B 僕らの夜明けは、この音楽から

12小節目 すばらしき合奏のせかい

 合奏前の音楽室は、数多の楽器の音がごった返す混沌とした異様な空間だ。その空間の中に、僕はいる。


 トランペットに息を吹き入れる。きらびやかな音を発することができるトランペットも、音を出すための小細工をしなければただの細い金属の管だ。ただの息のノイズを大きくしただけの音しか出てこない。

 しかし、その音がはっきりと分かるくらいに震えていることに気が付く。ああ、今僕は、すごく緊張しているんだ。とっくのとうに自覚していたことだけれども、それを耳で改めて感じてしまう。


 緊張する。ここ最近で僕はこの感覚をどのくらい味わってきただろう。入学式。クラス発表。仮入部。本入部。ドレミファソラシド。……そして、今。少なくとも、たった二週間くらいでこんなに多く緊張するなんて経験は僕にはなかった。まあ、たかが12年ちょっとしか生きていない僕ではあるが。


 今日は、この前に配られた曲の初合わせだ。Awakenedアウェイクンドゥ Likeライク the Mornモーン。6月に行われる西部地区研究発表会にて演奏する予定の曲だと、顧問の長谷川はせがわ先生が言っていた。


 ちなみに西部地区研究発表会とは、中学校/高校の吹奏楽部が集まる演奏会で、県の吹奏楽連盟が主催するイベントだ。東西南北4つの地区に分かれて開催され、ここ真島中学校は西部地区に属している。そして、西部地区の研究発表会は週末を中心に飛び飛びの6日間にわたって開催され、真中まっちゅー吹奏楽部は2日目、6月の第1日曜日に出演することとなっている。


 つまるところ、僕ら新入部員にとってはこれが初めての本番の舞台、ということだ。そこで演奏する曲がこの曲ということになる。思い出にならないわけがないな、これは。


 さて、トランペット初心者どころか楽器初心者である僕は楽譜が読めない。けれど、楽譜にドレミを書き込んだり、先輩と一緒に音を確認したりして曲の内容はあらかた把握した。音楽室で参考演奏を聴いたほかに、youtubeでも参考演奏があったのでそれも何回か聴いている。だから、曲の全体像も掴んではいる。

 楽譜が読めなかったら、身体に染み込ませてしまえばいい。こと身体に染み込ませるという面では、小学校までやっていた水泳の経験が役に立った気がする。もっとも、水泳とトランペットでは使う身体の箇所がまるで違うのだけれど。


 学生指揮者の3年生、花岡はなおか恵里菜えりな先輩が前に立ち、手を数回叩く。すると数多の楽器の音であふれかえっていた音楽室がすっと静かになった。


「チューニングやります。1年生は隣にいる先輩の真似をして吹いてね。じゃあまずバンドブックの――」


 ついさっき配られた基礎合奏のプリントがさっそく出番のようだ。厚めの、でもまだ空き場所の多い新品の黒いクリアファイル。僕は花岡先輩から指示されたプリントをファイリングした場所を見つけて開く。


 合奏前には、こうして全員でのチューニング、楽器の音程合わせがあるらしい。音程を合わせるだけじゃなくて、本来なら楽器に息を入れることで固くなった身体を柔らかくする、なんていうウォームアップの効果もあるんだろうけれど……当然、これも僕にとっては初めてのこと。ウォームアップで緊張するなんておかしいけれど、でも、事実緊張してしまうわけで。

 だから身体が上手く使えなくて呼吸が浅くなってしまい、楽器に息がそもそも入らない。あのドレミファソラシドの時は思い切り吹けてたけれど……あの時のように謎の視線が引っ張り上げてくれる、なんてこと当然ないわけで。


 僕は今から初めて演奏するこの曲について、参考演奏というお手本を知っている。だからこそ、そのお手本に近づけよう、お手本通りじゃないといけない、なんて気持ちが知らず知らずのうちに広がって、恐怖心に近い慎重さが生まれてしまったのかもしれない。初心者の僕がいきなりお手本のような音を出すなんて出来るわけないのに、どうしても見栄を張ってしまうというか、ダサいのが怖いというか……。


