2小節目 過去の栄光
音楽室の窓から、オレンジ色の夕陽が差し込む。ふと外の空の色を見ると、紫とオレンジが微妙に混ざりあった感じになっていた。
それを美しいとか、もしかしたら気持ちが悪いとかそんな風に思う人もいるかもしれない。でも、慣れないことをしていた疲れからか、僕にはそれを見て何か感じる余裕はあんまりなかった。
「なんだか上達が早い気がする。男の子だから音も大きいし……さっすが長谷川先生、見る目があるかも」
仮入部の時間が終わりに近づき、トランペットの楽器体験も一区切りついた。この1時間弱で、僕はとても人に聴かせることができないような汚い音を数音出すのが精一杯だったが、それでも
にしても。
「唇が痛い……」
そっと自分の唇を人差し指で撫でる。普段使わない頬の筋肉を大量に使ったせいか、その部分がひりひりとする。あとやっぱり、疲れる。
唇を横に思い切り結んで振動させる。その振動が楽器によって増幅されて、音となって出てくるのがトランペットをはじめとする金管楽器の仕組みらしいのだが、当然そんなこと普段しないわけで。
「あはは、あたしも最初そんな感じだった。なっつかしいなー……」
少し遠くを見つめる山先輩。……僕にはその横顔が、単純に懐かしんでいるだけの顔には思えなかった。
あの元気で常にハイテンションな山先輩だからこそ、僕はその細かい違いにも気がついてしまったのかもしれない。とはいえ気のせいと流してしまえば気のせいで流れてしまう感じの掴みどころがない良く分からない感覚でもあるから、僕が突っ込んだことは聞けるはずもなかった。
「さて、楽器片付けよっか。こっちはそんなに難しくないから安心してね」
--※--
楽器の中に溜まった水を抜いて、オイルをバルブ(音程を変えるために指でがちゃがちゃするやつ)に注油して、最後にそれ用のクロスで楽器を軽く拭く。ああ、確かに簡単だった。
楽器の中に水が溜まるって聞いたときはびっくりしたんだけど、息に含まれる水蒸気が温度差によって水になって溜まるってことらしい。ちなみに『断じてツバではない』と山先輩は強調していた。
「ね? 簡単でしょ? クラリネットとかその辺の楽器はちょっと時間がかかるんだけど、少なくともトランペットはこんな感じ」
「なるほど……」
「あとは丁寧にケースにしまっちゃえばおーしまいっ」
金色の、結構きれいなトランペット。僕はそれを、ふかふかの布? みたいな何か高級そうな布? で覆われた……何というかそんな感じのケースの中に、傷がつかないよう恐る恐る丁寧にしまい、箱を閉じて金具をガチャリと留めた。
重厚感のあるいい音、いい感触。僕はこの感触が、何だか好きになりそう。
「先輩、終わりましたよ」
ただトランペットを片付けただけなのに、妙に爽やかな達成感を感じる。初めての体験をこうして一つちゃんと最後まで終えるということ。単純なんだけど、気持ちがいい。
「よくできました。それじゃあ、音楽準備室行こっか」
「音楽準備室、ですか?」
「そう。楽器にメトロノームに、他にも部活関連の物が色々と置いてあるとこ。音楽室の隣の、あんまり目立たない小さな部屋だよ」
トランペットのケースを大切に抱えた僕は、山先輩に案内されて共に音楽準備室に入る。学校備品の楽器やメトロノームが所狭しと置かれ、本棚には吹奏楽の楽譜がぎっしり詰まっている、薄暗くてやや狭い物置みたいな場所。音楽準備室という名前ではあるが、実質吹奏楽部しか使っていないらしく、そのためかコンクールの賞状や集合写真なども壁に飾られていた。
「……全国大会の賞状がある」
その中で目を引いたものを僕は思わず声につぶやいてしまう。吹奏楽コンクール全国大会銅賞。僕はその賞状をはっきりと見つけた。
「昔は結構強かったんだよねー、ここ」
「昔は……ですか」
「そ、昔は」
あ、トランペットはここね。山先輩がしまう場所を指示してくれたので、僕はそれに従う。隣で眠っているトランペットの数が、今の部員に比べてとても多いことにも気がついてしまう。
もっとよく、全国大会の賞状を見てみる。この賞状は5年前のものだ。つまり、僕が小学校2年生の時……そう、あの思い出の演奏を聴いた時と同じ時期だ。
やっぱり、この吹奏楽部はあの時の吹奏楽部と同じらしかった。でも、昨日のあの演奏を聴く限り、正直今の吹奏楽部には強豪校の面影などこれっぽっちも残っていない。
「まあ色々とあって、今はこんな感じ。……気にしなくていいよ、今の
これ以上踏み込むな。明るい言葉の隙間から覗いてくる、かすかだが確かな拒絶の色。僕はそれを読み取って、大人しく……
「……はあ」
……しかし、曖昧な返事を返してしまった。
「あはは、ちょっとがっかりした?」
そんな返事を返してしまえば、当然今は上手くなくてがっかりした、なんて思われてしまうわけで、僕は慌ててそれを取り消そうとする。
「あ、いえ! そんなことじゃないんです」
「いいのいいの、気にしないで」
どうやらそれもお見通しだったらしい。……まあ、上手くなくてがっかりしたというのは、嘘ではないからなあ……。
「でもね、あたし。あんまり上手くなくっても、この部活好きだよ?」
それでも山先輩はそんなことを言う。やっぱり山先輩はとても前向きで、僕は少し眩しさを感じてしまう。上手い下手で仮入部を迷った僕が、まるで小さな人間に思えてしまう。
「そう、なんですか?」
「うん。だって楽しいんだもん、音楽やるの」
楽しいんだもん。……単純だけど、好きになるには十分な理由。ついさっきまで仮入部すら迷っていた僕の心に、すっとその一言が入ってきた。
そっか、そうだよな。単に音楽を楽しむのに、上手い下手は関係ないんだもんな。
――でも、相手の心を突き動かす演奏っていうのは――。
「どしたの? 難しい顔して黙り込んじゃってさ?」
どうも僕は山先輩の言うとおりの状況に陥ってたらしい。……音楽やるのが、楽しいから、か……。
「あ、ああ、いえ。何でもないです、あはは……」
「そ? ならいいけど」
山先輩の言葉が身体の奥隅でぐるぐるとループしている中、とりあえず僕は笑ってごまかす。そんな僕を見て、山先輩はこう言ってくれた。
「まあ、こんな部活ではあるんだけどさ……あたしはぜひ入ってほしいなって思ってる。見澤くんの代のタイミングなら、きっと後悔しないと思うからさ」
僕の、代?
