11小節目 『個人練』
パート練習で、初めての本番で演奏する曲の楽譜を受け取って少し練習した後、僕たち吹奏楽部員は音楽室に集められていた。その曲の演奏CDをみんなで聴くためだ。
鮮烈だった。
顧問の
音楽室のスピーカーが金管楽器群のきらびやかなファンファーレを発したその瞬間から、究極に整えられた吹奏楽の音の集合体は僕の心を捉えて離さなかった。音にぐっと掴まれるような感覚さえ覚える。
同じ一曲なのに、様々な音色が、様々なフレーズが色んな表情を見せて僕に関わってくる。時に元気に、時に勇ましく、そして時に感傷的に。
それに、この響きは……とても、あったかい。
……なんか、泣きそうになっていた。いいな、って思っていた。
そして、そういう可能性を秘めた曲を僕らが演奏できるんだ。
楽器を始めたての僕にとっても、決して無理のない難易度で。
吹奏楽って、いいな。
5分ちょっとの音源を聴き終えて心に浮かんだ感想は、それだった。
--※--
あの音源の余韻が身体中をめぐる。中々収まりそうになかった。そんな僕をよそに、吹奏楽部の活動は終わって解散となる。
「あれ、
幼馴染の
「うん。……ちょっと、残りたい」
「そう? それじゃ、先に帰るね。ばいばーい」
「ん。じゃあね」
僕は心音を軽く手を振って見送る。出口の微妙な段差に若干つまづきかけたのは見なかった振りをしよう。
あの曲をもっと知りたい。もっと、自分のものにしたい。楽器初心者ながら僕はそんなことを思って、ちょっと音楽室に残って練習をしたいと思った。
それと、居残りで個人練をする理由はもう一つある。部長で弦バスの
少し時間が経つと、沈みかけの夕陽に照らされた音楽室は僕と中井田先輩だけになる。トランペットと弦バスの持ち場所はそれなりに離れている。そして、指導をしてもらう訳ではないから近くに行くこともしないので、僕と中井田先輩の距離はだいぶ離れたままだ。
「私のことは気にせず、練習していていいからね」
なんて言葉をいただいたので、僕は自分にできるテンポで楽譜をなぞり始める。楽譜が読めない僕は音符の下に書きこんだドレミを読んで、何の音を出せばいいかを理解する。そして、トランペットパートのパートリーダー、
出てくる音はやっぱり下手。それに、ところどころ指を間違えてしまったり、音を外してしまったり。とてもとても、あの音源の演奏からは程遠いクオリティ。
それでも、あの音源のメロディーをちゃんと真似できるっていうのは中々に楽しいものだった。上手い下手を抜きにして、僕はトランペットをちゃんと吹けているんだ。
僕は僕の練習に集中し始めると、やがて中井田先輩の方からも音が聞こえてくる。多分先輩も、今日配られた楽譜の確認をしているようだった。チューナーから聞こえる小気味良い電子メトロノームの音に合わせて、一音一音丁寧に、明確に、正確に、ベースラインを弾いている。確かめるように、踏みしめるように、けれども音楽は滞ることなくスムーズに流れていく。僕と比べると雲泥の差だ。
そういえば、僕は音源を聴いたとき弦バスの音を感じることが出来ていただろうか? 多分、全くできていない。注目していたのはトランペットの音だったり、そうじゃないときは大体主旋律ばっかり。伴奏だったり、ましてや低音なんかは完全に意識の外にあった。だから、こうして低音のパートだけを聴くと結構新鮮に感じてしまう。
こうしてしばらく、互いに各々の楽譜の確認を各々のやり方でし続ける。山先輩の話だと、中井田先輩の個人練は威圧感ありすぎて個人練どころじゃなくなる、なんて言っていたけれど、今のところはそんなことはなくて少し安心した。
……って思っていたのも、つかの間だった。
妙な違和感を覚えて、僕は思わず音を止めて周囲を見渡してしまう。一切の音が止んで静かになる音楽室。あの違和感……『視線に引っ張られる』ような、そんな違和感。
そう。昨日部員たちの前で新入部員はドレミファソラシドを一人ずつ演奏したのだが、その時と似た感覚を僕は感じたのだ。そして、当然その視線の送り主は、どこにもいない。いるのは弦バスの弓を構えた中井田先輩だけで――。
先輩が大きく息を吸い込む。オーバーとも言える動作で弓を大きく振りかぶる。
弦に弓が叩きつけられ、弦バスがわめき叫ぶ。
静寂を切り裂く弦バスの悲鳴。それは、脳天を鈍器で殴られたような衝撃を僕にもたらした。
音楽室の床が小刻みに震え、合奏体形に並べられた学校椅子たちが小さくガタガタと音を立てる。僕の足の裏からもその振動は伝わって、しびれるような感覚を覚える。
そして、その床から中井田先輩の音が反響して僕に伝わる。それはまるで意味を成さない音の羅列で、想像を反する音に直面して思考の整理がつかない僕に容赦なく襲い掛かる。鋭く磨かれた剣で斬りつけられるような、美しいとはお世辞とも言えないような野蛮できりきりとした音。そして、中井田先輩自身から放たれる強烈な威圧感。僕は身体を動かせなくなる。
さっきの確認するような明確かつ正確な音とは正反対だ。目にも止まらぬ弓使い。弦を抑える左手の指たちがせわしなく動く。理性じゃなく、本能で弾いているかのような――そんな印象。
先輩の言っていた通りだった。これでは、僕はトランペットに口を付けることすらできやしない。
ひたすらに僕を責め続ける弦バスの激しい音の塊。僕はもう何もできない。まるで、恐ろしい魔女の儀式を目の当たりにしたかのようだった。
中井田先輩の超絶技巧。すごい、とかじゃない。これは……『怖い』。
なんで、なんで、こんな人がこんなところにいるんだろうか……?