 チューニング合奏が終わる。長谷川先生が来るまで再び音出しの時間だ。音楽室がまた、楽器の音で騒がしくなる。

 すっと、横から何かが僕の譜面台の上に置かれる。紙の切れ端のようだ。ピンク色のペンで何か書かれている。


『初合奏ファイト♪ 分からなくなったら、未瑠みるちゃんの音をきけばいいよ』


 差出人はトランペットのパートリーダー、やまかおる先輩だ。どうやら僕の緊張は音に出てしまっていたようで、それをほぐす意図で渡してくれたのだろう。

 元気な先輩のキャラとは裏腹に、女子らしい華奢な字体。僕が横を見ると、小さくはにかみながらウインクを飛ばしてきた。後でちゃんとお礼を言おう。


 分からなくなったら、同じパートを吹く2年生の粕谷かすや未瑠先輩の音を聴く。粕谷先輩は僕のすぐ隣に座っている。ただ、今までのパート練習では正直粕谷先輩の技量にはあまりいい印象を持っていない。音量こそ大きいけど、それくらいだ。

 けれども先輩であることには変わりないし、僕が初心者であることにも変わりない。ふと横の粕谷先輩を見ると、先輩は曲の楽譜を真剣にじっと見つめていた。今まで見たことのない粕谷先輩の真面目な表情だ。

 それもそのはず、粕谷先輩には曲の途中にソロパート、つまり一人きりで吹く場面がある。ソロを貰えたと知った時には無邪気に喜んでいた粕谷先輩だが、やはりいざ合奏の時が近づくとなると緊張してくるのだろうか。それとも、どう演奏するべきかを考えている……?


 結局僕には粕谷先輩が何を思っているのかなんて、まったく分からない。けれど、僕にはそんな粕谷先輩が少し頼れる存在に見えてきた。



--※--



 落ち着いて、ゆっくり。分からなくなったら周りを聴いて。長谷川先生は指揮台に立ってからそんなことを言っていた気がする。気がする、というのは、それだけ僕が緊張しているということだった。一応山先輩のメモのおかげで少しはましになっていると思うけれど。


「初めてだから、このくらいのテンポで行こう」


 長谷川先生は隣に置いてある電子キーボード……確か、ハーモニーディレクターって言ったっけ。それをいじって、等間隔で鳴る無機質な電子音を提示する。参考演奏よりも一回り遅めのテンポ。そのことが分かるだけ僕は大丈夫だ。極度の緊張で身体が硬くなっている自分自身に、そう言い聞かせる。


「よし。それじゃあ、やろうか」


 電子音が切れる。長谷川先生が指揮棒で譜面台のふちを軽く叩くと、軽く詰まった金属音が鳴った。そしてそのまま、指揮棒を構える。周りの先輩たちが一斉に楽器を構えるのを見て、僕も慌ててトランペットを上げる。僕の体温に染まった金属の感触が唇に当たると、ふっと何かが抜けた感じがして、少し心に余裕が出てきた。その心の余裕を、今やるべきことを思考することで埋め尽くす。

 最初の音。フレーズ。頭に思い浮かべ、それを唇の形に反映させる。理論じゃない。感覚で、身体でやる。今の僕には、それしかできない。


 先生が指揮棒を振り上げる。僕は思い切り息を吸って、そして……指揮棒が叩きおろされてちょうど打点を作ったところで、肺にため込んだ空気を楽器に吹き入れつつ、唇を震わせて音を解放する。みんなも同じようなことをして、そのまま音楽が始まるはずだった。

 しかし、頭が全く合わない。バラバラとした音楽の始まり。それだけじゃない、何かが足りない、聴こえてこない。僕は違和感を感じる場所、メモを差し出してくれた人がいる場所を横目で見る。


