第2話

 おれが守千亜と出会ったのは、八王子にあるライブハウス『リップコード』だった。

 それは世界貿易センタービルやペンタゴンに航空機が突入する一ヶ月ほど前のことだったから、今から一年と少し前の話になる。同じ大学の軽音楽部の後輩である国井花夏(くにいかな)がそのライブハウスに出演するというので、おれはその場所に足を運んだのだ。一緒にいくはずにしていた軽音楽部の仲間が二日酔いを理由にパスしたため、おれはひとりでその場所へ赴いていた。

 

 『リップコード』は雑居ビルの四階にステージがあり、五階に出演者の控え室と事務所があった。

 雑居ビルの四階でエレベーターを降りると、すぐに受付があった。そこには愛想とは縁のなさそうないかつい男が坐っていた。花夏のバンド『りゅうず』の招待客となっていたおれが自分の名前を告げると、受付の男は面倒臭そうにコインを一枚おれに差し出した。男からコインを受け取ると、おれは受付の奧にあったぶ厚い防音の扉を開けた。


 前のバンドの演奏が終わったところらしく、ちょうど花夏やそのバンドのメンバーたちがステージ上で楽器のセッテイングをしているところだった。おれはほかのライブハウスのシステムに倣うようにバーカウンターへ赴き、コインを生ビールに替えた。

 生ビールが注がれたプラスチックのコップを手に持つおれは、フロアの隅に並べられた椅子に腰かけた。満員とはいえないが、それなりに客は入っていた。おれと同年代とおぼしき若い男女が客の多くを占めている。


 おれよりふたつ年下の花夏は『りゅうず』という四人組のバンドでギターボーカルをやっていた。花夏以外のメンバーはすべて男で、おれは彼らと面識はなかった。それもそのはずで、花夏は大学とは別に音楽の専門学校にも通っており、その専門学校の人たちとバンドを組んでいたからだ。

 軽音楽部での花夏の姿は知っていたが、おれが『りゅうず』での花夏の演奏を見るのはこの日がはじめてだった。


 鼓膜を突き上げるような爆音で『りゅうず』の演奏ははじまった。小柄な花夏がフェンダーのギターを鳴らしながら歌う。花夏の金色に染めた髪は、照明のおかげで赤や緑など様々な色に変化して見えた。

 ギター、ベース、ドラム、男たちの演奏の技術は高いように思えた。むしろ演奏面では、花夏が足を引っ張っているようにさえ感じた。

 花夏は輝く汗を四方に飛び散らせて歌っていた。客が思っているよりもステージ上が暑いことを、おれは経験上知っていた。ステージに設置されたいくつもの照明が出演者を熱するのだ。さらに、ライブハウスのキャパシテイが狭ければ狭いほどにその熱さは倍増する。おれは高校生の頃からギタリストとしてバンド活動をし、大学でも軽音楽部に所属していたのでライブハウスでのライブもそれなりに経験していた。もちろん、花夏とは違って趣味程度の活動しかしてこなかったが。


 唐突に、フロアから野次が飛ぶ。下手くそ、と叫ぶ声が熱気に充ちた空間で異彩を放った。おれはその野次の主を眼で追った。その男はフロアの後方にいた。仁王立ちで腕組みをし、野次を飛ばした長身の男が、この『リップコード』の店長である豊岡(とよおか)という人間であることは、このライブ後に花夏から聞いておれは知ることになった。


 はじめて見る花夏のバンドの印象は、単純に格好良かった。

 その小さなライブハウスのステージに立つ後輩を見守ったあとに出演したのが、千亜だった。彼女はソロシンガーだったが、この日はベースとドラムのふたりの男をサポートメンバーとして呼んでいた。

 花夏のバンドの演奏を見るという当初の目的をはたしたおれは、そこで帰ってもよかったのだが、なんとなくその場に居坐っていた。セッテイングをしている千亜がその手に持つアコースティックギターがマーチンでもギブソンでもなく、ギルドであることにセンスの良さを感じたことが理由だった。


 千亜は小柄である花夏よりもさらに小さくて、細かった。生成(きな)り色(いろ)のワンピースを着ており、赤い靴を履いていた。特別な美人ではないものの、黒髪ショートが似合っており、猫のような眼が鮮烈なまでに印象的だった。


 曲は千亜が鳴らすギルドのアルペジオではじまった。そこにベースとドラムが入ってくる。はじめは頼りなさげだったささやくような歌声は、やがて伸びやかで力がこもったものに変貌していった。真昼ではなく、真夜中でもなく、陽が落ちたあとの残照、ほのかで不確かなその光を、千亜の音楽はおれに喚起させた。壮大だが、どこかに翳りが見え隠れする楽曲。レネ・マーリンのデビュー曲を発見したときのような胸のざわめきが、おれにはあった。端的に言ってしまえば、好みの音だった。

 彼女は懸命に歌っていたが、決して悦に入っているわけではなかった。その眼差しに、その所作に、怖さを感じてしまうほどの迫力があった。いつしか背筋は伸び、おれの両眼は彼女に釘付けになっていた。


 トラブルがあったのは、ライブの終盤になった頃だった。千亜のギルドの弦が一本切れたのだ。それは一弦だった。それを見ていた店長の豊岡がすかさず野次を飛ばす。

「おい、しっかりメンテしとけよ」

 聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女は弦が切れたままその曲をやり切ると、そのあとのMCでこう言った。

「六本の弦が五本になって弾きやすくなったからラッキーだね。より歌に集中できるようになったからね。なので、このままラストの曲をやっちゃいます」

 彼女が蠱惑的(こわくてき)な笑みを浮かべると、その場にいた客たちが歓声をあげた。

 ギターの弦が切れると、チューニングが狂いやすくなるものだが、彼女はそんなことを考えさせないほどに場を圧倒していた。


 逆境を逆境に見せない彼女のライブは最高潮に盛り上がった。フロアの隅にある椅子に坐っていたおれは立ちあがり、彼女だけを見つめ続けていた。

 今考えると、あのときすでにおれは、守千亜という人間の虜(とりこ)になっていたのだろう。


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