第9話

 久しぶりに花夏のライブに足を運ぶことにしたのは、桜が再びその存在を忘れ去られた頃だった。


 おれは就職をしてから一度も花夏と顔を合わせていなかった。花夏のライブの誘いを無下に断り続けていたのだ。『坂巻引っ越しセンター』での仕事は夕方に終わることが多いし、花夏が主戦場にしている『リップコード』はその会社から近かったので、花夏のライブに顔を出すことなど容易(たやす)かったのだが、仕事が忙しくて、とおれは花夏に嘘をつき続けていた。それは、その場所にはもう千亜がいないことと、その場所に年末のイベントという悲しい思い出が残ってしまったことに起因した。

 それでもこの日、おれが『リップコード』にやって来たのは、今日のステージを最後に花夏がしばらくライブ活動を休止するという話だったからだ。休止といっても、それは決して悲観的な理由からくるものではなかった。花夏はいよいよメジャーデビューに向けて動きはじめているらしく、勝手にライブハウスなどのステージに立つことをレーベルの人間から禁止されたからだった。


 おれの隣には、軽いノリでついてきた曽山さんがいた。八王子駅に集合した時点ですでに大量の汗をかいていた曽山さんは、駅から『リップコード』まで歩くあいだもずっと汗をかき続けていた。

 雑居ビルの五階にある『リップコード』の楽屋に入ると、曽山さんはエアコンの冷気にほっとした表情を見せた。おれはその冷気に身をふるわせながら、定位置であるソファに腰かけた花夏の姿を見て唖然とした。それは、花夏の容姿が、ますます千亜に似てきたように思えたからだった。いや、厳密にいえば、音楽をやっていた頃の千亜に似ているのだ。小柄なその体型も、黒髪ショートのその髪型も、やわらかなその服装も、なぜだか顔の造りまでも。

 顔まで似てくるなんてことはあるのだろうか、とおれは訝しんだ。それは化粧のせいだろうか、と。しかし、いかんせん男であるおれは化粧のことはよくわからない。ただひとつ、決定的に違うと思える部分は眼だった。花夏の眼が猫のような眼になれば、まるで昔の千亜そのものになるかもしれない。


 ソファに坐っていた花夏はおれを認めると、千亜とは似ていないその眼を丸くさせた。そして、おれの身体を上から下、下から上へと仔細に眺めた。

「穂高さん、なんか雰囲気がだいぶ変わりましたね」

 唐突に言われた花夏のその言葉に、おれは閉口してしまった。それは、自分が相手に対して抱いていた印象をそのまま相手に言われたからだった。自分が変わっているという自覚はなかったものの、やはり学生ではなく社会人になったことで、おれも変わってしまった部分が多々あるのかもしれないとおれは思った。

 おれの隣に佇んでいた曽山さんは、物珍しそうに楽屋を眺めまわしたのち、場にそぐわないほどの大きな声で花夏に挨拶をした。楽屋でリラックスしていた数人の人が一斉にこちらを見たが、興味を持てなかったのか、皆すぐに視線をもとに戻した。


 花夏のライブがはじまる前に、おれと曽山さんはステージがある四階へおりた。曽山さんはプラスチックのコップに注がれたレモンサワーを飲んでいた。おれはバイクで来ていたのでコーラを飲んだ。それに対して曽山さんが、相変わらずクソ真面目なやつだなと揶揄したので、おれは、前科がついたら大変ですからね、とやり返した。曽山さんはなにも言わない代わりに舌打ちをして見せた。


 花夏はギブソンのアコースティックギターを抱えて歌っていた。以前よりも歌もギターも数段上手くなっているように思えた。それもそのはずで、花夏は最近、技術をあげるためと音楽理論を詳しく学ぶために優秀な音楽の家庭教師をつけているらしかった。


 花夏は夢に向かって一歩一歩着実に歩みを進めていた。彼女の努力は賞賛にあたいすると思った。しかし、おれの中に釈然としない思いがあるのもまた事実だった。それは花夏が演奏している曲が、千亜のそれとよく似ていたからだった。以前から似ていたが、もっと似てきている。いや、似ているを通り越しているのではないか。剽窃という言葉がおれの脳裡に浮かぶほどに。


