キャスケイドの庭

秋寺緋色(空衒ヒイロ)

 


「一体どうすりゃいいんだよ」


 男が一人、夜の美術館で嘆いていた。

 彼がいる此処は美術館内に設けられたカフェ――ではなく、そこから客たちが眺めるであろう人工滝の傍らだ。

 磨かれた横長の石が階段状に並べられ、表面を泡立った水が伝い落ちてゆく――西洋庭園ではよくお目にかかる造形物。

 一日五本までと決めた煙草を携帯灰皿で揉み消し、胸ポケットにしまう。現在四本目。遅い夕食後と風呂あがりと。あと二本は吸いたい。だが、新妻の眉が険しく吊り上がるのを幻視。

「そっちはまぁ、明日の本数を前倒しするとしよう……それよりも問題は企画展、だよなぁ……」

 周囲に目をやる。

 廊下の間接照明と階段滝を照らすスポットライトだけが光源だ。

 今度は夜空を振り仰ぐ。

「俺みたいな駆け出しの学芸員キュレーターに企画出せって言ってくれんのは有難い。そりゃ有難いよ。認めてくれてんだって思うし、経験積めるし。でもなぁ、一人の人間ができることには限界ってものがあるんだ……」

 月が出ていた――

 満月でも、新月でもない。三日月にしては少し太っていた。

 さぐる指が胸ポケットに仕舞われた煙草ケースに触れる。

 取り出した真新しい一本を男は口にくわえた。

 五本目……

 一瞬躊躇したが、ライターで火を点けた。

 深呼吸みたいに肺に吸いこんで吐くと、煙は透明に近い薄紫色になってしまっている。

鹿熊かぐま賢一郎けんいちろう画伯の御家族が寄贈してくれた絵画の数は確かに膨大だ。我が美術館が所蔵数じゃ日本一だろう。でも、鹿熊画伯はみんなが知ってる有名画家じゃない。知る人ぞ知る――ってタイプなんだ」

 ありふれた夜にありふれた月が出ていて、ありふれた男にはありふれた悩みが尽きない。

「企画展でテーマや作風絞ったところで、そもそも『誰なのそれ』ってなるんだよな……出身地は此処だけど海外生活長くって、最初認められたのも海外だから。いくらフランスで勲章もらったからって――こっちじゃ殆ど知れ渡っちゃいないんだよ」

