第6話

電車は、ラッシュも終わり空いていた。


座席についた私は、

バックの上からも手紙を感じていた。


一応、封の開けた手紙はしっかり糊付けしておいた。

万一…万が一「桐谷聡介」に会えた時の為に

今住んでいる者として、

近くに用事があったという体にして

持ってきたという不自然とも取れる

言い訳の用意までしていた。


衝動的な自分。

周到な自分。

生々しい感情に夫と自分自身への

憎悪が一瞬頭を過ぎった。


このまま遠くに行って

誰も知らない所で暮らすのも悪くは

ないかも……


けれど、そんな勇気もない事を私は1番よく知っている。だって私の事なのだから。


電車というのは、

いつも手持ち無沙汰で色々考える時間が出来てしまうのだ。


それにしても、

知らない駅に降りるというのは

すごく久しぶりだった。


1時間ほどして着いたその駅は

驚く程に何もないところで

駅前に喫茶店が1つあるだけで、

ファーストフード店も無ければコンビニすら無かった。


「えぇーと、ここからは…」


スマホのナビに桐谷聡介の住所を入れておいたので、道順を確認した。


有難いことに、桐谷聡介の家は歩いて15分ほどで

着く距離だった。


それでもパンプスではなく、スニーカーで来て

良かった。


来た事の無い場所。

見た事の無い風景。

何だかいつもの空気と違って

とても楽しい。


あの家の中で少しづつ枯れていく私が

まるで嘘の様に、

まだ24歳の瑞々しい自分に戻った気分がした。


そのせいか私の足取りは軽やかで、

15分もせずに目的地に到着した。


そこは、桐谷聡介の住んでいるアパート。


部屋の番号は203号室。


外側から建物を見回してみたが、

これ以上はどうすることも出来ない。


しばらく203号室であろう部屋の窓を見つめていたが、たまたますれ違った人の目にドキリとして

すぐに諦めて帰ることにした。


分かっていた。

来たって何の意味の無いことを。


それなのに、

行きの足取りとは真逆のように帰りは重かった。


勝手に来て、勝手にがっかりしていたのだ。


そのがっかりは、

さっきまでの楽しみにも似たドキドキとの

落差でかなりのものとなっていた。


またあの部屋に、

あの私を苦しめる所へ

帰るのか…。

また枯れていく自分を毎日実感しながら

暮らすのか。


そう思うとぽろぽろと涙が出てきた。


離婚を考えた事も実は何度かある。

でも、夫は優しくて「しない」事以外での

落ち度は無かった。

そんな理由で離婚まで考える私は

性欲が恐ろしく強いのだろうか。

その事にも目を背けたくなった。


そして、そんな理由で離婚なんて親にも言えない。


ただ、一生セックスなんてしなくてもいい!

そう割りきれたら、どんなにいいか。


既に夫に触れられる事に嫌悪感があるのだから

半分は割り切れている気もするけれど。


私はただ、愛してるって言われて抱かれたかっただけなのに。

それはそんなにいけない望みだったのだろうか。


そう思った途端、道の隅っこにへたりこんでしまった。

そして、子供の様に膝を抱えて顔を隠して泣いた。



すると、

「大丈夫ですか?どこか具合でも悪いですか?」

と私の母くらいの女の人が声をかけてきた。


「ほら聡介、手を貸してあげて」


聡介!?


そこで私は泣きはらした顔もそのままに

顔を上げた。


すると、そこには20代になったばかりの様な

大学生風の男の人が立っていた。


「立てますか?」


「…ちょっと目眩がしたら涙まで出てきちゃって。知らない土地だったものでホームシックというか…なので大丈夫です」


「聡介、送ってさしあげたら?お母さん先にあなたの部屋に行ってるから」


「あぁ、うん。歩けますか?」


「大丈夫です。1人で行けますから」


「また目眩がしたら大変よ!大丈夫、この子は変な事するタイプじゃないから!」


そう言うと、

軽快に笑った母の方はさっき私が行った方向へと颯爽と歩いて行った。


「母が強引ですみません。でも、本当に大丈夫ですか?タクシー呼びましょうか?」


聡介と呼ばれた彼は心配そうに私を覗き込んだ。


「いえ、歩けます。本当に。ご迷惑おかけしてしまい…こちらこそすみません」


急に恥ずかしくなり、ハンカチをカバンから取り出し涙を拭いた。


そして、「せめて駅まで送ります」と言ってくれた、彼の言葉で2人で駅までの道のりを歩くことになった。


この人が桐谷聡介なのだろうか。

まだ少年ぽさの残る彼の横顔を盗み見しながら、

そんな事を考えていると、


「ここから、どちらの駅までの行かれるんですか?」


と聞かれたので、ありのままに答えた。


「…谷川です」


すると、こちらが驚く程に彼の顔色が変わった。



この人が桐谷聡介に違いない。

それが確信へと変わった。





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