7小節目 平常運転

「……昨日今日で6人も取り下げるだなんて、何かおかしいと思わないか」

「え……」


 放課後の廊下。今年から吹奏楽部の顧問となった長谷川はせがわ先生から聞かされた、衝撃の一言。

 本入部から2日での出来事だ。当然長谷川先生やその他部員が大きな問題を起こしたというわけでもない。なのに、6人もの退部者が出た。


 この吹奏楽部に、一体何があるんだ……? 僕は動揺を隠しきれない。


「6人も……ですか?」

「そうなんだよ。中にはわざわざ親が出向いてきたのもあって」


 親が出向くって、相当なのではないだろうか。何かよからぬ噂が流れているのだろうか。つい最近まで別の所にいたというのもあるのかもしれないけれど、僕は何も聞いたことがない。


「そこまでして入らせたくないってことなんですか……?」

「だとしたら、何が原因なんだろう。少なくとも俺は、変なことはしていないつもりだけど……でもなあ……」


 長谷川先生は参ったな、といった感じで天を仰いだ。さすがの先生もこの出来事には堪えるようだ。

 すると、そこに。


「大丈夫ですよ。去年もそんな感じでしたから」


 そう言い放ったのは、吹奏楽部の部長である中井田なかいだ文香ふみか先輩だ。その微笑みには動揺や焦りなんてものはこれっぽっちもなく、むしろ余裕すらあった。


 怖い。気持ちが悪い。そう思ってしまった。

 6人も辞めている現実があるというのに、何で平気でいられるのだろう。


「去年もって……」

「はい。去年は14人来て、そのうち5人がすぐに辞めてしまいましたから。比率的に言えば、今年は良化していますよ」


 1、2日で辞める人が大勢いるということ。中井田先輩はそれが当たり前であるかのように振る舞っている。

 分からない。それは、当たり前のことではないはずだ。それとも新入生である僕と新任である長谷川先生が無知なだけで、中学校ではよくあることなのだろうか。


 長谷川先生は大きく息を吐いて、思い切ったように聞く。


「……なあ、この吹奏楽部に何が起こってる? 俺は今年から入った身だから何も分からないんだ」


 柔和で爽やかな普段の声とはガラリと変わった、硬さの感じられる真剣な声。僕は少し長谷川先生に気圧されてしまう。


 しかし、中井田先輩はそんな長谷川先生にも全く動じることがなく。


「何もないですよ。入部を取り下げたのはただ単にその人達が判断したからです。やっぱり私にとって、この吹奏楽部は必要じゃなかった、と」


 口調は柔らかいが、その内側には痛烈な冷たさが込められていた。

 ここから先は、立入禁止だと。あなた達には教えることではない、と。


「そうか。ありがとう、納得したよ」


 そして、その冷たさに圧されたのだろうか、それともこれ以上踏み込むのをためらったのか……まるでさっきの感じが幻であったかのように、長谷川先生は微笑みを見せて普段の柔らか爽やかな感じに戻ってしまった。

 とは言っても、いくらなんでも簡単に引き下がりすぎじゃ……?


 ……何だ、この違和感。まるで、僕がおかしいみたいじゃないか。

 2人が常識で、僕が非常識。なんだ、なんなんだこれ……。


「では、先生。今日も一日頑張りましょうね」

「……ああ、そうだな。そうだ、今日の楽器体験をもって楽器を確定させるつもりだから、楽しみにしていてくれ」

「ええ。私のところにも新しい子は来ますか?」

「もちろん。この部の未来のため、弦バスの後継を作らなければいけないからね」


 普通じゃないことを、まるで普通であるかのように流していく。


 胸の中がつっかえる。すごく、気持ちが悪い。


 そう言えば、トランペットの粕谷かすや先輩が僕に仕掛けた超高速拘束術だって、そして幼馴染の心音ここねがサックスを護身用と称して持って帰っているのだって……普通じゃないし、常識からぶっ飛んでいる。心音のは少し考えすぎなのかもしれないけれど。


 普通じゃないのが当たり前。そうだ、吹奏楽部というのはこういう所なのか。

 それで、その違和感に耐えきれなくなった人たちがすぐに辞めてしまうんだろう。

 普通じゃない。気持ち悪い。僕もそう思う。そう、強く思う。


 ……でも。けれど。その、普通じゃないものの中にある何かが、僕を捕らえて離さない。

 僕だって意味が分からない。ただ、その感覚はそうとしかたとえようがないんだ。

 普通じゃないものの中にある何かから脅されているような感じがする。

 『もう、逃げられはしないぞ』と。


 真島ましま中学校吹奏楽部。普通じゃないその場所で、僕は一体何に染まっていくんだろうか? 一体、どうなってしまうのだろう?