 胸から携帯灰皿を取り出し、中で揉み消し、またポケットにしまう。

 ――と、そのとき、

「ねぇ、代わりにキャラメルにすれば?」

 声がした。女の子の声。

「?」

 声の方向を見た。

 色の薄いワンピースを着た女の子だ。

 素足にサンダルを履いている。

 カフェから階段滝に至るドアから来たのだろうか。開いた音はしなかったけれど。

 女の子は、同じところを行きつ戻りつしながら、何度も歩いている。

「ウチのお父さんは時々そうしてるよ。煙草止めなきゃ――って」

「……そう……」

「そうだよ。体に悪いし」

 女の子が笑う。小学三、四年生くらいだろうか。しっかりした話し方をする。

「君は――」

「ええと……散歩の途中なんだ。もう帰るね。はいっ!」

 急に男の手に赤い箱を押しつけてきた。

「オマケはあげられないけど、キャラメルはあげる。煙草を吸いたくなったら――」

 男は女の子が手渡してきたものを見た。

「これ食べて我慢すればいよ」

 誰もが、一度は目にしたことがある包装のキャラメル箱。

「ああ、でもこれ――」

 男が視線を赤い箱から戻す――と、すでに彼女はいなかった。

 その場からすっかりき消えていたのだった。



         ☆



「マキ君、何それ?」


 家に帰った男はダイニングテーブルの上に、赤い小箱を置いた。

 いつもと違う、ほんの少しの変事をも、妻は見逃さなかった。彼女の許可なしでは、家の中のどんな些細なことであっても、変化することは認められないのだった。

 スリッパをぱたぱた鳴らし、キッチンからテーブルの方へと歩いてくる。

 水色プラスティックのトレーには夫の遅い夕食が載せてあった。

 ちなみにマキというのは牧田健二という彼の名前からくる渾名あだなだ。今となっては妻も同じ牧田姓なのだが、結婚前から呼び慣れているのでそのまま使用している。

 おかずを盛りつけた皿や御飯の茶碗、水の入ったグラスや箸を、彼女は手際良く並べてゆく。

「律子さんはさー、幽霊って見たことある?」

 問いを問いで返され、妻が言いよどむ。

「むうっ……無い、わよ……それってもしかして幽霊の?」

 赤いキャラメル箱を指さす。

「そう……いや、どうだろう……どう思う?」

 ――マキはこれまでの経緯を律子に話した。

「確かに、オマケは譲れないわね……」

「いや、そこじゃなくて――」

 手で制す律子。うなずいて人差し指を彼の目の前に立てる。

「仮説その一、疲れていた」

「いやいや、幻覚見るほどじゃないよねぇ……」とマキ。

 中指を加えて立てる。

「仮説その二、美術館関係者の子供」

「いやいや、その時間は俺と守衛さんくらいしか館内にはいなかったし……」

 薬指を加えて自信なさそうに曲げて立てる律子。

「仮説その三、少女は夜な夜な絵から抜け出し――」

「いやいや。ないない。それはない」

 マキが話途中で否定をはさむ。

 向かい合ったテーブルの上で、律子は赤箱を指でちょんちょんつつき始める。

 赤い箱の表面には、筋骨隆々とした男が両腕を万歳し、片脚を上げて誇らしげに笑っているという――お馴染みの絵が描かれていた。

 律子が独り言のように呟く。

「かせつ……そのよん……」

 マキは次の言葉を待ったが、彼女が次の仮説を口にすることはなかった。

 箱を時折突いてはぼんやりしている。

 微かな溜息をつくマキ。

 彼は箸を取り、夕食を頂くことにした。

 静かな食卓の時間が流れてゆく――

 しばらくして、食事も終わりにさしかかった頃、律子がキャラメル箱を見て、怪訝な顔付きになる。

「あれ? まさか……」

 何かに思い至ったように、しばらく箱に魅入っていたが、次の言葉を待つマキの気配に気づくと、

「いやいや。ないない。それはない」

 手を胸前でぶんぶん振って笑った。



         ☆



 床タイルの上の砂を踏みしめる音がしたと思ったら――


「こんばんは」


 ――すでにあの女の子がマキのそばに立っていた。

 何となく今夜も会えるような気がしていたので、マキはさして驚かない。

「来ると思ったよ」

「えっ……?」

「あ、いやいや……それより、君は一体どこの子なんだ? こんな夜分に……家の人に怒られないのか?」

「怒られないよ。あたし幽霊だもん」

 言葉に詰まるマキ。

 ゆ、幽霊だぁっ!? 嘘つけ!

「三角の布を頭につけてないし、足もある」

「昔風の幽霊ね。でもあたし、現代いまの子だから、そういうんじゃないよ。でも幽霊」

「証明できる?」

「できない」

 つくづくハッキリ物を言う女の子だなぁ、とマキは思う。こちらの質問に殆ど即答で返してくる。迷いもない。

 こりゃ、本当に幽霊なのか?

 そう思うと少し寒気がした。

 マキが押し黙ってしまったので女の子が話し始める。

「昨日の夜も、あたしここに来たじゃない? で、今夜も来たんだけど、何だかその間の記憶が全然ないんだぁ……」

「でもお父さんのことは覚えてるんだろ? 煙草の本数を減らすためにキャラメルで我慢するお父さん――」

「う~ん、それもねぇ……顔も名前も、どういうわけか思い出せないんだよねぇ。お父さんのことも、すっかり忘れちゃってる」

「……」

「キャラメルをあなたにあげたのは覚えてるよ。でも、それから今の今まで、自分がどこで何してたのか記憶がない」

「……」

「自分の名前も分かんないし……これってあたしが死んだ人間だからじゃないかなぁ? あなたと会ってる時間しか、あたしはこの世に存在しない、とかね」

「単なる記憶喪失なら、昨夜以前の記憶だけが消えてるはず……なのに、昨夜から今夜までの記憶までもが抜け落ちてるってことは――単なる記憶喪失じゃないのかもね。特殊な記憶障害……? 寡聞にして存じ上げませんが……君、やっぱり幽霊かも。なら、分類は地縛霊かな?」

