第5話

 横浜でのチャリティーイベントに出演した千亜と花夏の姿を見守った日からほどなくして、花夏が参加するバンド『りゅうず』が解散することを、花夏本人からの電話でおれは知った。花夏は今後はソロシンガーとしてやっていくことにしたらしかった。解散の理由としては、常套句のように使われる凡庸なあれ、方向性の違い、というやつだった。


 そんな花夏のソロシンガーとしての初舞台は『リップコード』だった。店長の豊岡に頼んだのだろう、この日『リップコード』の舞台には千亜も出演することになっていた。


 雑居ビルの五階にある『リップコード』の楽屋には受付もなければ、もちろん警備員もいないので誰もが簡単に足を踏み入れることが出来た。この頃のおれは出演者でもないのに、厚かましく楽屋に入り浸るようになっていた。楽屋の隣には事務所があり、スタッフが出入りしていたが、よくあることなのだろう、おれの行動を咎めるスタッフはひとりとしていなかった。そこは都心にあるライブハウスに比べれば充分な広さがある楽屋だった。その日の出演者の全員が一斉に寛げるほどに広かったので、多少部外者がいたところで邪魔にはならないというのも、おれが咎められなかった理由のひとつだったのだろう。

 また、楽屋には大きなモニターが設置されており、四階でおこなわれているライブの映像をリアルタイムで見ることが出来た。

 

 その日、『リップコード』の楽屋で会った花夏は、気合いを入れるためか、長かった髪の毛を短くし、金色だった髪の色を黒色にしていた。なんとなく花夏の雰囲気が千亜に近づいているように思えたが、おれがそれを口にすることはなかった。 

 その日のライブは、五人ほどのソロシンガーが集められていた。三番目に登場する花夏の演奏がはじまる前におれは楽屋を抜け出し、四階へとおりた。


 花夏は父に買ってもらったというギブソンのアコースティックギターを抱えて舞台に登場した。一曲目の出だしは多少声がふるえている感じがしたが、それも曲が進むにつれて徐々に安定してきた。演奏面も最初こそ粗雑さが目立っていたが、次第に安定していった。演奏も歌もバンドをやっていたときよりも上達しているように感じた。それは千亜という良い先輩が身近にいるおかげだろうとおれは思っていた。しかし、千亜に影響されすぎなのか、歌い方も楽曲の内容も千亜のそれに近い感じがしたので、ほのかな不安がおれのなかに立ちあがったこともまた事実だった。しかし、そのうちオリジナリティも出てくるだろう、とおれは暢気に考えていた。

 相変わらずフロアの一隅に佇んだ長身の店長、豊岡が、下手くそだな、ちゃんと練習してんのかよ、などと野次を飛ばしていた。多少の動揺を顔に出しながらも、花夏は無難にその日のライブを終えた。


その日『リップコード』には、千亜の母も来ていた。出番を終え、四番目の出演者が演奏中に四階に降りて来た花夏がその人を紹介してくれたので、おれは千亜の母に挨拶をした。

 千亜の母は四十代の後半だというが、そうとは思えないほどに若々しい容姿をしていた。カーディガンを羽織った痩身は、千亜と同様に小柄だった。千亜の母の横には同年代か、それよりも少し若い感じがする背の低い男がいた。男は小脇にフルフェイスのヘルメットを抱えていた。おれはその男の存在を怪訝に思いながらも、千亜の母の友人か、親戚かなにかだろうと予想を立てていた。しかし、四番目の出演者の演奏が終わったところで、花夏にその男の素性を知っているかと小声で訊くと、花夏が眼をしばたたせてから言った。

「あれ、知りませんでしたっけ。あの人、千亜さんの彼氏ですよ」

 胸の高鳴りを感じながら、おれはその男をもう一度、仔細に眺めた。色黒で無精髭を生やしたその背の低い中年男が千亜の恋人とは信じることが出来なかった。おれにはどう見たって千亜とは釣り合わないと思えたのだ。父と娘、叔父と姪、恩師と生徒のような関係なら理解出来るが、このふたりが男女の仲とは到底信じがたい。


 おれの胸中を知るよしもない花夏が男の素性を語りはじめた。その男、坂巻康崇(さかまきやすたか)は、四十代前半で今は亡き父がはじめた『坂巻引っ越しセンター』の代表をやっている人物だ、と花夏は嬉々として語った。

 舞台上には、この日のトリを務める千亜がいた。千亜は照明を落としたほの暗いステージの上でギルドの音を確認しながら、薄く笑った。その視線の先には中年男がいた。千亜が小さく手を振る。もちろんその中年男に、だ。中年男は満面の笑みを浮かべ、千亜に手を振り返している。そのふたりの間に信頼関係が存在していることは一目瞭然だった。そのときの千亜の視界のなかには、当然おれは入っていなかっただろう。

 おれは辟易し、吐き気を催した。この日のライブのあとで一世一代の告白を予定していたおれは狼狽した。花夏に悟られないようにフロアを出てトイレに向かったほどだった。

 再びフロアに戻ったおれは花夏に気分が悪くなったと言って、『リップコード』をあとにした。


 京王八王子駅までの道のりを虚ろに歩きながら、おれは考えていた。すべて嘘であってほしい、と。しかし、それが嘘ではないことも、千亜とあの男のやり取りを目の当たりにしたおれは気づいていた。そもそも、花夏がそんなくだらない嘘をつく必要はない。


 駅に到着し、電車を待つあいだおれの身体は小刻みに揺れ続けていた。寒さでもなく、怒りでもなく、これはどこからくるふるえなのか、自分でもうまく説明はできないが、とにかく身体が揺れ続けていたのだ。

 電車に乗り、空いている席に坐った。呼吸を整える。電車の音や周囲にいるはずの人々の声はおれの耳には届かない。一切の無音世界。胃を、血液を、心臓を、脳味噌を吐き出してしまいたいとさえおれは思った。つまりは、死にたい、と。その四文字がおれを支配しはじめていることに危惧を覚えたおれは首を振った。海が、いや墓場が、おれの脳内に浮かんでいた。町を行き交う人々が紅く染まった葉に眼を細める季節に入っているというのに、真夏のように、おれの身体は火照っていた。顔面から忌々しさを覚えるほどの大量の汗が噴き出していた。電車の振動とは別の揺れが、依然として、おれの身体を小刻みに揺らし続けていた。

 そのとき、電車を降りるべき駅、高幡不動(たかはたふどう)を過ぎていることにおれは気づいたが、おれの思考は電車を降りるという方向には辿り着かなかった。おれは沈思黙考した。死んではダメだ。たった一度の失恋ぐらいで。そもそも本当に彼女のことを愛しているのならば、やるべきことがあるはずだ。きっとおれは試されているのだ。誰に? わからない。しかし、夢を叶えてゆく彼女の姿を見守るべきだ。そうだ、それこそが真実の愛情というものだろう。


 無償の愛。そうだ、それこそがなによりも高尚な愛の形なのだ。


 電車は新宿を目指して走っていたが、おれの煩悶(はんもん)は続いていた。電車から降りなければならないということは頭の片隅にあるのだが、おれはそれを実行できずにいた。 

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