―(7)―


 そして次に目を醒ましたとき、私は見知らぬ草むらに寝かされていた。


 これは夢、それとも外か。


 ゆっくりと瞬きをし、天を仰ぐ。

 視界一面に広がる茜色。続いてその中を番だろう二羽の鳥が仲良く翔んでいる。

 私は深く息を吸う。

 青臭さと共に、夏の夕暮れ特有のやや温くなった空気が肺へと落ちる。そのまま掌を地面に置けば、ざらりとした土の感触が皮膚を通して伝わってくる。夢……ではなさそうだ。

 身を起こし、周囲を確認する。

 何処までも続く草原に、遮蔽物のない空。辺りに人気はなく、不気味なほどの静謐さが保たれている。

 心臓がばくばくと早鐘を打つ。


「ケイト。ラナ。お父様」


 誰でもいいから返事をして。そう願いなが首を振る。だがしかし、待てど暮らせど返ってくるのは静寂のみ。

 誘拐の二文字が脳裏を過る。

 けれど一体誰が、何のために。答えの出ない問いが恐怖となり、自然と呼吸が浅くなっていく。


 怖い。怖い怖い怖い怖い。


 身を守る、否、寒さに耐えるように私は自分で自分を抱き締めた。

 これからどうなってしまうのだろう。思考が悪い方、悪い方へと傾いていく。同時に一陣の風が吹き、後方で、かさりと音が鳴った。

 直ぐさま音の方向へ振り返る。だが、そこは相変わらず青々とした大地があるだけで誰も何もない。

 気の所為、だったのだろうか。

 視線を元の位置に戻した次の瞬間、私は大きく目を見開いた。

 正面。誰もいなかった筈の場所に、笑顔を浮かべた義弟が立っていたからだ。


「アイ……!?」


 名を呼びかけてやめる。

 違う。これはアインではない。

 顔、服装、笑い方。全てがアインなのに、彼ではない。何故だか強くそう思った。


「貴方は……誰、ですか? ひぃっ!」


 途端、アイン(偽)の唇が上向の三日月形にぐにゃりと歪む。


「なーんだ、バレちゃったんだ。残念」


 その声は、凡そアインのものとはかけ離れていた。非常に落ち着いた、それでいて妙な色気を含んだ美声だ。

 顔の歪み具合さえなければ、きっと大抵のご婦人が見惚れていたことだろう。

 私はゆっくりと、数歩後退る。相手が魔物であるなら私に勝ち目はない。せめて間合いから離れようとドレスの下で震える足を叱咤する。だがしかし――。


「ねえ。逃げないでよ」


 目の前の人物はそれを許さなかった。

 大股で距離を詰め、小柄な体格からは考えられない強い力で私の右腕を掴む。


「いたっ!」

「! ああ、ごめんね。人は、ぼく達と違って脆かったの、すっかり忘れてた」


 彼は拘束を緩めると代わりに手を繋ぎ、いや私の右手首に場所を移した。

 そうして気付く。

 アインの皮を被ったその手は、氷のように冷たかった。


「ふふっ。あったかくて細ーい腕。ぼくとは大違い」

「っ。離して!」

「んー、でも離したら、君、また逃げるでしょ?」

「にげ「まあ逃げたところで、すぐ捕まえるけど」


 こんな風にね。

 歪な笑みのまま、彼が目を細める。

 瞬間、背筋に冷たいものが走った。同じタイミングで全身が総毛立つ。


「ありゃ、怖がらせちゃった?」

「っ。貴方は魔物なのですか」


 私の質問に彼は一瞬停止すると、今度はからからと笑いだした。


「あはは。面白い質問だね。君の目からは、ぼくが魔物に見えるんだ」

「ち、違うんですか」

「んー、内緒」

「なっ。真面目に答えてください!」

「ぼくは真面目に答えてるよぉ」


 嘘をつけ。込み上げる怒りを飲み込み、私は落ち着けと自分に言い聞かせる。

 目の前の彼は、確実に私を誘拐した元凶またはその一味だ。ここで機嫌を損ねて首と胴体がさよなら……なんて事態は御免被りたい。

 なのでいま私が取るべき行動は、


「分かりました。あの、申し訳ありませんが座らせていただいても宜しいですか? 立ったままの会話は私にはその、少々辛いもので」


 恭順の姿勢を見せつつ、可能な範囲で情報収集。