「ヤだなぁ、幽霊……しかも自爆霊……? ドッカ~ン!!」

「そっちじゃないって」

 マキは煙草を吸おうと胸ポケットを探るが、女の子と眼が合って手が停まる。誤魔化すように手をひらひらさせた。

「とりあえず、君に名前を付けなきゃ。名前がないっていうのは単なる不便以上に本当に恐ろしいことなんだ。それこそホンモノの幽霊同様に、君がこの世に存在していないってことになる」

 彼女は黙ってマキの言葉を聞いている。

「じゃあ、ナナシーってのは?」

 唐突にマキが言葉を放ってきた。

「ナナシー? ひょっとして……『名無しの権兵衛』から採った?」

「あたり」

 指をパチンッと得意気に鳴らすマキだが、女の子の笑顔は凍っていた。

「ネームセンス皆無だわ……ええと、そうねぇ……じゃあ、不本意ながら一応ナナシーから『ナナ』っていうのは?」

「……」「……」

 お互い一瞬考え込むが、

「イイね」「でしょ?」

 意見がまとまった。

「じゃあナナ、君にさっそく提案だ。今夜行くあてはある?」

「ないわ。何よりこれからどうなるかも分からない――っていうか、あたしは幽霊なんじゃないの? 幽霊じゃないとしたら何なの?」

「分かんないよ、そんなの」

「オトナなのに、頼りになんない……」

 ナナがそっぽを向く。

 軽く笑って彼は胸ポケットを探った。

「そんなこともないさ」

 強烈に煙草が吸いたい――

 幾分曲がったのが一本きり出てきた。

 先の方をライターの赤い火であぶる。

 紫煙が薄く漂う。

 建物で歪に切り取られた夜空を見上げた。

 今宵は曇り模様。

 月は見えない。

 ――ふと、マキは既視感に囚われた。

 そういや彼女、雰囲気っていうか、まとうオーラみたいなのがどこか律子さんっぽい……

 始めっから見ず知らずの人間と話してる気がしなかったしな……

「ナナ、さっきの提案の続きだけど、行くとこないなら、今夜はウチに泊まりにくるかい?」

 今日は煙を肺に入れず、盛大に吐き出した。

 もうもうとした煙が辺りを満たす。

 煙草の代わりにキャラメルを、という彼女の希望を聞き入れずに煙草を吸ってしまった――その悪しき所業にナナはきっと呆れているだろうな。

 マキは少々負い目を感じ、照れ隠しのような笑いを浮べると、返答を聞こうと彼女を見た。

 ――が、すでにそこにナナはいない……


 またもや彼女は消えていた。



         ☆



「グエッヘッヘッヘェ~~!! 若い娘と毎夜毎夜イチャイチャお楽しみですなぁ~、旦那ぁ!?」


 下卑げびた山賊のような声色で律子が茶化してきた。

 マキは夕食の手を停めて問う。

「イチャイチャ……してるかな?」

 律子がマキの方へやってくる。

「さあ……」

 不機嫌そうに鼻を鳴らし、顔を逸らす。

 水の入ったコップを運んできて、マキの前に置く。そのままテーブルの向かいに座る。

 マキは食事を再開した。特製コロッケを口に運ぶ。

「まぁ、でもさ。いいんじゃない? 気晴らし、ウサ晴らしになるでしょ? 最近マキ君、企画展のテーマで相当お悩みだったようだし――」

「ん? 何で知ってんの?」

「夫婦は阿吽あうんの呼吸。何でもお見通しですよ? 旦那様の悩みの大半――およそ七十三パーセントが仕事がらみであると調査結果が出ております」

「随っ分、細かい数字が出てんだ?」

「そっ。科学的、統計学的にね」

 笑顔になる律子。

 マキは頭に別事が浮かび、急に考え込む。

 しばしの沈黙のあと、

「階段滝のところでさ――」

「階段滝? あぁ、カフェ横の……? そういえば、ああいう小滝の水階段を『キャスケイド』っていうらしいわね」

「そうなの? 律子さん、よく知ってるよね、そういうの……でね、彼女が急にあの場所に現われ始めた原因を、自分なりに考えたんだよ」