 山先輩はトランペットを構えたまま遠くを見つめていて、息の一つも入れずにただただぼーっとしていた。……何かを、見ているのだろうか。なぜか僕はそう思ってしまった。

 僕でも感じるその違和感に長谷川先生が気づかない訳がない。指揮棒を譜面台にトントンと叩き、演奏を止めるよう僕らに求めた。


「ストップストップ。曲の出だしっていうのはすごく大事なんだ。もう少し緊張感を持って、しっかり合わせよう。いいね?」


 はい、と先輩たちの小気味いい返事。僕も慌てて返事を重ねる。なんだか、引き気味でカッコ悪い返事になってしまった。


「あと……トランペットの、2nd方面なんだけど……山さん? 生きてるかい?」

「はっ!?」


 びくん、と身体を跳ねさせる山先輩。どうやら本当にぼーっとしていたらしい。合奏なのに。


「どうしたの? 何か楽譜に虫でも止まってた?」

「い、いえ! 指揮棒を構えた長谷川先生がなんかカッコよく見えてて見とれてました!!」


 その山先輩の一言でみんなが思わず笑ってしまう。無論、僕もだ。山先輩は長谷川先生のことが好きなんだと、誰にでも分かるような爆弾発言。


「あはは、それはごめんなさい。でも慣れてね?」


 長谷川先生の上手い切り返しにさらに笑いが生まれる。音楽室を知らず知らずのうちに支配していた緊張感が、あっという間にどこかに行ってしまった。


「……さてと、気を取り直して。出だし、集中ね」


 長谷川先生の指揮棒が上がるのに合わせて僕は再びトランペットを構える。さっきよりもずっと身体が軽い。頬も唇もすごくすごく楽に感じる。これはまた、山先輩に感謝かもしれない。


 指揮棒が下りて、打点を作る。先ほどとはまるで別バンドのような、気持ちよく揃った出だし。発する音が軽くなって、遠くまで飛んでいくような感覚。聴いて、吹いて、違いが分かる。気持ちの持ちようでこんなにも音って変わるんだ。


 僕ら金管楽器群のファンファーレの後に、低音楽器と打楽器が曲に推進力を与えるのが聴こえる。それに付随して、木管楽器の軽快な音色が、金管のロングトーンの周りをくるくると回るかのように装飾する。ばっと視界が……いや、この場合は『聴界』って言った方がいいのか? とにかく、そういうのが開けたかのような感じを僕は覚えた。


 あとはもう流れに乗って、身体のなかに落とし込んだ音楽を再現していくだけだ。打楽器が引いて、トランペットだけのメロディーが始まる。前へ前へ進む土台をしっかり踏みしめて、今の僕にできる音で吹奏していく。どうたとえればいいだろう。……そう、音の波をサーフィンしていくような、そんな感じだ。2回目の繰り返しは小太鼓と大太鼓、そして木管の装飾も加わってより大きな波になる。そこを気持ちよく、僕はサーフィンをしていく。


 カラオケとは違う。声を出して歌うよりも、トランペットを吹く方が難しい。でもその難しさが楽しさに繋がってくる。あと……自分の演奏がそのまま、少なからず伴奏にも影響するというところも何だか新鮮だった。ただ上に乗っかってるだけじゃない。何らかのフィードバックが返ってきて、それを感じることができる。

 初心者の僕が、しかも初めての合奏を今まさに体験している僕が、何でここまで気持ちの余裕が持てて、ここまで考えることができて、そして……ここまで、合奏の楽しさを僕なりに理解することが出来ているのだろう。自分でも不思議だった。

 不思議だけど……偶然とかそういうのじゃなくて、必然だと僕は思ってしまう。思い上がりでもいい。今、楽しいんだ。


 木管主体のシーン。打って変わって、柔らかく流れるような音が空間を包み込む。ここではトランペットはお休みだが、精神的には全く休みでも何でもない。出番を間違えないようにしなければいけないという、また違った緊張感が襲ってきていた。

 休みが明けた次の音はフォルテ、つまり強く。そして強調して吹くことを指示するアクセント記号もある。つまるところ休み明けの音はすごく大事な音であり、出遅れる訳には、自信なさげに吹く訳にはいかないのだ。身体の中に予めなじませておいた曲と、今聴こえてくる初合奏の響きとを照らし合わせて……そして、息を再び肺に取り込む。