 きっと今頃、屋敷ではお父様達が色々と動いてくれているだろう。下手に動いて私が邪魔をするわけにはいかない。

 私は意識的に肩の力を抜き、動きの鈍くなった表情筋で笑みを作る。かなりぎこちない笑顔だが、不遜な態度を晒すよりはずっとずっとマシな筈だ。


「ああ。ごめんね。なら場所を変えようか」


 彼がパチンと右指を鳴らす。

 直後、夕暮れの原っぱだった空間に一軒家が生えた。何を言っているのだと思われそうだが、文字通り、地面から家が生えたのだ。

 形は石造りの平屋。外壁は大地から伸びたにも関わらず、大した汚れはなく、夕日を浴びてほんのりと赤く色づいていた。

 なんだこれは。

 開いた口が塞がらない私に、アインの姿をした何かが、くすくすと可愛らしく笑う。


「ここならゆっくり話が出来るよ」




 手を引かれ、彼と共に平屋の中へ入る。

 内部は平屋という言葉に違わず、やや横に長く、天井はさほど高くない。

 坪面積はおそらく三十~四十程度。一人で住むには広すぎる住宅だ。

 私は導かれるままに、周囲を観察する。

 床、壁、窓。何処も長年使用した形跡も傷もなく、まるで施工終了後ですといわんばかりの艶と輝きを放っていた。

 これは魔法の類いなのか。

 視線を彷徨わせる私に、彼が喉の奥を震わせる。


「心配しなくても、床にも壁にも何も仕込んでないよ。っと、とーちゃく」


 そう言って歩みを止めた彼は、私から手を離すと、くるりと向き直った。


「ようこそ。ぼくの秘密基地へ」

「ひみつ、きち?」

「うん、そうだよ。まあでも今は家具も何もないからちょっと信用できないかもしれないよね」


 再度、指を鳴らす。すると今度は何処からともなくソファーとテーブル、絨毯や寝具といった必要最低限の家具が現れる。


「これでよし。あ、そうそう」


 何かを思い出したように少年が、パンと手を叩く。次いで窓と玄関の方からカシャンという硬質的な音。窓を見れば、先程までガラス窓だったそこに、物々しい鉄の格子―逃走防止―が追加されていた。この分では玄関も同じ状態になっているのだろう。なんとまあ入念なことだ。


「気を悪くしないでね。癖なんだ」

「、そうでございますか」

「じゃあお話しよっか。そこのソファーに座ってくれる?」

「え、ええ……!?」

「どうかした?」

「いえ。なんでもありません」


 何故お前が隣に座る。そして何故また手を繋ぐ。

 発しそうになった疑問をねじ込んで、私は平静を装った。


「そう? ああ、楽にしてくれていいよ」

「お、お気遣い感謝します。――あの、今更かもしれませんがひとまず自己紹介しませんか。ご存知かと思いますが私はアンジュ・ファリフィスと申します。貴方の事は何とお呼びすれば宜しいでしょうか?」

「ぼく?」


 彼は、きょとんと目を丸くして「名前……ぼくの名前」と独りごちる。

 ややあって少年が伏せた目を上げた。


「うん、決めた。ぼくの名前はナナシ」


 ナナシ……名無し、という意味か。何れにせよ本名ではないのは確かだ。


「分かりました。ナナシさん、と呼ばせていただきます」

「呼び捨てでいいよ?」

「は、ぐっ」

「ハグ?……抱き締めてほしいの」

「違います違います! その、差し支えなければその姿を解いてもらえないでしょうか」


 多分変化だと理解していても、このままアインの姿でやり取りするのは、なかなか心にクる。


「この姿が気に入らない? おかしいな。対象の最も愛する人物な筈なんだけど……まぁ、バレちゃってるし良いかな」


 直後、少年の体が光輝いた。

 その光は三秒ほど続き、きらきらと雪の結晶が散るような、スノードームをひっくり返したような。光の粒子が辺りに広がり、霧散する。


「うん。この姿なら大丈夫かな」

「っ、」


 細めていた目を、これ以上なく開く。

 そこにはアインの姿をしていた彼が、見知らぬ美青年として隣に座していた。

 

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