8小節目 たかがドレミ、されどドレミ

 僕ら1年生の楽器体験が終了し、全員の楽器が決まった翌日。初日から大きく楽器が変わった人は数人で、ほとんどの1年生は初日に言われたとおりの楽器となった。

 無論僕はトランペットに確定。マイ楽器持ちの心音ここねはアルトサックス、そしてその友人の越阪部おさかべはフルートに決まった。


「楽器が決まって早速だが、1年生のみんなには課題を出そうと思う」


 長谷川先生からの『課題』という響きに僕らは身体を緊張させる。


「ドレミファソラシド。今日はこれを演奏できるようになってもらおうと思う」


 なんだ、ドレミか。じゃあもう大丈夫だな。……なんて、余裕ぶっていたのもつかの間だった。


「多分、昨日までの段階でもう全部簡単に演奏できる人もいると思うんだ。でも、これを『みんなの前で』やるとなったら、それはどうだろう」



--※--



 楽器別に分かれて練習を行うパート練。打楽器は音楽室で、その以外の楽器は他の教室を借りて行う。もちろんトランペットパートもそうだ。


「あたしと未瑠みるは2人で練習をする。で、見澤みさわくんと玲奈れなちゃんは個人でドレミの練習。それじゃ、教室の前と後ろに分かれて開始!」


 3年生のやまかおる先輩の指示で、パート練習が始まった。変人こそ多いが、活動内容は至って普通で安心した。もし活動内容までぶっ飛んでいたら僕は間違いなく生きて帰ってこれない。


 ……それにしても。


「プレッシャー半端ないんだけど……」


 ドレミファソラシド。一人でさらっと吹くだけとなれば、もう大丈夫。しかし、これをみんなの前で、たった一人で吹かなければいけない。

 手汗がにじむ。下手すると水泳の大会以上の緊張かもしれない。まだ、パート練習が始まったばかりだというのに。おかしいな、聴かせる相手がいて初めて楽器が吹けるという特技の意味があるというのに……。


 ふと、隣を見てみる。僕と同じくトランペットを担当することになった1年生、高野たかの玲奈。背の小さい彼女は、トランペットを片手に持ったまま難しい顔して何かぶつぶつ言っている。


「始まり、新鮮、安定、踏み出し……そして、転換、腐りかけ、不安定、踏み外し……終わり、消滅、安定、落下……」


 ……何の呪文だろう。何にせよ、そこまで考え込まなくてもいいだろうに。


 とりあえず、このまま放っておくと念仏で練習時間を終わらせかねない勢いだ。僕は高野にちょっと話しかけ、練習を促してみる。


「なあ……とりあえず音出して練習したらどう? そんなに気負わずにさ」

「そんな軽い気持ちで音を出したら音に対して失礼ですっ」


 むっとした表情で言い返された。まさか怒られるとは思ってなかった。


「ドレミファソラシド。それを一通り奏でるだけでも、それは立派な音楽ですっ。ボクはそれをないがしろになんてしたくありませんっ」


 何だろう。本人は至って真面目なんだろうけど……何か、ズレている。残念ながら、この人も頭吹奏楽部らしい。


「音というのはたった数秒で消えてしまう儚い命。その命、一音一音に貴賤きせんはありませんっ。音という命を勝手に生み出して勝手に殺してしまう無責任なことをする前に、せめてもの真心として、ボクは入念にイメージを考えているんですよっ」


 今日はやたらと長文セリフに当たる気がする。そして、また再びぶつくさと独り言を言い始める。

 これはもう僕には手に負えない。放っておいた方が僕のためだな。うん。そう思って僕がトランペットを吹こうとしたとき。


「ん? どうかしたの?」


 山先輩だ。こちらの様子が気になって、見に来てくれたようだ。とはいえ、高野が練習しませーん、なんて言ったら好感度が下がりそうなので……。


「あ、先輩。何でもないですよ、大丈夫です」


 ホントは何でもあるけれど。まあ、その……正直察してほしい、って感じで。


「ふーん、そっか」


 山先輩は僕と高野を一瞥する。そして、いつも通りの表情で。


「玲奈ちゃん。とりあえずあたしに聴かせてみて」

「は、はいっ! 先輩のお望みとあらばっ!」


 あれだけぐだぐだ言ってた高野が山先輩のたった一言で簡単に折れた。先輩の空気を読む能力に心底感謝すると共に、高野に僕は一体何だと思われているのか少し悲しくなった。


「ボク、やりますよっ。やりますからねっ……」


 少し力んでいる様子の高野は深呼吸をして、いかにも全く慣れていない様子でトランペットを構える。明らかに手が震えている。いくら何でも緊張しすぎじゃないのか……? 僕はそんな高野の様子が少し心配になる。


 そして最初の一音を――案の定出せなかった。

 息を吸い、トランペットに吹き込み、首を横に振ってもう一回息を吸って……こんな調子で何度かトライする高野。しかし、かすれた情けない音しか出ない。


「ご、ごめんなさいっ。ボク、こんなはずじゃないのに……」


 がっくり項垂れる高野。その小さな身体は悔しさに震えていた……いや、悔しいというよりは何かに怯えているような、そんな身体の震わせ方じゃあ……?

