ぐちぐち不平を呟きながら、抗議の生徒達は門前から体育館に爪先を向けた。


 北里は他の生徒達と同様、体育館に来ていた。

 生徒の規律には目を見張るものがあり、教師の誰に指示されるでもなく、普段の集合隊形で並んでいる。

 北里は二年二組の男子列の半ば辺り、前の男子の後頭部を見ながら列が整うのを待つ。

 整列が済むと北里のクラスの人達は揃って腰を下ろした。

 全クラスが座ると急に規律を乱してざわざわと各自が近くの者と、集合のかかった理由を憶測し始める。

 パチン、と誰かが手を打ち鳴らした。体育館内ははたと静まり返る。

「静かにしれくれ」

 手を打ち鳴らした人物の森下摂はいつの間にか壇上にいて、生徒達から視線を集めた。

「今回の状況について詳しい方が来てる。生徒のお前達にはちょいと難しい話だが、かみ砕いて説明してくれるだろう」

 体育館前方左の入り口から、皺のある白衣を身に纏った研究者然とした若い男が入ってくる。

 壇上に上がって摂の隣に並んで立った。

 男性は摂からマイクを手渡し、咳一咳して口火を切る。

「僕は県庁の衛生課から事態の原因を明らかにするために派遣されて来ました、梅野信二です。

大変な事態になっていることは生徒である君達も理解していると思う。しかし今学園内で起こっている惨事については知らされていないはず。

 なので今から僕が知り得る限りのことを説明します」

 体育館中の人が梅野の言葉に耳を傾けている。隣の摂も静かに梅野の話す内容を聞いている。

「ではまず学園内で蔓延しているウイルスつまり病菌について。症状を検分したところ、僕はペスト菌だと判断しました」

 梅野の宣告が波紋のように体育館に広がり、生徒たちは途端に騒めき出す。

 騒めきを制することなく梅野は続ける。

「ペストいわゆる黒死病とも呼ばれているこの菌は、皆さんの認識だと流行ったのは中世で今では撲滅された、もしくは消滅したと思っているかもしれません。しかしペスト菌の最終流行は、世界的規模で見れば、わずか百数年前の十九世紀末に日本からも程近い異国の台湾で起こりました」

 騒めきが実質を伴った恐怖を孕む。

「ペスト菌は現在も存在しています。アジアではここ数年でも感染した実例があります」

「なんでこの学園でペストが繁殖してんだ?」

 男子の一人が切羽詰まった様子で質問する。

 梅野は質問を聞いて、苦々しく表情になる。

「目下調査中です」

「ふざけんな、俺はまだ死にたくねえんだ」

 男子は死に至る感染病に晒されている憤懣をぶつけた。

 梅野が言い返せないとわかると、男子はさらに詰め寄る。

「しかもよ、学園内に閉じ込められて病院に行けねえじゃねえか。どうやって病気治すんだよ」

「閉じ込めているのではありません、感染拡大を防ぐための隔離です」

「俺達からしたら同じことだ」

「……」

 梅野は生徒の訴えに返す言葉がなかった。

「バカ生徒には手が焼ける」

 そう零して摂が梅野に手のひらを差し出して、マイクを要求する。

 梅野は摂にマイクを渡す。

 摂はマイクを口に近づけ、小学生の屁理屈の如く梅野に詰め寄った男子に向く。

「滝川だったか、学園に閉じ込められてるって言ったな?」

「ああ、森下先生なら生徒の気持ちわかってくれるよな?」

 強い同調者を得たような気持になって、男子は聞き返す。

「そうだな……」

 嘲笑って冷ややかに言い放つ。

「学園から出たいなら私の権限で出してやろうか? とはいえ外に出たところで隔離室で今より厳しく隔離され、政府の厳重管理下に置かれるだけだぞ。お前はそんなところで一人寂しく居たいか?」

 男子は返答に窮して押し黙った。

 摂は男子から視線を移して、教師陣も含めた館内の全員を見渡すようにして告げる。

「いいか、お前達。学園から出ても命は助からないと思え、血清が届かない限り、病院に行っても無駄に菌をまき散らすだけだぞ」

 体育館中に沈鬱が漂う。

「血清が届かなかったら?」

 女子生徒の一人が手を挙げて、おずおずと尋ねる。

「心配するな。私のツテで血清を入手できる手筈はついてる」

 断言する摂に女子生徒はそうですか、と安堵した笑みを浮かべて挙げていた手を下ろした。

 他に質問が挙がらないのを見て取ると、摂は自ら願い出る。

「お前達に頼みたいことがある」

 何を言い出すんだ、と言う目で梅野が驚いて隣の摂を見た。

「今回の事態が収束するまで、私と一緒に救護活動をしてくれる生徒はいないか?」

「摂さん。知識も経験もない素人に救護活をさせるなんて、感染者が増える一方でしょう?」

 梅野は即座に反対の意を持って、摂に訊き返した。

「活動に参加してもいいって奴は、挙手」

 梅野の問いには答えず、摂は有志を募る。

 生徒たちのどこからも手は挙がらなかった。

「さすがに手を挙げる奴はいないか」

 希望する者がいないことを見込んでいたかのようにふっ、鼻から息を吐く。

「参加者してくれる者は極力良い待遇を与えてやるつもりだ。皆の前で手を挙げにくかったかもしれんしな、参加したい者はいつでも保健室に来い」

 そう生徒達へ念入りに要請して、マイクを梅野に返した。

「他に何か質問はありますか?」

 梅野は摂の思いがけない急募に毒気を抜かれ、説明する気をなくし質問を促すに留めた。

 生徒達からの質問はなかった。

「これで集会を終わる、解散だ」

 マイクを使わずして声高らかに、摂は緊急集会を終了させた。

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