「あたしは昨日、あれだけの仮説を出すも、満足な解答にはついぞ辿り着くことが叶わなかった……で、何? マキ君の仮説って?」

 マキは大きく息を吐き出し、眼光鋭く言い放つ。

「多元宇宙論ですべては解き明かせると考えてる」

「おおうっ!?」

「いやいや、ゴメンゴメン。言ってみたかっただけ。本当のところは、何べん考えたところで全然分かんなかったんだ」

「なぁんだ」

 頭をかくマキ。それを見て吹き出す律子。

「明日の夜も来そうな気がするんだよね」

「そう……」

「もしそうだったら、彼女をウチに泊めてあげてもいいかな?」

 律子は少し困ったように笑う。

「良いわよ……でも――」「ありがとう、律子さん」

 最後まで聞かず、彼はサラダをフォークで突きだす。

 マキは「でも」からあとの彼女の言葉を聞き逃していた――

 律子はこう呟いたのだ。


「でも……そうはならないよ……」



    ☆



「よしとくわ」


 マキは言葉に詰まった。

 翌日夜、やはり彼女は、ナナはキャスケイドに姿を現した。律子に了承を得たので泊まりにくるよう促したのだが……

 ナナは断りの言葉を返してきた。

「どうして?」

 暫し唖然となってから、マキはようやく理由を問う。

「う~ん、どうしてかなぁ~? 強いて言えば予感……?」

「予感?」

「うん。何だか予感がするの。あなたと会うのは今夜が最後、ってね」

 マキは言葉を失う。

「せっかく名前も付けてもらったのに、ごめんね? でもそんなに長居ができるものでもなかったのかも……」

「……」

 マキは心でここ何日かの自分を振り返っていた。

 企画展に囚われ、追い詰められた自分。

 だが今は、なるようになるか、と思えてきた。

 何処からか現われた少女が、様々な悩みを吹き飛ばしてくれたから。

 ナナって名前も付けて、これから、色んな話をしたり色んな話を訊くんだ、と楽しみにしていた。

 なのに今夜が最後だと言われても――

 じきに訪れる別れのことを思うとやりきれない気持ちになった。

 彼女との時間は、ほんの二、三日の、僅かな会話でしかない。ささいなものだ。だが濃密だった。いや、濃密とも少し違う。とても意味のある時間だった。マキには、ナナと過ごした時間が、何か特別な意味を含んでいる気がしてならない。自分の人生の中に占める容量として決して少なくはないだろう――ナナが別れる予感ならば、マキの感じる予感はそれだった。


「ねぇ、あたしと遊ばない?」


 大人びた誘い文句に、マキの心が微かに揺れた。

 無論、一瞬後には誤解を招きかねない表現を、言葉通りに捉え直す。第一、ナナはそんな女の子ではない。一人合点もいいとこだ。そう思うと恥ずかしくなった。顔が紅くなるのを感じた。ナナに覚られないよう、マキは顔を逸らせる。

「何しよっか? あたしはね、『あっち向いてホイ』がいい! 断然いい! あたし、負けたことないんだよっ!?」

「へぇ……」

「疑ってるのね、その眼は? いいわ、実力は実際の勝負で証明するっ! いくわよ!?」

 両者が身構える。

「じゃ~ん、け~ん、ぽんっ! ――って、ちょっと待って、あなた背が高すぎるわよ? もう少しかがんでくれなきゃ……」

「これぐらいかな……?」

 ナナが頷く。

「試しに一回だけ練習しよっか? いくよ? じゃ~ん、け~ん、ぽんっ!」

 ナナの勝ち。人差し指をマキの顔の前に突き出す。

「あっち向いて~~、ホイ!」

 ナナの指は右。マキの顔は左だ。

 横目でセーフを確信したマキ。顔をゆっくり戻す。

「ぜんぜん強くなんか――んんっ!?」

 瞬間柔らかいものが唇に触れた。

 今の感触はもしや――!?

