第4話
おれの母は、おれが小学生になる前に死んだ。
実家の近くにある浜辺の雑木林のなかで首を吊って死んだのだ。そのせいだろう、おれが海というものに墓場を連想してしまうのは。
母は若い頃から自殺未遂を繰り返していたという。結婚して、子供が出来て、そうすればなにかが変わるんじゃないか、と父は考えていたらしい。しかし、その考えは甘かった。母が変わることはなかったのだ。彼女が持つ死への執着は凄まじかったんだ、と父はおれに語ったことがある。誰もとめることなど出来なかったんだ、と。それは決して父が自責の念から逃れるために放った言葉ではないと、おれは信じている。
おれははじめて千亜のライブを見た日から、彼女のライブにはすべて足を運んでいた。千亜のライブは月に二、三度あった。この日は、横浜にあるライブハウスで、アメリカ同時多発テロのチャリティーイベントに出演する千亜を観に、おれは横浜に来ていた。
リハーサルを終え、出演までの空いた時間を使って、おれは千亜と花夏と一緒にライブハウスの近くにある海が見える公園に来ていた。この日、花夏も千亜と同じチャリティーイベントに『りゅうず』として参加することになっていたのだ。
闇を照らすために点けられた無数の光のなかにたゆたう墓場、海があった。その頭上にはベイブリッジがある。
花夏はおれが千亜のライブに毎回客として参加していることを知ると、途端に不機嫌になった。
「わたしのライブには一回来たきりですけどね」
花夏が口を尖らせて、そっぽを向いた。だから今日来たじゃん、とおれが言うと、花夏は、今日来たのは千亜さんのライブと一緒だったからでしょ、と吐き捨てた。図星だ。おれが慌てふためいていると、苦笑いを浮かべた千亜が花夏をなだめてくれた。
おれたちの手には缶コーヒーがあった。話はいつしかUKロックについて、になっていた。このときおれと千亜はロックのなかでも、特にUKロックが好きだという共通点があることが判明したのだ。 ミューズの新作、特に出だしの一、二曲目が最高に恰好(かつこう)いいとか、オアシスよりも、ザ・ヴァーヴのほうが好きだとか、スウェードの楽曲が持つ不穏さに惹かれるとか、マンサンの『テイク・イット・イージー・チキン』は一日中繰り返し聴いていられるなど、話は尽きることがなかった。
千亜は猫のようなその眼で、生者を吸い込みそうなほど深淵に見える墓場、いや海を見つめていた。
「きっと生まれ育った場所で、作るものって変わるんだろうね。イギリスやシアトルは雨が多いから陰鬱なものが多いってよく言うじゃない」
おれと花夏が相づちをうつと、千亜が続けた。
「冬は白銀(はくぎん)に染まる海が広がっていて、夏は天鵞絨(びろーど)の風が吹いてる。それに、はてしなく伸びる国境線。わたしが作る音楽とそれらってリンクする?」
千亜は北海道出身だった。といっても、実際に住んでいたのは小学生の高学年までらしい。彼女は両親の離婚を機に、北海道から母の実家がある東京へ引っ越してきたらしかった。
「穂高さんの実家はさ、どんなとこ?」
千亜がおれにそう訊いた。おれは高校を卒業するまで過ごした九州の田舎町に思いを馳(は)せた。脳裡に、湯気がもうもうとあがる景色が浮かぶ。そこは日本屈指の温泉街。
「とにかく臭い町。……原因は硫黄臭なんだけどね。そんでもって、地獄への入り口がいくつもあるところ」
千亜は猫眼を少しだけ丸くし、そして、屈託なく笑った。
「地獄を身近に感じてた人が曲を作ったらどんなものが出来るんだろう」
花夏が缶コーヒーを持っていないほうの手を挙げる。
「わたしは、わたしのところは、茶畑と、それと……台風情報に原発」
おれと千亜は黙ってうなずいた。花夏はなぜかその反応に満足したようで、ひとりほくそ笑んだ。
千亜はこのとき、将来は海が見える場所で音楽とともに生活したいと語った。そこにおれとともに、という言葉がなかったことに寂寥感(せきりようかん)を覚えたおれは、彼女への気持ちを理解した。おれは彼女が作る楽曲のみならず、彼女自身に好意を持っているのだ、と。
その後、千亜は北海道の思い出を語った。そして、父のことを。
肉体労働者だったという千亜の父は不倫をし、家庭をおろそかにしたという。それが原因で両親は離婚をしたらしいが、彼女はやさしかった父のイメージしか持っていないという。母に気をつかって離婚後は一度も父には会っていないが、父に対するイメージは今でも変わらないどころか、不思議なことに日増しに良くなっているのだ、と千亜はおれたちに語った。
だからこそ、千亜は年の離れたあの男を愛してしまったのかもしれない。
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