第7話

 着ているコートの前ボタンを開けているほうが見栄えはいいのだが、そんな暢気なことを言ってはいられないほどに寒い日だった。


 『リップコード』でのリハーサルを終えた千亜と花夏とともに、おれは八王子の繁華街にあるインド料理店『ボードガヤー』でシークカバブを頬張(ほおば)っていた。店内ではオリジナルソングが繰り返し流れていた。軽快な音楽に、店名を連呼するだけの単調な歌詞が乗っている。

「どうせならクーラシェイカーの曲でも流してるほうが粋なのにね」

 おれが苦笑混じりにそう言うと、千亜は、確かにね、と笑った。花夏は、それってインドのバンドかなにかですか? と素(す)っ頓狂(とんきよう)な発言をした。


 この日、『リップコード』で行われた七周年イベントは午後四時に開演し、十一時終了の予定になっていた。数多くのミュージシャンが出演するなかで、千亜は最後から二番目、花夏は最後から四番目に出演する手筈となっていた。

 雑居ビルの五階にある『リップコード』の楽屋がいくら広いとはいえ、さすがにこの日の出演者は多いので、楽屋は出演者やその人たちの楽器、荷物でごった返していた。そういうこともあって、千亜と花夏は楽器を楽屋に置くと、『リップコード』を一旦離れることにしたのだった。リハーサルはトリから行われてゆくものなので、トリに近い出順であるふたりは気を使って楽屋から出たというわけだ。


 チャイを飲んでいる千亜はいつもと変わらずに飄々としており、夢の期限の日であるという気負いはないように見えた。むしろおれには、千亜の隣に坐っている花夏のほうが緊張しているようにさえ見えた。訊けば、花夏は大きなイベントに出演するのがはじめてだという。しかも、今日は花夏も千亜もサポートメンバーの力を借りずに、それぞれひとりで舞台に立つらしい。おれは小柄なふたりの女の子の幸運を祈らずにはいられなかった。とりわけ、千亜の幸運を。


 イベントの出演時間が迫ったところで、おれたちは『リップコード』の楽屋に戻った。イベントも終盤に差し掛かっていたので、楽屋にいる人の数は減っていた。しかし、心無い出演者たちが残していったゴミや紫煙が嫌というほどそこにあった。

 この楽屋でおれたちが定位置としているソファがある場所まで歩みを進めたところで、千亜の表情が曇ったことにおれは気がついた。千亜が不躾に楽屋のなかを徘徊しはじめる。その千亜の行動に異変を感じ取ったのはおれだけではなかった。花夏が声をかける。

「千亜さん、どうしたんですか」

 千亜の顔は引(ひ)き攣(つ)っていた。それでも、無理に笑みを浮かべようとしているように見えた。

「ギターがないんだけど……」

 ぽつりとこぼしたその言葉に、おれと花夏は顔を見合わせた。

 千亜と花夏はいつも陣取っている楽屋の一角、そのソファがある場所の近くにギターケースを立てかけていた。おれがその場所を確認すると、花夏のギブソンがはいったギターケースはそこにあったが、その隣にあるはずの千亜のギターケースが見当たらなかった。

 千亜愛用のギルドは、平凡な黒のソフトケースに入れられていた。おれと花夏は、千亜と一緒に楽屋の中を探しまわった。ソファの陰にでも倒れているのではないか、と。


 そのとき、花夏が声をあげた。花夏がひとつのソフトケースを発見したのだ。それは確かに千亜が持っていたものと同種類のギターケースだったが、中を確認すると、そこには1970年代に作られたギルドF40、つまりは千亜のギターではなく、ヤマハのエレアコが入っていた。

 『リップコード』の店長である豊岡やそのスタッフたちに確認を取ると、そのエレアコの持ち主はおそらくスナダミキというソロシンガーのものだろうという話になった。スナダはすでに今日の出演を終え、帰路についたという。千亜が使っているギターケースはどこにでも売っている至ってシンプルなものだったので、スナダが間違えて持っていったのかもしれない。おれたちはそういう答えに辿り着いた。


 千亜も花夏も、スナダと一緒にブッキングのライブに出演したことがあるらしく、彼女とは面識があるようだった。おれも何度か見ているはずだと花夏に言われたが、おれの脳裡にその人の容姿が、歌声が、浮かんでくることはなかった。愛想の良い花夏は、スナダと一緒になったライブのときにちゃっかりと連絡先を交換していた。しかし、いくら花夏がスナダの携帯に電話をしてもスナダにつながることはなかった。


 そうこうしているうちに、花夏の出番が迫ってきた。花夏を『リップコード』に残して、おれと千亜はスナダミキを探すために『リップコード』の楽屋を出た。


 千亜は『リップコード』に出演した人間たちが打ちあげでよく利用するという居酒屋をまわった。出順が近かったミュージシャン仲間とスナダが打ちあげをしている可能性が高かったからだ。

