瘡蓋

自分はほの暗い薄闇の中にいるのだろう。後ろには全てを飲み込む射干玉の闇が広がる。下がってはいけない、踏みとどまらねばと感じられるほどの何かが。

正面には眩い光がある。でもそこへは行かれない。光に触れようと伸ばした手は幾度となく焼かれ醜く爛れた瘡蓋を作ったから。


母に愛されたかった。

陳腐な表現の幼稚な願いだろうが、どんなに苦しくとも二人で助け合って生きて行きたかった。

母はいつも泣いていた「こんなに辛いのに何故だれも助けてはくれないの…、あの人は私をだまして捨てたわ…。お父様もお母様も私の様な女はもう娘ではないと仰るし…。」めそめそと泣く母の背を撫で何度慰めたか、自分が働いて母を楽にしてあげれば良いと、手にまめやあかぎれを作り必死に働いた。

そうすれば母がいつか母自身ではなく自分の方を見てくれると思っていたから。微笑んで抱きしめてくれると信じていたから。

それでも母は母だけを見ていた。最期まで。


死の床にある母はいつもの様に我が身の不幸を嘆き、残される千賀子を案じることは無かった。

来る人もない葬儀が終わった後の胸中は虚しさで満たされていた。悲しいほどにそこに寂しさや辛さは無かった。虚しさに怒りが混じり、初めて母に憎しみを抱いていたことを知った。


傷が出来た。


心に空いた埋めがたい隙間をどうにかして埋めようともがいて、光に手を伸ばした。最初は年若い書生だった。書生は優しく、千賀子が求めていたものを与えてくれた様に思えた。抱きしめてくれる腕の何と心地よかったことか、抱きしめる腕の何と幸せだったことか。

いくつかの季節を共にした後、書生は「結婚しようと思う」と千賀子に告げた。千賀子では無い相手と。「君は何て言うか、いい娘なんだよ。とても、けどね…、ほら…家柄がね…」目を泳がせながらそう話す書生の顔は二秒後には赤く腫れていた。体良く遊ばれた怒りを、自分の浅はかさへの苛立ちを腕に乗せ渾身の一撃を放った。


また傷が出来た。


その次は年上の上品な髭の紳士だった。紳士は千賀子をとても大事に扱った。件の書生の話を聞いても眉を顰める事無く、千賀子を慰めその傷を癒そうとした。彼は完璧と言ってもいい素晴らしい紳士だった。ただ一点を除いて。

その日千賀子が目にしたのは上品な紳士に相応しい、上品で美しい妻と両親に愛されているであろう可愛らしい子供だった。


また傷が出来た。


さらに次は逞しい体の車夫だった。車夫は千賀子の過去を笑い飛ばして慰めた。豪快で人の話を聞かないところもあったが千賀子とは馬があった、何より明るく照らしてくれるような笑顔に惹かれた。だがそのうちに男は千賀子を殴る様になった。最初は些細な言い争いからだ。そううち普段から殴って、暴れ、満足したら泣いて謝るようになった。千賀子決して我慢強くはない。そして黙ってやられるばかりの女ではない。

車夫がその後子供を持てたかは分からない。


また傷が出来た。


また傷が出来た。


また傷が出来た。


沢山出来た傷は醜い瘡蓋になってその身を埋める。

そのうちに手を伸ばすのを止めた。きっと自分には手に入らないものなのだろうと思った。それを手に入れるには相応しく無い人間なのだろうと。光を眺めて、綺麗だなと言っているのがお似合いの人間なのだ。


いっそ何もかも諦めて、堕落しきった人間になれば楽なのだろうかとも思った。だがそんなみっともなくて情けない生き方なんて真っ平だと思う自分がいる。

自分が光に触れられずとも、そこにいる人を肴に酒でも飲んでやる。それもまた楽しいかもしれない。






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