第一部

序奏

アウフタクト 思い出の響き

 それは、遠い記憶の奥深くで鳴り続ける、不確かな吹奏楽の響き。


 小学校2年生の頃だ。確かそれは、小中学校間の交流行事だった気がする。

 大勢の女子生徒に、数人の男子生徒。それぞれが大小様々できらびやかな楽器を持って、そこから飛び出してくる音楽はときに勇猛で、ときに繊細で……。まだ幼かった僕の心は大いに揺さぶられ、演奏が全て終わった後にも余韻が僕の身体をとらえて離さなかったんだ。


 今となってはもう、その演奏の輪郭をぼんやりとすら思い返すこともできない。でも、あのときに貰った印象と衝撃、そして大きな大きな憧れは、今もなお僕の胸にしっかり刻み込まれていた。

 『中学生になったら、絶対にここに入ってやる』、そう子供心に思ったのだが……その後僕は、小学校を卒業するまで別の土地で暮らすことになってしまったのだった。


 そして僕は中学生になった。神様は僕を見放していなかったみたいで、運良く僕が元々暮らしていた場所、むじか市にも帰れた。もっとも、転校先の小学校の居心地が悪かったわけではないが、それでも心に響き続けるあのサウンドは決して色褪せないものだった。だいぶ大人になった今の僕でさえ依然として夢であり続けるような、そんなパワーが確かにあったのだった。



 そして、今――僕は、諦めかけたあの思い出をもう一度、生で聴くことができると心躍らせている。



 むじか市立真島ましま中学校吹奏楽部。その活動場所である4階の音楽室の前に僕はいた。仮入部初日、合奏をするとの話だ。

 やはりというか、周りは女子だけ。そりゃそうだ、音楽だなんて男子は中々手が出しにくいものだから。それでも僕はあの頃抱いた強固な夢に動かされて、今ここにいる。

 女子だらけの場所に単身、僕がここにいる。我ながらなんて勇気のあることをしているんだろうか。


「やっぱり、悠斗ゆうともここに来るんだ」


 不意に僕の名前を呼ばれて、はっとして振り返る。そこにいたのは……


心音ここね。……うん、そう」


 僕の幼馴染である佐野さの心音。同じクラスだったのも手伝って、再会は既に入学式の日に済ませてある。さっぱりしたショートの髪型に、お互いの名前呼びといった小学2年生の頃と変わらない所に安心しつつも、変わった所……まだ子供っぽさはあるけれど少し大人びた顔立ちに、ちょっと大きめの紺色のセーラー服姿に、胸の小さな膨らみに……ま、まあ、そんな感じの場所に少し心揺れて緊張もしている。もっとも、それを表に出すなんてできるはずないんだけどさ。うん……。


「ウチ、覚えてるからさ。あの時の悠斗の心ここにあらず、って言った感じの顔」

「そういう心音だって、『あの演奏すごかったね』ってまるで自分が演奏したかのように自慢気に話しまくってて、友達にウザがられてたでしょ」

「あはは、よく覚えてるね」

「お互い様だよ」


 そういった他愛のない会話が、強張っていた僕の身体を解きほぐす。心音がいて良かった。言わないけれど。


「廊下で待たせてごめんねー! 準備できたから、入って入って!」


 銀色のトランペットを持った女子が大きなポニーテールをなびかせながら、音楽室のドアを開けて手招きする。上履きの色が青だからおそらく3年生だろう。その3年生に促され、ぞろぞろと待機していた1年生の女子達が入っていく。


「行こっか」

「うん」


 僕と心音は一番最後に入る。僕は少し分厚い、重量感を感じる音楽室の木の扉を丁寧に締めた。

 音楽室には吹奏楽部の人達が楽器を持って座り、僕ら1年生をにこやかな笑顔で出迎えてくれていた。男子は……ゼロだった。

 その前には学校椅子が1列に並べられている。さっきのトランペットの3年生に促され、1年生達はそこにお行儀よく座っていく。無論僕も、なるべく丁寧に失礼のないように座った。一番端というわけではなく、何席か椅子が余っている。満席にならないのはなんでだろう……。あんなにすごい演奏をしていた吹奏楽部なのに。まあ、僕が小学校2年生の時のことだ、もうあの時に演奏をしていた人たちは全員中学校を卒業してるんだろうけどさ。


 ちらりと僕の右隣に座る心音の顔を見やる。やっぱり心音も緊張しているのか、ピンと背筋を伸ばしていて、顔もやや強張っているように見えた。ちょっと、安心した。


 あまり心音の顔を見ているのも照れくさい。視線を正面に戻し、改めて吹奏楽部全体を眺める。フルート、サックス、トロンボーン……名前の知っている楽器もあれば、全く知らない楽器もある。クラリネットの色をしているけれど、大きさや形は全然クラリネットじゃないやつといった、初めて見た楽器すらある。


 緊張しっぱなしの僕だけど、そんな状態の僕でさえ抱いた違和感。思い出の中の吹奏楽部は、部員がもっと多かったような気がする。いや、気がするで済まされるような違和感じゃない。……明らかに、少なすぎる。

 大体の楽器が、一種類につき1人という有様。思い出の中の吹奏楽部は、当然ながらそんなことなかった。小学校2年生の時の記憶だから曖昧にも程がある思い出ではあるが、それでもこのことはハッキリと言えることだ。


 あの演奏をしていた吹奏楽部だぞ? なんで、こんなに人数が少ない? 僕の身体の奥から響く演奏に、不気味な歪みが少しずつ生じ始めた。


 さっきの大きなポニーテールのトランペットの3年生と、銀縁メガネを掛けた3年生の女子が前に出てくる。ようやくあの思い出の演奏に触れることができる、と僕の心は高揚しているけれど……その思い出の演奏の歪みは、もはや無視できないほどにまで膨れ上がっていた。


 あんまり期待しないほうがいい。……そんな忠告が、心の中から湧き上がる。


「新入生の皆さん、まずは入学おめでとうございます! そして、ようこそ真中マッチュー吹奏楽部へ!」


 えらくテンション高いな、トランペットの人……。


「今日の進行は、副部長であるあたし、やまかおる。そして!」

「……学生指揮者の花岡はなおか恵里菜えりながやります。お願いします」


 そして銀縁眼鏡の3年生の人、花岡さんはだいぶ落ち着いている。落差が大きい。僕ら1年生から流れ的に拍手が上がると、山さんはありがとー、ありがとー、って言って手を振ってまるで自分がアイドルにでもなったかのような振る舞いをした。いつもどおりってことなのだろうか、花岡さんは無反応だった。


「……さて! 早速ですが、合奏の方始めましょうっ! ……恵里菜、曲紹介お願いね。あたし戻るからー」

「分かったよ。……一曲目、映画『君の名は。』より、『前前前世』。それでは、どうぞ」


 その曲名を聞いた時、隣にいる心音が身体を少し前に乗り出した。僕もよく知っている、人気のポップス曲。吹奏楽の響きだと、どんな感じになるのだろうか……。


 花岡さんは曲紹介を終えて軽くお辞儀をすると、くるりと部員の方を向いて譜面台に置いてある指揮棒を手に取った。すると吹奏楽部の部員たちは、一斉に楽器を構え花岡さんの指揮棒に集中した。


 思い出の演奏に、今再び触れられる。……そう、僕は思っていた。

 そう、思っていたんだ。

 花岡さんの指揮棒が振り下ろされる、その瞬間までは。




 音楽室を覆った音色は、思い出とは遠くかけ離れた、酷いものだった。




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