下校時間のチャイムが鳴るまで、僕は一切の音……いや、呼吸以外の一切の身体の動作すらできずに、ただ中井田先輩の『個人練』の暴力に打ちのめされ続けていた。
--※--
「気にしないで練習していいよって言ったじゃない、もう」
「いや……無理です……」
スクールバッグを持って、僕は中井田先輩と一緒に廊下を歩いている。中井田先輩の手には音楽室の鍵。当然職員室に返すためだ。
「私が個人練すると、みんな居づらいだのなんだのって言うのよね……」
中井田先輩はそう言って小さくため息をつく。自覚、ないんだ……。
「一回ね、合奏前の音出しでさっきみたいな感じのをウォームアップでやったことがあってね。みんな音を出すのを止めて、固まっちゃって……それで、かおるをはじめとした色んな子から苦情が来て」
「苦情、なんですね……」
「ええ。それでさっきのを普段は封印してて、放課後にそれをやってるのよ。出来るなら、普段からやりたいものだけれど……」
先輩には悪いですけど、ぜひご遠慮いただきたいです。なんて、口には出せないけれど。
そんな感じのエピソードを聞いていると、職員室の前に着いた。中井田先輩が鍵を返しに中に入り、僕は外で待機する。
待っている間にふと思い浮かぶ疑問。送り主不明の、あの『視線』のことだ。
引っ張られるようなとしか形容できない謎の視線。そして、その視線を感じると何かしらの変化が起こる。昨日のソロコンサートの時は完全に上がっていた僕が落ち着きを取り戻した。さっきの個人練では、中井田先輩が恐ろしく激しい音の豪雨を降らせるきっかけになっていた。
僕が体験したのは以上の2回だけ。だけれど、心に相当引っかかっているものがある。他の人に話してもおそらく『?』で返されるだろう。しかし、中井田先輩なら、もしかして何かしら知っていたり、分かっていたりするんじゃないだろうか?
中井田先輩が職員室から戻ってくる。何事もなく鍵を返し終えたようだ。僕は、つい先ほど思い浮かんだ疑問を中井田先輩にぶつけることにした。
「……あの、先輩」
「どうしたの?」
「えっと、変なことを聞くかもしれないんですけど……音楽室で変な『視線』って感じたりしません?」
「視線……?」
「その、まるで引っ張られるような視線を」
「……?」
僕のあては外れたらしい。一体何を言っているんだ、っていう表情だ。それでも、ちょっと突っ込んで聞いてみる。
「俺、さっき感じたんです。先輩が激しく音を出す前に、そういう視線を」
僕がそう言った途端、中井田先輩の顔がピクリと動いたのが分かった。表情こそあまり変わっていないが……多分、何か知っている。
でも。
「……ごめんなさい、私には心当たりはないわね。気のせいじゃないかしら」
「そう、ですか」
多分、これは僕に知られたくない何かってことなのだろう。中井田先輩は答えをはぐらかし、新参者の僕も僕でこれ以上追及することはしない。割り切れないもやもやしたものは確かにあるんだけど。
「こちらこそ、変なこと聞いてしまってごめんなさい」
「いいのよ。先輩としては、後輩の質問は頼られているって感じがして嬉しいものよ? どんなことでも」
「は、はい」
くすりと笑う中井田先輩の横顔に、僕は思わずドキリとした。簡単なことですぐに跳ね上がってしまう思春期の僕の心臓が少し恨めしく思う。
「ねえ、帰り道ってどっちの方?」
「俺ですか? えっと、
「そっか、じゃあ私とは逆ね」
「駅の方です?」
「そう。私の家、駅から近いから中々便利なのよ」
もし一緒の方面だったら、多分一緒に帰れたんだろう。そう思うとちょっと残念だ。
間もなく、1年生側の昇降口に着く。方面が真逆であることが分かった以上、当然ここで中井田先輩とはお別れだ。
「先輩は一人で大丈夫なんです?」
「ええ、いつも一人だから大丈夫よ。心配ありがとう」
「分かりました。では、お気をつけて」
「さよなら、また明日ね」
僕は軽く会釈をして、下駄箱に身体を向ける。日は既に、ほとんど沈んでいた。
外に出ると、春の風が心地よく僕の身体に当たる。帰り道を歩いていてもまだ、今日あった出来事の余韻が響いている。
中井田先輩の激しい個人練。『あの視線』について何か知っている風な態度。
それだけじゃない。すぐに退部する人が6人もいて、それを不思議に思わない部活。山先輩だって、過去のことに対して何か隠している節がある。そして、入部して分かったことなのだが、3年生がたったの5人しかいない。もともと全国大会に出るほどの実力がある強豪校が、たった5年でどうしてそこまで落ちぶれるのだろうか?
……やはり、この吹奏楽部は何かがある。身体の奥で妙なざわめきを感じながらも、僕は一人で帰り道を歩く。
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