第12話
色とりどりの照明が、男を照らしつけていた。ステージ上にいる短髪の男は、顔面を紅潮させ、汗だくで歌っていた。タカミネのエレアコを抱えながら歌うその男は、メッセージ性の強い言葉を吐いているようだった。ライブハウス特有の現象で、その歌詞の全貌は聞き取れなかった。それでも、短髪の男が社会や人間を風刺しているだろうことは、断片的に聞こえてくる単語で理解出来た。おれはオピニオンリーダーを目指しているだろう彼の成功を願いつつ、プラスチックのコップに注がれた生ビールを飲んでいた。
フロアにいる客はまばらだった。フロアには、このハコ、『リップコード』の店長の姿があった。その男、豊岡は壁際に立ち、今日もステージに向かって野次を飛ばしていた。おれはその姿を見やりながら、生ビールを一気に飲み干した。
短髪の男の演奏が終わり、続いてステージに登場したのはひとりの女だった。顔も恰好も地味な感じがする人だ。その人はヤマハのエレアコを抱えて歌っていた。歌も演奏もたいして上手くはなかったが、必死さだけはなぜか伝わってきた。ステージに立つ人が変わっても、豊岡はバカみたいにステージに向かって野次を飛ばし続けていた。
おれは空になっていたプラスチックのコップをフロアの端にあるテーブルに置くと、移動した。
フロアの真ん中に立ったおれの正面で、女が歌っていた。おれはその人の曲を熟知していた。歌詞が聴き取りにくいライブハウスであっても、その歌を一緒に口ずさむことが出来るほどに。おれはその人だけを見つめ続けていた。だから、花夏と曽山さんがフロアに入ってきたことはおろか、ふたりがおれの両脇に立っていたことにおれは気づきさえしなかった。
「なにやってるんですか」
隣から放たれた花夏のその声に驚き、おれが周囲を見まわしたところで、ようやくおれはふたりの存在に気がついた。
「そっちこそ、なにやってるんだよ。それに曽山さんまで一緒に」
突然あらわれたふたりの姿に動揺したものの、これはこれで仕方ないという諦念がおれに火をつけた。予定は決して変えない。
「なんとなくだが、平々凡々な状況じゃねえだろうと思ってよ」
珍しくその場に適した声の大きさを選んだ曽山さんがそう言った。ステージ上では女の演奏が続いている。
「伝えなきゃいけないことがあると思ったからここに来たんですよ」
花夏が早口でそう言うと、この界隈を賑わせていた強姦殺人犯が逮捕されたことをおれに告げた。そして、二十代のその男の余罪を追及しているということも。さらに、その男が黒髪ショートでぽっちゃり体型の人間ばかりを狙っていたということも。
「だから、穂高さんが復讐しなきゃならない相手はたぶんもう捕まったんです」
花夏は熱弁した。そうか、とおれはつぶやいた。そして、つけ加えた。
「だけど、そんなことはどうだっていい話だよ」
花夏は絶句していた。曽山さんも無言だ。おれの口が、なめらかに動く。
「殺人犯なんてのはどうでもいいんだ。おれにとって千亜は、それよりずっと前に死んでたんだから」
守千亜は、あの日、夢をうしなったあのイベントの日に死んだのだ。だから、おれにとって千亜を殺したのは、千亜の生命を終わらせたその殺人犯ではない。むしろ、その殺人犯には、自分をうしなった彼女を葬ってくれたことを、おれは感謝するべきだろう。なぜなら、おれにとって千亜の訃報は解放だったからだ。おれは千亜から拒絶されたあの雨の日以降も彼女が住むアパートに通い続けることをやめなかった。いや、やめることができなかった。彼女が、千亜が立ち直るまでは見守らなければいけない。放ってなどおけない。おれは頑なまでにそう思っていたのだ。あんなに劇的に忌み嫌われたにもかかわらず。
「なんか、お前を探しまわってるあいだに、花夏ちゃんに色々と話を聞いたんだけどさ」
曽山さんが神妙な面持ちをして喋り出した。声のトーンは低い。珍しい。
「お前、なんでその子にそんなに執着するんだよ」
おれは視線を正面に戻した。そこには、ヤマハのエレアコを掻き鳴らしながら歌う女がいた。彼女は苦しそうな顔をして歌っている。