「俺の代の……?」
「あ、ううん、気にしないで」
「……はい」
山先輩といい長谷川先生といい、2人の言動に結構引っかかることが多い気がする。気にはなる、なるけれども……所詮部外者である僕からは、やっぱり突っ込むことはできない。
「……それにあたしさ? 長谷川先生、結構やり手だと思ってるんだよ?」
そんな僕の気持ちなど全くお構いなしに、山先輩は小さくウインクを飛ばしながらそう付け加えた。
--※--
仮入部2日目が終わった。夕陽の眩しい帰り道を、僕は何だかんだで心音と一緒に歩いていた。もっとも二人っきりではなく、もう一人だけ一緒に帰る人がいるけれど。
「
こんなセリフとは裏腹に、声質はわりと高めの声で身長も低め。ただ、抑揚はあまりついてなく、表情もあんまり変化していない。
心音曰く、僕が転校した後にできた友人らしい。なんというか、変わった子を友達にするよな、心音……。
「夢佳、ついつい話の流れで吹奏楽部に誘ってみたんだけど……どうだった?」
心音が越阪部に今日の感想を聞く。ほんのりと越阪部の口角が上がった気がした。
「中々面白い所じゃないか。心音がアルトサックスのマエストロだという事も、この目と耳で確かに記憶したことだし」
「ちょっと、マエストロだなんて大げさだよー!」
心音の顔が分かりやすく赤くなる。越阪部の言葉選び、結構気恥ずかしくないか?
「あはは、失敬失敬。私は別の楽器……クラリネットを体験したのだが、情けないことに音が出るまで30分もかかってしまった。何せ楽器を吹いたことなんて、ピアニカとリコーダー以外ないものでね」
何だろう、僕は少し安心した。この辺には吹奏楽部の楽器を使う小学校のクラブ活動はない(打楽器を除く)ため、他の1年生はみんな初心者なんだ。心音が例外中の例外なだけ。
「それが普通だって。ウチも父さんに初めて教えてもらった時、全然音が出なくって泣きわめいたのを覚えてるから」
「なんと、心音もそうだったのか」
「うんうん。ウチも最初から吹けてたってわけじゃないからね。小3からずっと練習してきて、今のウチがあるってだけ」
僕は小さい頃の心音も努力家だったのを思い出した。鉄棒の逆上がり、縄跳び、一輪車……その他の色々なことにも手を出して挑戦し、努力していたことを覚えている。
そして、心音は積み重ねた努力が必ず結実していたんだ。僕とは違う。
「それじゃあ今は不甲斐ないこの私でも、やがて心音のようなマエストロになれるということか?」
「うん、なれるなれる。ウチはまだまだマエストロってほどじゃないけど……」
照れを隠せないながら、心音が言う。いつも努力が上手く行ってた心音のようになるとは限らないと思うんだけどな……僕みたいに、さ。
「えっと……と、とにかくっ。良かったら明日も吹奏楽部に来るといいよ? きっと昨日より上手くなってるはずだから」
「ああ。別の楽器にも触れてみたいと思っていたところだ、ぜひそうさせてもらおう」
相変わらず越阪部の顔はあまり変わらないけれど、少なくとも興味は持っているようだった。下手になっていただけで放心状態に近くなっていた僕が、何だか馬鹿みたいに思えてくる。
純粋に楽しめばいいじゃないか、音楽だもの。山先輩みたいにそう割り切れてしまえば、なんと楽なことか。でも、下手なのは嫌だ。下手だと思われるのは嫌だ。そういう余計なプライドが、僕の邪魔をしてしまう。
「
心音が僕の心情を知ってか知らずか――まあ、多分知らないと思うんだけど、無邪気にそう聞いてくる。僕は、少し考え込んで……
「……まあ、多分、行くんじゃないかな」
……こんな、切れ味の悪い返事を返したのだった。
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