 ナナを見ると耳まで紅くなってうつむいている。

「……した……」

 何か言葉を発したが聞こえない。

「え?」

「失敗したぁぁ~~~~っっ!!」

 ナナの絶叫が美術館の谷間にこだました。

「ええっ!?」

「これでお別れだから、ほっぺたにチュウしてあげようとしたのに……」

「マウス・トゥー・マウス……だったね?」

「あああぁぁ~~~っっ!! 初めてだったのにぃぃ~~っっ!!」

 再度絶叫。

 声で守衛がやって来やしないか、慌ててカフェのドアや、見える窓すべてに目を走らせるマキ。

 そのとき――

「さて……時間だわ……」

 ナナの声が静かにそう告げた。

 彼女へ向き直ったときには、すでに変化が始まっていた。

 光の小さな粒がナナの胸の辺りから飛び散ってゆく。

 彼女を構成する物質が彼女から失われてゆくのだ。

 胸から両腕、腹、さらに下へ――

 光の粒が、ある程度溢れ散ると、そこに最早、彼女の体は存在していなかった。

「そう言えばあたし、あなたに何か大切なことを伝えに、ここにやって来たのよ……」

「大切なことって……?」

 光の粒が流れ散り、さらに体が消えてゆく。

 太もも、膝のあたり、ふくらはぎ、爪先へと消えてゆく――

 舌を出して笑うナナ。

「……忘れちゃった……」

 最後にナナの笑顔が静かに消えゆくのを、マキは茫然と眺めやるしかできなかった。


「……ごめんね……」


 キャスケイドを伝い落ちる、控え目な水の輝きだけがそこには残されていた。



    ☆



 夕食のテーブルでうな垂れるマキ。

 律子が夕食を運んできた。

「元気、ないのね?」

「うん……」

 料理の盛られた食器を目の前に並べられるが、マキには食欲が湧いてこない。

「仮説その五」

 言いつつ、テーブルの向かいに腰を下ろす律子。

「えっ、何――?」

「黙って聞いて。あなたにこんなことを言っても信じないだろうけど――」

 そう前置きして彼女は仮説を語り始めた。

「あのキャスケイドの辺りは時空がヘンにねじけててね。そこに過去の世界から一人の女の子が空間転移してきたの」

「クウカン……テンイ……」

 馴染まない言葉を持てあますように、マキがつぶやく。

「彼女は未来人から託された言葉をあなたに伝えに来た、メッセンジャーだった」

「一番突拍子もない仮説だね」

「最初は分からなかった。マキ君と同じで女の子は幽霊だと思って身震いしたよ。でもそうじゃない。彼女は――」

 律子が彼女自身を指さす。

「――あたしだった」

「……」

 言葉を失うマキに彼女は続ける。

「記憶は失われてた。マキ君の話を訊いて、あのキャラメルの赤箱を手に取るまでは、ね。そこから少しずつ思い出し始めたの、その時のことを。昔、訳のわかんない場所に行って、どこかのおじさんと話した記憶があたしにはある、ってね」

 口をぽっかり開けているマキに、

「そのとき、あなたがあたしをどう呼んでいたか言いましょうか?」

 唐突、かつ信じがたい仮説だった。

 マキは律子の目を見つめるだけだった。

「確か、あなたに奪われたものも……あったわね?」

 暫しの間を置いて思い至り、目を見開くマキだ。

「あ、あれは奪ったんじゃなく奪われたっていうか……」

「少しけるな……」

 感慨深く目を閉じる律子。

「じゃ、じゃあ、やっぱり……」

 静かな時間が束の間流れる。

 彼女は目を開け、悪戯っぽく微笑んだ。

「――何てね。ウソウソ。大ウソ。作り話だよ。仮説その五って言ったでしょ? 未来のあたしが過去のあたしにメッセージを依頼して、過去のあたしが未来にタイムスリップして頼まれた言伝ことづてをあなたに聞かせる?――SF映画じゃないんだから、そんなこと実際には起こらないよ」

「でも、じゃあ、あの子は?」

「……誰でもいいんじゃない……? マキ君、最近フサいでいたから、神様が寄越してくれたんでしょ? 『元気出しなさい』って」

 一瞬黙りこむマキ。だが、まだひとつ。彼には腑に落ちないことがあった。

「メッセージって――?」

「?」

「彼女が伝えようとしたことって何だったんだろう? その……仮説では君が未来から依頼したっていう――」

 律子はしばらく思案してから、

「ヒントは彼、あるいは彼女。遠からずあたしたちのもとにやってくる存在……」

「……?」

「こいつぁ~、にぎやかになりやすぜぇ、旦那ぁ?」

 潤んだ眼でマキを見つめる律子。

 随分時間が経ってから、ようやく夫は妻の身に起こった出来事を察したようだった。

 問うように彼女を見る。

 妻が静かに頷く。

 夫は彼女をゆっくりと抱きしめた。

 祝福するかのように――

 あのキャスケイドの水音が頭の中でねた。




〈了〉

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キャスケイドの庭 秋寺緋色(空衒ヒイロ) @yasunisiyama9999

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