「さあ、なんなんでしょうね。そんなことは他人にはもちろん、自分自身でもよくわからないものなんじゃないですかね」
小さな溜息が聞こえ、そのあとに曽山さんの声が続いた。
「盲目ってやつかねえ……。愛の盲目、夢の盲目。色々とあるんだろうけど、今お前が取り憑かれてんのは、きっと復讐の盲目だな」
おれの背中を誰かが叩いた。曽山さんが語る。
「おれはなあ、穂高。発泡酒と簡単な酒の肴(さかな)を買うために、毎日仕事終わりに通うコンビニがあったんだよ。そのコンビニの駐車場でちょくちょく顔を合わせるバイクの男がいてなあ、おれはそいつの駐車場への入りかたがちょっと気にくわなかったんだ。そいつはいつも急ハンドルで、スピードも落とさずに駐車場に入って来てたんだよ。だから、おれはそいつに対してずっとむかついてたんだ。そんなある日、いつものようにそいつが強引に駐車場に入って来てな、おれが運転する車にぶつかりそうになったんだよ。まあ、間一髪おれがブレーキを踏んで接触はしなかったんだけどなあ。でもそのとき、そのフルフェイスの中のバイク男がおれを睨んでいることにおれは気づいちまったんだ。その男の眼つきの悪さに、眼つきの鋭さに、おれのなにかが切れちまったんだなあ。塵(ちり)が積もればって言うじゃねえか、まさにあれなんだよ。おれの怒りは少しずつだけど積もってたんだ。あのとき、おれは確実にあのバイク男に対して殺意を持ってたんだよ。今考えてみると、殺意ってやつも、きっと盲目なんだろうなあ。おれは車を飛び出してそいつに摑みかかってたよ。まあ、とにかくおれはその件で前科一犯になり、家族をうしなっちまったんだ……。お前がなにしようとしてるのかは知らねえけどさ、今ならまだ引き返せるだろ」
いや、もう間に合わない、おれの復讐はもうはじまっているんだ、おれは心の中でそうつぶやいた。ステージ上にいる女の細い指が六本の弦を弾いている。曲が変わってもなお、おれはその曲をよく知っていた。そして、じきにあの曲がはじまるだろう。
おれは重くなっていた口をこじ開ける。
「自分が危険な領域に沈みこんでいく感覚はあったんです。それこそ、塵が積もるように。でも、おれも自分をとめることが出来なかったんです。いわゆる、ストーカーってやつにおれはなっちまってたのかもしれない」
「バカ、お前はそんなもんにはなってねえよ。きっとそんなもんにはなってねえ。その部分の境界線は曖昧だし、おれにはうまく言えねえけど、お前は決してストーカーなんかじゃねえよ」
曽山さんは強い口調でそう言い放った。それでも、いつもの声の大きさはない。ストーカーという言葉に反応するように、花夏が口を開けた。
「千亜さんの元彼の会社に就職したから、絶対におかしいとは思ってたんですけど、ストーカーって……」
尻切れになった花夏の言葉を引き継ぐように、曽山さんが喋り出す。
「おい、その千亜ちゃんって子、社長の元カノなのか。……だからか、お前、最初に会社に入って来たときはひょろひょろで色白で、二枚目だけど頼りない感じがしてたのに、それが今では陽に灼(や)けて浅黒くなって、筋肉質になって、無精髭まで生やして、年齢の違いや身長の違いがあるから似てはいないけど、社長の真似をしてたのかよ。そうだ、それにバイクも、中古とはいえ、社長と同じ車種を買ったりしてよ」
青天(せいてん)の霹靂(へきれき)だった。おれは千亜の容姿や雰囲気の変貌には気づいていたが、自分の変貌は気にもしていなかったのだ。しかも、社長の真似をしていたなどという自覚はおれにはまるでなかった。だが、千亜が惚(ほ)れていた男に興味があり、その男が経営する会社の門を叩いたのは事実だ。
そこで、おれははたと思った。もしかすると、あのとき、あの雨の日、千亜がおれを見て逃げ出したのは、おれに気づいていなかったからかもしれない、と。千亜はおれをおれと認識せずに、不審者の類いかなにかと思ったのかもしれない。それこそ、この界隈を賑わせていたという強姦殺人狂かなにかと。しかし、千亜亡き今、真実を知る術はない。
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