 おれはスナダの顔を知らなかった。千亜の背中を必死で追い、千亜とともに息を切らせた。

覗いた居酒屋で楽器を持った集団に何度か出くわしたものの、千亜がスナダミキを発見することはなかった。


 『リップコード』へ戻った千亜は結局、花夏のギブソンを借りてステージに立つことになった。セッティングをしている千亜の姿は、心なしかいつもよりもさらに小柄に見えた。フロアには千亜の母の姿があったが、千亜の恋人の姿はなかった。こんな大事なライブに顔を出さないその中年男に憤りを感じつつ、おれは花夏とともに千亜の姿を見守っていた。


 会場に流されていたSEがフェイドアウトし、ほの暗さが浮き立った。しばしの静寂があったのちに、千亜の演奏がはじまった。

 慣れないギターを抱えて歌う千亜の所作は、やはりどこかぎこちなかった。なんとか無難にこなしているものの、千亜の本来の実力を知っているおれからしてみれば物足りない演奏だったことは間違いなかった。ベストテイクにはほど遠い。いつも千亜が使っているギルドは、千亜の身体と渾然一体となっているように思えたのに、今日彼女が抱えるそのギターは、千亜を忌避(きひ)しているようにさえ見えた。それでも千亜はときおり笑みを浮かべながら演奏を続けた。その健気な姿に、おれの胸は締めつけられた。


 千亜が真摯に音楽と向き合っている姿を見るのは、これが最後になるかもしれない。おれはそのとき、はじめて心の底からそう思ってしまった。そして、千亜の夢の成就を信じ切れない自分をすぐに恥じた。


 フロアにいる千亜の母は一連のトラブルを知らされておらず、微笑を浮かべながら娘の演奏に聴き入っていた。『リップコード』のフロアにいる客はいつもと同じように、十代、二十代の若い人間が多かったが、この日は普段は見かけないスーツ姿の男女もちらほらいて、とにかく、超満員だった。フロアには野次を飛ばす豊岡の姿はなかった。彼は『T・T・D』というバンドでベースを担当しており、ちゃっかり『リップコード』の七周年を祝うこのイベントでトリに出演する予定になっていたのだ。そのため、次の出番である彼の姿はフロアにはなかったのだ。


 この日のライブは千亜にとって不本意なものだったことは間違いがない。ライブを終え、楽屋に戻った千亜は消沈していた。それはおれにとって今まで一度も見たことのない彼女の姿だった。

 そういった状態にあっても、千亜は花夏にギターを借りたことの礼を恭(うやうや)しく述べた。花夏は本気でそう言ったのか、気休めだったのか、「良かったですよ」と千亜に声をかけていた。 


 楽屋にあるモニターには演奏をする豊岡の姿が映し出されていた。『T・T・D』は、ギター二本、ベース、ドラムで構成される四人組のインストバンドだった。落ち着いた大人なロックといった感じの音楽だった。おれたちは楽屋のソファに腰をおろし、画面のなかのバンドの演奏を眺めていた。

 『T・T・D』の演奏が終わり、イベントが終了したところで、花夏が『リップコード』のスタッフに呼び出された。次の出演についての打ち合わせかなにかと思っていたが、花夏を呼び出したのは、本当はそのスタッフではなく、有名なレーベルの人間だった。花夏はそのレーベルの人たちに誘われ、一足先に楽屋から連れ出された。その慌ただしい状況の変化についていけなかったおれと千亜は、半ば呆然としながら、花夏を見送ることになった。とにかく、花夏が誰かの眼にとまったのだということは理解できたが、手放しにそれを喜んであげる余裕がこのときのおれにはなかった。


 花夏がいなくなってしばしの時間が流れたあとに、千亜は満面の笑みを浮かべ、花夏ちゃん良かったね、とささやいた。

 重くなっていたはずの腰をあげた千亜は、おもむろに楽屋の隣にある『リップコード』の事務所に入ると、今後ライブ活動はしないことを『リップコード』の店長である豊岡に告げた。


 帰路、おれは千亜に言葉をかけた。

「まだ完全に終わったわけじゃないよね」

 千亜は力弱くうなずいた。

「頭を冷やしたいから、今日はひとりで帰るね」

 そう言って、千亜はおれの眼前から姿を消した。


 おれは駅までの道のりの途中でひとり立ちつくしていた。気の利いた言葉のひとつも見つけられない自分の無能さを、不甲斐なさを呪っていた。身に沁(し)みる寒波がさらに追い打ちをかけ、おれは立っているのもやっとの状態だった。


 年末の雑踏がおれの周囲にあった。


 あと数日で新しい年、二〇〇二年が幕を開けるというのに、心が静止してしまった感覚に、おれはおちいっていた。

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