 ここだ! 僕が思い描いたタイミングと同時に、長谷川先生の指揮がトランペットに出番を知らせる。僕は迷いなく、楽譜の音を叩きつけることが出来た。そしてそのまま前半部分のまとめのメロディーをフォルティシモ、とても力強い音で刻み付ける。



--※--



「トランペットの音。すごく思い切りが良くって、怖いもの知らずって感じがした。でも……もうちょっと、周りと合わせよっか。気持ちよくなりすぎてる。あと……」


 ……上手くいった、と思ってても実際は上手くいってないわけで。というか、そりゃ当たり前だよ。僕、初合奏なんだし上手くいくはずがない。長谷川先生にこんな感じでやんわりと指摘された。とはいえ、合奏の興奮冷めやらぬ身体ではちょっとばかりの指摘では全然凹まない僕だった。


 合奏後、このように長谷川先生が簡単にアドバイスを言ってくれている。手短だが、やはり分かりやすい。


「……最後にサックス。というか佐野さのさんなんだけど、やっぱり上手いね」

「ほんとですか!?」


 最後にサックス。1年生ながらアルトサックス経験者の佐野心音ここねに話がいく。心音は褒められて思わず起立してしまい、周りからはクスクスと笑いが漏れる。


「う、うん。だけど、やっぱりソロ慣れしすぎてるなって思った。この曲にはロングトーンでハーモニーを作るところがあるでしょ? そこで佐野さんの音が目立っていて、あんまりいい響きになっていないんだ」


 父親にアルトサックスを教えてもらっていたという心音は、楽器の経験こそあれど合奏の経験はない。だから、他の音とハーモニーを作るという経験をしたことがなくって、ここでつまづいてしまうんだろう。


荒船あらふねさん。今度この曲をパート練するときは、その辺ちょっと気にしてもらってもいいかな」

「はい。分かっておきました」


 同じ楽器を吹いている3年生、荒船あらふねしおり先輩が先生の提案にうなずいた。当の心音はというと、少しうつむき気味に楽譜をぼーっと眺めていた。


「……と、まあ色々は言ってはみたけれど。どうだった、このメンバーでの初合奏は」


 長谷川先生がぱっと表情を明るく見せる。それはさておき、ということなのだろう。


「特に一年生。初めての吹奏楽の演奏だ。楽しい? 緊張した? 難しい? それとも、上手くいかなくて悔しい?」


 ゆっくりと周囲を見渡す長谷川先生。僕は……楽しかった。緊張した。難しかった。結局上手くいっていないことが分かって、ちょっと悔しかった。全部当てはまっちゃってるな。

 しばらくして、長谷川先生が言葉を続ける。


「……何でもいいんだ。合奏によって心に浮かんだ気持ちは、何でもいい。だけど、今、ここで浮かんだ気持ちは絶対に忘れないで」


 ぐっと胸の前で握りこぶしを作り、僕らに伝える。


「これから先、部活は楽しいことばかりじゃない。部活というのは壁にぶつかって、乗り越えることの繰り返しだ。自分の技術的な壁だけじゃない。人間関係の壁だったり、理不尽な壁がそびえたつことだってある。でも、俺たちはそれを乗り越えなければいけない」


 うすうす分かっている。分かっているけれど、自分の事には思えない。そんなことを、長谷川先生は言う。


「壁に阻まれて、見失いそうなとき……今のこの体験、この気持ちがきっと心の支えの一つになってくれる。俺はそう思うし……実際そうだったんだ」


 実際そうだった。ぼーっと聞いていた僕を、この言葉が一気に興味を引き寄せた。


ここじゃないんだ。ここで、しっかり覚えておいて。……いいね、みんな」


 長谷川先生は、手を開いて胸元を二回強めに叩いた。僕は噛みしめるように、部員のみんなに乗っかって返事をした。


 ……多分この人、思った以上に熱い人だ。先生の言葉の節々から、僕はそう思ってしまった。

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