1小節目 僕は押しに弱い

 翌日。行く宛を失った僕は、仮入部の時間になっても自分の席でぼーっとしていた。


悠斗ゆうと? 行かないの?」

「ん……」

「おーい、生きてるー?」

「んー……」


 心音ここねに顔の真ん前で手を振られても、僕は曖昧な反応しか返せない。そりゃそうだ、僕の胸中に深く印象に刻み込まれていたあの演奏がもうどこにもないと知ったんだ。

 僕はただ単に吹奏楽をしたいというわけじゃなかった。あの思い出の演奏を、僕らで作り出してみたい。そう思っていたんだ。

 それが不可能だと知ったら、僕は……何の動機もない、空っぽの人間になってしまう。


「じゃあ先に行くね。……あ、そうそう」

「何?」

「今年の吹奏楽部、新任のイケメンな先生が顧問になるんだってさ」


 ……だから、何なんだよ。ウキウキした様子の心音が教室を出ていくのを呆れ気味に見届ける。浮ついた心音がガシャン、と教室の扉に思い切り激突したのを見て、なおさら僕は呆れた。

 そんな騒がしい心音がいなくなると、僕はふらりとスクールバッグを持って立ち上がった。吹奏楽部に入らないなら別の部活に仮入部に行かなければいけないのだが……まあ、適当に勧誘で捕まったところに行こう。

 そんな軽いことを思いつつも、やっぱり空っぽは空っぽのまま。僕は相変わらず何も思えず、何も考えられず、ただただぼーっとしたままで教室を出た。


 すると。


「うわっ」


 男の人の驚いた声とともに、身体全体に来る軽い衝撃。……やってしまった。


 注意力散漫になっていた僕は、思い切り他の人にぶつかってしまった。そして、その人が運んでいた何かの紙が廊下に散らばってしまう。……これはマジでやってしまった。


「ご、ごめんなさい!」


 目が覚めた僕は、慌てて謝って散らばった紙を拾う。これは……楽譜……? 英語の題名だ……あわけんで、らいくざ……もーん?


「あ、ううん、気にしないで。俺、よく人にぶつかっちゃうみたいでさ。注意しているつもりなんだけど……」


 散り散りになった楽譜を一緒に拾ってくれているのは、学ランではなく灰色のポロシャツを着た、若い大人の人……そう、先生だった。

 心音が言っていたイケメンの先生って……もしかして?


「えっと、もしかして……吹奏楽部の顧問の先生、ですか?」

「え? あ、うん。今年からだけどね」


 当たった。この人が噂の先生か。確かにすらっとしていて、背もそこそこ高くて、顔も声もいい。甘いマスク、なんて言葉がぴったり当てはまるような人を僕は初めて生で見た。

 にしても、他の部を探そう、なんて思った直後に吹奏楽部の顧問とぶつかってしまうとは……ちょっと、ツイていない。


「もし、興味があったら仮入部来てみてよ。男の子でも歓迎……というか、俺も昔吹奏楽部だったから大歓迎だからさ」

「……はい、考えますね。これで最後……と」

「ありがとう。助かったよ」

「あ、長谷川はせがわ先生ーっ!」


 最後の楽譜を拾い上げた瞬間、遠くから聞き覚えのある声がした。これは……あの、トランペットの3年生だ……。

 長谷川先生と呼ばれた、吹奏楽部の顧問の先生に僕が隣にいる。そして、すごくハイテンションなあの3年生が、遠くからでも目立つポニーテールをなびかせながらこちらにやってくる。……嫌な予感がした。


やまさん。どうしたの?」

「それ、研究発表会でやる楽譜です?」

「正解。楽器始めたての1年生も参加できる感じの、難易度抑えめな曲」

「おー! どんなのか後で聴かせてくださいね!」

「まあまあ。1年生が正式に入部した後に音源流すから、それまでお楽しみに」

「むー。ケチですね、先生」

「どこもケチじゃないと思うけど……」


 さっき僕が拾った曲がまさか、僕らも演奏する曲だったなんて。僕が吹奏楽部に入れば、の話だけれど。

 でも、嫌な予感というのは大体的中するって言われているけど、今回は珍しく外れそうだった。このまま長谷川先生と山さんがはけてくれればいいんだけど……。


「あ、君はもしかして……昨日演奏を聴きに来てくれた男の子?」


 ……あ。山さんに気づかれた。終わった、そう感じた。


「へー、じゃあ最初から興味持ってくれてたんだ。嬉しいな」

「そうなんです。ついにウチの部にも待望の男子が来ますよ、先生!」

「あ、あの……」


 実は俺、別の所回ろうと思ってて……なんて、言う暇もなく。


「ね、入部希望でしょ? ね?」


 ……あんな期待に満ちた眼差しで、山さんにそんな言葉を投げかけられたら。


「もし行きづらかったら一緒に行くよ。どうかな?」


 そして、表向きはただ優しく笑顔をたたえて僕を誘っている長谷川先生から、わずかばかりながら『絶対に獲物は逃さない』というオーラを感じてしまったのなら。


「……は、はい」


 当然断れるはずもなく、結局僕は首を縦に振ってしまったのだった。



--※--



 山さんに長谷川先生。2人に流され連れられて、僕は昨日と同じ場所、4階の音楽室へと向かっていた。まあ、元々一番最初に勧誘された部活に行くって決めていたからそんなに嫌々でもないんだけど、さ……。


「お……」


 その途中、聞こえてくるサックスの透き通るような綺麗な音色。音が楽しげに、上に下に、弾んだり伸びたりと自由自在に動いている。このメロディは……知っている。テレビで聞いたことのある、僕の知っている曲だ。


 上手い。昨日の演奏で僕は落ち込んでいたけれど、こんなに吹ける人がこの部にちゃんといるんだ。僕は少し救われた、そんな気がした。


「へえ、情熱大陸かぁ。……でもこんな音で吹ける子、ウチの部員にいたっけ?」


 長谷川先生が思案する。……え?


