第10話
熱帯夜が続いているからといって上空から落ちてくる雨が熱いわけは当然なく、冷たい雨が合羽に身をつつむおれの身体を弾き続けていた。
おれの眼前には三階建てのアパートの一室の灯りがある。アパートは駅からだいぶ離れた場所にあったために周囲は閑散としており、夜の闇の中に家々と街灯の光が申し訳程度にぽつり、ぽつりと点在しているのみだった。
おれはアパートの近くの電柱の陰に、愛車であるSRを停めて佇んでいた。
見上げる二階の一室、その灯りの中には、千亜の母と妹、それに祖母がいるはずだった。おれは花夏からそれとなく千亜が住むアパートの住所を訊き出すことに成功していた。花夏は千亜が住むアパートの一室に何度か訪問したことがあるらしい。おれはその一室に足を踏み入れたことはなかったが、この場所にやって来た回数はすでに花夏を越えたはずだ。
千亜の住所を花夏から教えてもらったその日から、仕事が終わるとSRに跨がり、おれは連日このアパートの一室の灯りを見に来ていたのだった。
ただ自分の不安を解消するために。千亜が元気でいるのかどうか、おれはそれを確かめたかっただけだ。
その出来事は、この場所に通いはじめて五日目に起こった。
おれがいつものように千亜が暮らすアパートから少し離れた電柱の陰に佇んでいると、ちょうど千亜が帰宅して来たのだ。おれは昂奮していた。勃起さえしそうなほどに。しかし、彼女の雰囲気は暗かった。さらに、おれが最後に見たときよりもその体型は一段と丸みを帯びたように見えた。おれは千亜に声をかけることはしなかった。そんな大それたことをするためにおれはこの場所に来ているわけではなかった。
彼女を見れた喜びはすぐに苦悶に変わってしまった。その日以来、ときおり見かけることになった彼女が、いつも眼を伏せ、暗く淀んだ負の雰囲気を醸し出して歩いていたからだった。とても幸福そうには見えなかった。それ故に、彼女を見守る行為には苦痛がともなった。それは、おれが彼女のことを深く愛し続けていたからにほかならない。
今ならば、という思いが込みあげないわけでもなかった。今の彼女ならば、自分を受け入れてくれるのではないだろうか。しかし、弱り切った彼女の前に姿をあらわすことにはためらいがあった。やはり、どこかに卑しさを感じてしまう。
そういったもどかしい思いにさいなまれながら、仕事終わりに彼女が住む部屋の灯りを見る日々を、おれは過ごしていた。
音楽という夢を諦め、恋人に振られ、容姿も、雰囲気さえも変わり果てた千亜が、自ら命を絶ってしまうのではないか、とおれは危惧していた。はじめは彼女が作る音楽におれは惹かれた。しかし、今はそれだけではない。愛しいと思える部分はほかにもたくさんあるはずだ。そして、その思いはほかの誰よりも強いはずだ。
そして、おれは決心をした。物陰から彼女を見守るだけでなく、正々堂々と彼女の眼前に姿をあらわし、告白をしようと。そこに卑しさがあってなにが悪い、とおれは開き直ってすらいた。おれは彼女が住むアパートの一室を見つめながら、次に彼女に会えたときにそれを実行しようと心に誓ったのだ。
雨は降り続けていた。おれは全身をつつむ合羽のフードに触れた。それを眼の上までおろし、なるべく雨滴が顔に当たらないようにした。
千亜がアパートの一室には帰っていないだろうことはわかっていた。なぜなら、この日おれはいつもよりも早く仕事を終えることが出来たからだ。つまりは、この場所にいつもよりも早く到着することが出来たのだ。彼女が駅から歩いて帰って来る時間を考慮すれば、彼女はまだ帰宅していないはずだった。
残業かなにかなのか、千亜の帰宅が遅くなることもまれにあったので、気長に待つしかなかった。
雨に打たれ続けた。しかし、それさえもがなにか神聖な儀式のように思えて仕方なかった。千亜に自分を受け入れてもらうために、自分の汚れを、醜さを洗い流してもらっているような感覚におれはおちいっていたのだ。おれのかたわらにある愛車も、雨に打たれ続け、おれと一緒に身を清めてくれているように思えた。
街灯の下、朱色のビニール傘を差して歩いて来る千亜の姿が眼に入った瞬間、おれの心臓は急激に高鳴りはじめた。おれは深呼吸をし、自分の胸を軽く叩いてから、数歩前進した。両脚が震え、奇妙な歩きかたになっているのが自分でもわかった。
千亜はおれを一瞥すると、立ち止まり、そして強ばった表情をした。そこでおれは、自分が合羽のフードを被ったままだったことに気がついた。これでは誰だかわからない。おれはフードを捲り、顔を見せた。その瞬間、彼女ははっとした表情をし、持っていた朱色のビニール傘を投げ捨てると、逃げるようにおれが立つ場所とは逆の方向へ走り出した。それは、まさに遁走だった。千亜がおれの顔を忘れたということはないだろう。しかし、おれは無視をされ、いやそれどころか、忌み嫌われ、完全なる拒絶をされたわけだ。
つまるところ、今の弱りきったように見える彼女であっても、おれという存在は彼女に必要ないということだ。
彼女が残していった朱色のビニール傘が雨に打たれ、地面でのたうちまわっていた。雨に暗い色が差し、酷い臭いがしているように思えた。合羽のフードをうしなったおれの頭頂部に、冷たく鬱陶(うつとう)しい雨がとどまることなく落ち続けていた。
その出来事からわずか十日後に、守千亜は死んだ。
おれは花夏からの電話でそれを知った。花夏は千亜の母からそれを聞いたらしかった。詳しいことは誰にも言っちゃダメですよ、と念を押してから、花夏はおれに言った。千亜の着衣が乱れ、女性器があらわになった姿で殺され、発見されたということを。
それを伝える花夏の声が、どこかはしゃいでいるように思えたのは、おそらくおれの気のせいだろう。
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