 花夏のライブ終了後、次の日も仕事で朝が早いおれと曽山さんは、花夏からの打ちあげの誘いを断ってラーメン屋で遅い夕食をとってすぐに帰宅することにした。すると、花夏もなぜかその日の打ちあげに参加せずにおれたちについてきた。


 花夏は塩ラーメンを食べながら、豊岡が千亜にしつこく電話をかけていたと語った。音楽をやめるのは勿体ないよ、とか相談に乗るよ、とか言ってたびたび千亜に電話をかけて誘い出そうとしていたらしい。あいつ、千亜さんを口説こうとしてたんじゃないですかね、と花夏は嬉々と語った。そして、真顔になると、ぽつりとつぶやいた

「でも、太って暗くなった千亜さんを見たら一気に冷めるでしょうけどね」

 おれが花夏に視線を投げると、彼女はばつが悪いといった表情を浮かべ、口をつぐんだ。どうやらおれの視線が鋭かったようだ。すぐさまおれは訊いた。

「千亜は、元気か?」

 花夏が箸をとめた。

「それが最近、連絡を取れてないんですよね。電話してもつながらなくて、音信不通ってやつですよ。穂高さんは連絡を取りあってないんですか?」

「うん、おれも全然」

 どうやら花夏は、おれが千亜の新しい連絡先を知らないとは思ってもいないようだった。それについておれがなにかを喋ることはなかった。くだらないが、男としての矜持というやつだ。

 おれは醤油ラーメンを啜(すす)りながら、急激に不安になっていた。千亜の現在の状況を知るすべがなくなったからだ。彼女は大丈夫だろうか。夢をうしない、恋人をうしなったという彼女は。

 トイレで席を外していた曽山さんは、戻って来るなり叉焼(ちやーしゆー)がたっぷりとはいった味噌ラーメンを口の中に掻き込みはじめた。それは気持ちのいい食いっぷりだった。


 曽山さんも花夏も、『リップコード』からそう遠くない場所に住んでいた。

 ラーメン屋を出ると、おれと曽山さんは花夏が住んでいるマンションまで彼女を送り届けることにした。誰とでも仲良くなる花夏と、これまた人見知りとは無縁な曽山さんはすぐに打ち解けあった。携帯番号の交換までしていた。マンションへ向かう道すがら、ふたりはなぜか肩を組んで歩いていた。花夏のギターケースは曽山さんが担いでいる。その姿は仲の良い父娘のように見えた。


 花夏は瀟洒(しようしや)なマンションに住んでいた。それは、およそ大学生の女の子がひとりで暮らすような建物ではなかった。少なくとも、おれがひとり暮らしをしている貧相なアパートとは比べものにならないほど家賃は高いだろう。

 おれは花夏との別れぎわに、気になっていたことを訊ねた。

「なあ、あの日のライブ、年末のイベントのときのライブだけど、あの日も今日と同じようなセットリストだったのか。ほら、おれはあの日の花夏のライブを見てないからさ」

 花夏は顔をしかめた。質問の意図がわからずに戸惑っていたのかもしれない。願わくば否定してほしい、とおれは思っていた。しかし、しばしの沈黙のあとに、花夏は言った。

「ええ、そうですよ。ほとんど同じです。新曲は大体あの日におろしましたからね」


  曽山さんからギターケースを受け取った花夏が手を振ってマンションの中に消えていった。おれの隣にいた曽山さんは大仰に手を振ったあとに、マイルドセブンの先端に火をつけ、にやりとした。

「いやあ、花夏ちゃんって良い子だなあ。穂高、もうやっちゃってるんだろ」

 おれは苦笑いを浮かべ、そんな関係じゃないですよ、と返した。またまたあ、と曽山さんが哄笑する。

 賑やかな隣の存在とは打って変わって、おれの心の中には薄暗い感情の萌芽があった。おれは、あの日、あのイベントの日、選ばれるべき人間は花夏ではなく、千亜だったかもしれない、という考えに囚われはじめていたのだった。

 容姿も楽曲も似ていて、いや、あの時点ではどちらも明らかに千亜のほうが上だったはずだ。それなのに、選ばれたのは花夏だった。それはなんの悪戯だろう。その考えは、どれだけ抉り出そうとしても、抉り出せずに、しつこくおれの体内にこびりつくことになった。

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