 3年後、すっかり吹奏楽部に染まってしまった僕は、一体どんな――。


「……あれ?」


 いつの間にか僕の両手がピンク色のスカーフで固定されていた。これは、もしかして。


見澤みさわくんから退部の波動を読み取ったから超高速拘束術で捕まえといた」

「……」


 トランペットパートの2年生、粕谷かすや未瑠みる先輩に捕縛された。

 どうやら本当に、僕の退部は許されないことらしい。


「どこから出てきたんですか」

「さーて、どこでしょーねー」

「……」


 僕、この先輩に勝てる気がしない。ツッコミを入れようとしてもこんな調子でかわされるし、何かしようとすると拘束されるし、そもそもしようとしなくても拘束される。無理です。


「んじゃ、大人しく楽器出そっか」

「はい……」


 僕は両手を拘束されたまま、音楽準備室へと連れて行かれる。何だろう。この一連のやり取りだけで割と疲弊している。さっきの中井田先輩と長谷川先生のやり取りの衝撃が吹っ飛んでしまう程に。


「あれ? 俺の楽器、まだ確定してないと思うんですけど」

「決まってるよ? トランペット」

「え、だって楽器体験は今日までってさっき先生が……」

「気のせい気のせい」


 気のせいじゃないんだよなー……。でも、ほぼほぼトランペットで確定しているようなものではあるんだけどさ。


「はい。昨日使ってた楽器出して」


 両手を解放される。特に反抗する理由もないので、僕は大人しく言われたとおりにする。棚にしまってある十数個のトランペットのケースの中から、昨日使っていたものを取り出した。いい感じに渋い赤茶色のハードケースだ。


「よいしょ……っと」


 そのハードケースを床に置いて、中が開かないように留めてある金具をガチャリと外す。僕はこの、金具を外す感覚というものが結構好きだ。


「いい音だよね、それ」

「あ、先輩も分かります?」

「分かる分かる。粕谷が1年生のとき、ずっと金具を開け締めしてて壊したことあったから」

「……それは分からないです」


 先輩から実に頭吹奏楽部なエピソードを小耳に挟みつつ、僕は中身を出した。程々に重量感のある、金色に鈍く光るトランペット。わりかし新しめみたいで、目立った傷や凹みもない。


「よしよし。今見澤くんの手にあるその子が、向こう3年間の苦楽をずーっと共にするパートナー。深く深ーく、愛してあげてね?」


 息混じりでわざと色っぽく言う粕谷先輩。先輩じゃなかったら僕は大きなため息をついていた。


「愛するって……」

「何? 欲情してる?」

「してません」


 一体粕谷先輩は僕をどんな生き物だと思ってるんだろう。僕は普通に人間。12歳の至って健全な男子であるが故に楽器には欲情しない。

 ついでに粕谷先輩にも欲情しない。全く。女性としての魅力云々よりも、そもそも疲労がガッツリ溜まって欲情どころではないというのが本音。


「粕谷は欲情するけどなー、普通に」

「……」


 それどう反応すればいいのか分からないです。


「よいしょっと……よく見てよく見て。これ、粕谷の伴侶なんだけどさ。まずはここ。このね、ベルの曲線。細い細いところから一気に欲望を開放したかのようなね、この超官能的な……」


 僕はトランペットを持ち出してスイッチの入った粕谷先輩を無視して準備室の外に出ようとした。が……


「あ、逃げられないからね」


 いつの間にか僕の両手両足はピンク色のスカーフで完全固定されていた。一体全体、僕を縛る時間がこの短時間でどこにあったというのだろうか。


「……でね、でね! ここここ。この輪っか、2つの輪っか。知っての通りここに指を入れて持つんだけどさ、この最初は冷たくて時間が経つにつれて粕谷の体温に染まっていく感じ? そこがものすごく来るっていうか、ああああっ! って感じで……」


 弦バスを取りに中井田先輩が音楽準備室に来てくれるまで、僕はこの生き地獄を死んだ魚のような目をすることによって何とか耐え忍んでみせた。


 この先3年間、果たして僕は生存しているのだろうか?

 そんな疑問さえ思い浮かべながら、僕は新しく決まったパートナーを眺めてみる。




 ……なるほど、じっと見つめてみると意外と可愛いかもしれない。

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