「そう言えば……しおりの音にしては綺麗すぎるし、連符も上手いし。あんな一瞬で音が変わるってことも考えにくいし……」


 山さんもちょっと不審げな顔を浮かべる。どうやらあの音の持ち主は部員ではないらしい。ちょっとがっかりはがっかりだけれど、それでも実力のある人間がこの学校にいるということには変わりない。


「……ってことは、新入生?」

「え? この辺の小学校には金管バンドとか吹奏楽クラブとかもないのに、中学校の吹奏楽部に経験者なんて、まさか」

「あはは、そっか。じゃあ転校生かな」

「それはあるかもですね。たーのしみだーっ!」

「こら、廊下であんまり大声を出さない」


 長谷川先生と山さん、まるで歳が近い先輩後輩みたいな感じだ。長谷川先生自体が新任で僕らと歳が近い(といっても最低でも10歳くらい離れているけど)、というのもあるのかもしれない。

 そんな会話を横で聞きつつ、僕は2人と一緒に音楽室に入る。すると、目に入って来たのは……。


「あ、悠斗。結局来たんだ」


 サックスを首にぶら下げて得意げに座っていた、心音の姿だった。


「ああ、まあ……それよりさ、さっきの情熱大陸。向かってる最中に聴こえたんだけど……」

「ふふ。どうだった? 上手いでしょ、ウチ」

「え、それ、心音だったんだ……」

「そうだよ。ウチ」


 僕は思わず、山さんと長谷川先生と目を見合わせる。まさか、本当に新入生で、しかもそれが心音と来たもんだ。びっくりだよ、ほんと。


「あのさ。……なんでそんなに上手いの?」


 僕は当然とも言えるような疑問をぶつける。心音は逃げ隠そうともせずに、むしろ自慢げにその理由を語った。


「ウチの両親、元々吹奏楽部でさ。それで、父さんが休みの日にウチにアルトサックス教えてくれてるんだ。今は楽器持ってきてないけど、ちゃんとマイ楽器もあるんだよ?」


 おお、と隣にいる長谷川先生が思わず感嘆の声を漏らす。心音、まさかまさかのエリートだった。そりゃあそうだ、両親が楽器経験者で小学校の頃から楽器教わっていれば当然上手いわけだよ……。


「それって、いつから?」

「えっと……小学校3年生の頃。ちょうど悠斗が転校しちゃった時だから知らなくて当然かな」

「あー、なるほど」


 とにかく、心音がすごい人間だということは分かった。まあ、でも、なんだ……近くにいたと思っていた存在が一気に遠くに行ってしまった、そんな感じが僕の心を覆って少し寂しくなったし、あと劣等感なるものも隅っこでひしひしと感じた。

 けれど、決して後ろ向きな感情だけじゃない。心音に追いつきたいっていう、モチベーションの芽生えも確かにある。とてもとても、小さな芽なんだけど。


「さて、と」


 長谷川先生が話を切り出す。


「こんな感じで、今日からは楽器体験が始まっているわけだけど……希望する楽器はある?」


 あ、そうか。僕も楽器、体験できるんだっけ。何をやりたいかは、考えてないけれど……正直心音の隣にはいたくないかもしれない。心音、上手すぎるしさ。


「特に決まってはないですね」

「あ、それじゃあトランペット行こうよ。あたし、教えるからさっ」

「あっ、ちょっ……!」


 山さんが僕の手を握って引っ張る。女子にいきなり触れられて僕の心臓が弾んだ。……なんとなく、ここにいる上で覚悟しなきゃいけないことが分かった気がする。


「こらこら、新入生が怖がる真似をしないで。……まあ、俺も男の子にはトランペットをまず勧めるけれどね」

「へー、先生も彼にトランペットやってほしいんですか! てっきりチューバとか勧めそうだと思ってました」


 山さんが僕の手を握って離さないままぶんぶん振り回す。嬉しいのは分かったからとりあえずその手を離してください、正直肌の感触と体温の相乗効果で照れて顔が熱いです……。


「トランペットの高い音を出すには唇の筋肉が必要だからね。当然ながら男子は女子よりも筋肉がつくから、そこでアドバンテージが出てくる」

「なるほどなるほど」

「トランペットがどこまで高い音が出せるかによって、選べる曲も増えてくるからね。というわけで、まずはトランペット行ってみよっか」


 部の未来のために、ね。そう付け加えた長谷川先生は爽やかな笑みこそ浮かべていたが、その裏に僕は何かを感じていた。

 ……気のせい、なんだろうか。僕はとりあえずその違和感を流して、長谷川先生の提案に同意した。

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