第8話

 町中でギターを背負って歩く少女を睥睨する日々が続いていた。その姿が活力に満ちていればいるほどに。そんな自分をくだらないと罵りながらも、気づけば、今日もまた少女を睥睨する自分がいた。


 年が明けて少し経った頃に、守千亜は安定した収入を求め、小さなPR会社に就職をした。

 この頃の彼女はぽっちゃりとし、心なしか性格まで変わったように思えた。昔のような自信にあふれた表情はなくなり、内に隠していた陰気さが全面に出たような感じがあった。会う回数は多くなかったものの、ごくたまに花夏に呼び出され、おれは千亜と花夏と三人で飯を食う機会があったのだ。


 皆が思い出したかのように桜を持(も)て囃(はや)す季節が到来する前に、花夏からの電話で千亜が恋人と別れたことをおれは知った。男のほうが唐突に別れを切り出したらしかった。最近、千亜さん変わっちゃったからね、と電話越しに花夏が言った。おれは心の中で、何が? と花夏に問いかけていた。雰囲気が? 性格が? それとも、容姿が? と。

 千亜はひどく塞ぎ込んでいるらしかった。そのことに、おれは嫉妬を覚え、敗北感にさいなまれた。おれは励まそうと、千亜の携帯に電話をかけてみたが、つながることはなかった。千亜は電話番号も、メールアドレスも変えていた。おれは千亜の新しい連絡先を受け取っていなかった。おれから千亜に連絡を取る方法は完全に途絶えてしまったのだ。考えてみれば、おれと千亜は家族でも恋人でも親友でもなかったのだ。おれはただのいちファンにすぎなかったのだ、とあらためて気づかされ、そのことにおれはひどく落胆した。


 おれは心配していた。守千亜が、守千亜を見失ってゆくことを。


 無事に大学を卒業したおれは、京王八王子駅の隣駅である北野(きたの)駅の近くにある『坂巻引っ越しセンター』に就職をした。その会社は年中求人を出しているような会社だった。それ故だろうか、一度の面接のみでおれは即採用された。


 漠然とした不安という言葉を遺(のこ)して死んだ芥川(あくたがわ)ではないが、漠然とした都会への憧れから東京の大学へいくことを決め、おれは十八歳のときに温泉街から上京してきた。そして、大学生になってもまたなんの目的も持たずに一切の就職活動をしていなかった。いや本音をいえば、音楽にかかわる仕事に就こうかと思った時期もあったのだが、千亜の一件があって以来その考えも霧散していた。千亜を迎え入れなかった音楽業界というもの自体に嫌悪があったのだ。

 結局はなんの仕事でもよかった。拘りなどなかった。だからこそおれは、導かれるようにこの会社の門を叩いたのだ。自分が嫉妬した男が経営している会社の門を。


 九州にある温泉街で暮らす父は、デジタルカメラやレンズの生産をしている会社で働いていた。父は昔からおれのやることに対してはなんの口出しもしなかった。悪くいえば放任とも取れるが、よくいえば尊重してくれていると思える。事実、父はよくおれに、自分の人生、自分のために、と言っていた。おれは大学に進学後、一度も帰省をしていなかったが、それについても父がおれにとやかく言ってくることはなかった。かといって、別段仲が悪いというわけでもない。頻繁にというわけではないが、電話でのやり取りはしていた。

 子ひとり、親ひとり、といっても男同士だ。男同士で馴れ合っているのは気色が悪い。父もおれと同じように思っているはずだ。

 父とはそういった関係だったから、おれが電話で就職を決めたことを伝えたときも反対などはなかった。まあ色々と大変なこともあるやろうけど頑張れや、という言葉をくれただけだった。


 『坂巻引っ越しセンター』でおれに仕事を教えてくれたのは父と同年代の曽山さんだった。五十歳手前の巨軀の持ち主である曽山さんはその身体に見合った声の大きさが持ち味だった。割れものや壊れやすいものの運び方、トラックへの荷の積み込み方、荷崩れをおこさない積み方などを、曽山さんはその明瞭な声でおれに教えてくれた。

 曽山さんはこの『坂巻引っ越しセンター』の初代、つまりは今の社長、坂巻康崇の父の代から働いている古参のひとりだった。この会社は曽山さんのように長年勤める人間が50パーセントいて、残りの50パーセントが流動的だった。そのため、常に求人広告が出ているのだ。


 曽山さんは離婚歴があるそうで、現在は八王子駅の近くのマンションでひとり暮らしをしていた。娘もひとりいるらしいが、娘は前妻と一緒に暮らしているため、今は会っていないという。曽山さんは離婚歴のほかに前科もあった。傷害罪ということだけは聞いたが、その事件の詳細を曽山さんが語ることはなかった。普段は饒舌な曽山さんだが、その事件と家族についての話だけは詳しく語ることを拒んでいたのだ。

 おれが会社に入ったばかりの頃は、冷蔵庫や洗濯機など、大きな家電を抱えて階段を駆け上がる曽山さんの姿に度肝を抜かれたものの、毎日の筋肉痛を抜け出した頃には自分もその姿を想像出来るくらいの腕力が身についていた。といっても、あくまでも想像が出来るレベルになったというだけで、曽山さんのようにそれを事もなげに実行するだけの体力はまだついていなかったが。

 トラックを運転することも苦手で、おれは曽山さんと一緒に現場にいくときはいつも曽山さんに運転を任せていた。運転手当として一日千円が給料に上乗せされるということもあってか、それとも単純に運転をするのが好きなのか、曽山さんがそれについておれに不平をもらすことは一度たりともなかった。


 『坂巻引っ越しセンター』は肉体を酷使する仕事だけあって、給料は同年代のそれに比べればいいほうだった。しかし、すぐに辞めていく人間が多いのも納得出来る業務内容だったのは間違いない。とにかく体力がなければ続かないのだ。それでも、勤続年数が長い曽山さんから言わせると、慣れれば大したことない仕事、らしい。もっとも曽山さんの場合は、罪を犯したあとも変わらずに働かせてくれた先代への義理があるということが、この会社を辞めない理由のひとつとなっているらしいが。


 おれは貯まった給料で自動二輪の免許を取得し、ローンを組んで中古のバイクを買った。巷ではTWが流行っていたが、おれはSRを買った。

 季節が変わり、新しい生活に慣れてゆく中にあっても、おれはCDウォークマンで千亜からもらった音源を聴き続けていた。仕事後の疲れた身体を癒やしてくれるのは、いつもヘッドフォンから流れてくる千亜の歌声だった。つまるところ、連絡は途絶えていたものの、おれは守千亜のことを忘れることができないでいたのだ。

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