 しかし、そんな高野を見ても山先輩は全くうろたえることもなく、優しく語りかける。


「音に対してあれこれ真剣に考えるのはとてもいいんだけど、まずは音自体を安定して出す練習からしよう? いい音というのは、どうしても数多あまたの音の犠牲があってようやく成り立つものだからさ」

「は、はい……ごめんなさい……」

「そんなに落ち込まないの。ほら、ファイトファイト!」


 山先輩は椅子に座って落ち込んでいる高野の目線に合わせるように屈み、ウインクしてみせた。


「は、はいっ……!」


 ぐっと手を握る高野。僕にはどうしようも出来ないくらい難攻不落に思えた高野でも、山先輩の手に掛かればこの通り。

 山先輩には、何か特別な力でもあるのだろうか? 人を元気にさせるような、そんな力が。だとしたら、とても羨ましい。


「山先輩、すごいですね……」

「ううん、あたしは大したことしてないから。むしろ玲奈ちゃんがあんなに頑固に出た方がびっくりだったよ」

「そうなんです?」

「うんうん。あたしや未瑠が話したときにはすごく素直な子だなって思ったんだけど。まさかあんなにダダこねるなんて」


 ……やっぱり僕、高野に見下されてないか?


「まあ、この部、見ての通り一癖も二癖もある子ばかりだからさ。見澤くんも慣れたほうがいいよ?」

「あはは、そうですね……」

「って、生き残っている時点で見澤くんも癖有りみたいなもんか!」

「ぼ、僕は違いますって!」


 僕は違う。せめてそう思いたい。……女子ばかりの部活に男子がいるって時点で癖有りみたいなものなんだけどさ。


「そういえば……先輩はあんまり癖なさそうですね」

「んーん? あたし、周りからよく言われるんだよ。『前向きすぎて怖い』って」

「前向きすぎて怖い……?」

「そそ。悪いことじゃないと思うんだけどねー、どうやらそれがあたしの癖有りなとこっぽいんだよ」


 まあ、度が行き過ぎた前向きは確かに怖いとは感じるけれど、今のところ山先輩におかしなとこはないと思う。


「そうなんですか。……じゃあ、部長の中井田なかいだ先輩。あの人も常識人っぽいじゃないですか」


 弦バスを担当している中井田先輩。僕は仮入部の際に楽器体験で直接教えてもらったが、親身にかつ分かりやすく教えてもらった覚えがある。


「あー、文香ふみかはね、ああ見えて結構癖有るのよ」

「そう……なんです?」


 山先輩はにこにこしながら、中井田先輩について話し始める。


「うんうん。文香は毎日、学校が閉まる時間ギリギリまで音楽室にいるんだよね」

「ギリギリまで……何をしているんですか?」

「練習だよ。なんか恐ろしいくらいに超絶技巧やってる」

「ちょうぜつぎこう……」


 なんか、すごそう。実際中井田先輩にはすごそうなオーラあったし。


「うんうん。興味本位であたしも一緒に残ったこともあるんだけれど、文香の個人練が威圧感ありすぎてあたしが練習どころじゃない位」

「個人練で威圧感……」


 中井田先輩、やっぱりとてつもない人物らしい。


「見澤くんも残ろうと思えば残れると思うから、一度味わってみたらどう?」

「そこまで言われたなら、ちょっと見てみたい気もします」

「あはは、立ちすくんで帰れなくならないようにねー?」

「そこまでなんだ……」


 何だろう。中井田先輩が、今日になって急に恐ろしい存在になりつつある。もしかしたら元々恐ろしい人だったのでは……?

 いやいや。そんなこと、ないか。


「さて、と。お話はこれくらいにしてお互い練習戻ろっか」

「そうですね」


 僕はトランペットを構え、目を閉じる。

 みんなの前で吹く。一時間もすれば、その時はやってくる。そう思うだけで緊張が僕を包み、息が浅くなってしまう。


「……みんなの前、緊張します」


 緊張に押し出されて思わず漏れる弱音。山先輩はそんな僕の弱音を優しく拾い上げてくれた。


「あたしもだよ。本番の時なんか、いつもいつも。でも、聴いてくれる人がいてこその吹奏楽だから、ね?」


 山先輩が胸元に握りこぶしをあてる。優しく微笑みかける山先輩の瞳に、僕は思わず吸い込まれそうになる。


「きっと、見澤くんにとって今日は大事な経験になると思う。だから、大切に吹いてみよ?」


 大切に吹く。たかがドレミ、されどドレミだ。僕は今日、誰でも知っているようなこの簡単なフレーズに命を懸ける。


「はい!」


 僕は強くうなづいて、個人練習に戻った。大切に、しっかり、丁寧に。意識をはっきりと持てたおかげで、僕はうまい具合に集中できたと思う。

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