一夜のキリトリセン

増田朋美

一夜のキリトリセン

一夜のキリトリセン

その日、東京のなんでもそろっている大きな町から、一台の新幹線にのって、彼女はこの富士市にやってきた。富士という所は、東京のような四角い建物は何もなくて、目の前にある大きな富士山が、みんなを見渡しているような、そんな田舎町であった。彼女は、両親に言われるがままに、駅前に止まっていたタクシーにのった。父が、行先を運転手に告げると、運転手がそこへ行くには、40分くらいかかってしまうが、よろしいかと聞いた。でも、その近くにバスは走っていることも知らないし、ほかに交通手段があるわけでも無いので、そのまま行ってくれと、父親は言った。わかりましたよ、と、何だか嫌そうにいう運転手に、彼女は、変な場所へ連れていかれるのかと思った。

タクシーは、それでは、と尻を振って走り始めた。暫く、シャッターばかりの富士市内の街を走り、そして、田園風景ばかりの田舎町へ来た。彼女はこんな風景、見たことがなかった。

さらに走ると、何だか森のような場所を通ることになった。こんな所、人が住めるのだろうか。もし住んでいたら大笑いだ。出かけるにしても、車無しでは居られないような、それも、山道を走るのに適した車でないとダメなような。彼女は、おもわず笑いたくなってしまう。東京内でも秘境駅といわれている、白丸駅よりも、もっと本格的な森である。

そんな道を走って、少し開けた集落へでた。何軒か粗末な作りの家が建っている。そんなに粗末で、台風でも来たらあっという間に流されてしまいそうな。何だかここに住んでいる人たちは、もういつ死んでもいいと、考えているのかな何て、考えてしまう。誰でも、死にたくはないと思うだろうから。でも、私だけは別だ。

その集落から、車で五分くらい走った所に、その目的地はあった。

「ああ、ここですね。正門に貼り紙がしてあるっていうから、多分ここでしょう。」

父親がそういうと、タクシーの運転手は、縁起の悪い所に客を連れてきたものだ、とため息をついた。

正門には毛筆で「たたらせいてつ」と貼り紙がしてあった。それがすべて平仮名で書いてあるので、何の事だかさっぱり彼女にはわからなかった。

「ありがとうございました。ここで降ろしてください。」

父親がそういうので、正門の前でタクシーは止まった。運転手は、君もこの施設で暮らすのか、何だか可哀そうだなという顔で彼女を見る。

「ああ、運転手さん。気にしないでください。もうそうするしか、この子を何とかする方法もありませんので。」

と、いう父親。口調こそはきはきしているが、まだ迷いがあるような顔をしている。母親のほうは、疲労困憊といった顔つきで、もう全部が限界だという顔を示していた。この施設に来る人は大概こういう顔をしていることを、運転手は知っている。そして、両親と一緒にタクシーを降りた若い女性は、まだ、高校生か大学に入ったばかりという感じの年代だったが、もう何もかもがどうでもいいという顔をしていた。

「ほら、降りろ。」

父親に促されて彼女はしぶしぶタクシーを降りた。ものすごく反抗的な目つきをしていて、母が、ほら降りなさいよと促すのも躊躇してしまうほどだった。

「ありがとうございました。」

母が、タクシーにお金を払った。タクシーは、もうそれ以上の光景は見たくなかったのか、すぐにエンジンをかけて、走り去っていった。

「いくぞ。」

父親が、彼女の手を引っ張って、正門をくぐらせた。この施設の正門は、常に解放されていて、施錠されて居なかった。彼女は、その建物を観察する。製鉄所という所だから、大きな炉があって、その象徴的なキューポラがあっていいはずだが、そのようなものは全くない。それよりも、純和風の日本旅館という感じだ。

「ごめんください。」


父親が、やはり施錠されていない、玄関の引き戸をたたく。大きな引き戸であるが、なぜかインターフォンが設置されていなかった。

「すみません。予約していた、浅井祥子ですが。」

と、父親がもう一回言うと、

「はいどうぞ、開いてますよ。」

と、年配の男性の声がした。

「どうぞ上がって、応接室にいらしてください。」

と、声の指示に従って、三人は、靴を脱ぎ、応接室と貼り紙がしてある部屋のドアを開けた。不思議なことに、この建物には、玄関土間はあるが、上がり框がなかった。なので、そのまま、靴を脱いですぐに建物の中にはいるようになっていた。

「失礼いたします。」

三人がこわごわ部屋のなかにはいると、一人の高齢の男性が、つくえにむかってなにか書いていた。髪は男性であるのに長くて、腰まで伸びている。一応黒髪ではあるけれど、ところどころに白髪が出ていて、それが、高齢であることを伺わせた。その長い髪の間から、アンテナのようなとがった耳が見えていて、いかにも異様な人物であった。足が不自由であるらしく、彼は車いすに乗っていた。

「初めまして、主宰の青柳懍です。よろしくどうぞ。」

と、その人は三人のほうを向き、深々と敬礼し、そっと右手を差し出した。その手指は非常に長く、中指だけでも、六寸はあった。父親が、代表して手を握り返したが、非常に骨ばっていて、気持ち悪い感触だった。

「まるで、不死の老人と言われた、カスチェイみたいだわ。」

「よく知ってますね。」

彼女がそういうと、青柳先生はこたえた。つまり、耳は遠くないという事か。

「先生初めまして、先日お電話を差し上げた、浅井祥子でございます。」

と、父が言った。青柳先生は、どうぞ座ってください、と、三人をソファーに座らせた。

「本来であればお茶を出す所ですが、僕はこのような体ですし、雑用係も雇っていないので、申し訳ありません。ごめんなさい。」

と、頭をさげる青柳先生。ずいぶんへりくだった人だ。でも、着ている着物の袖口から、腕に描かれている桜吹雪がみえるので、やっぱり怖い人にみえてしまうのであるが。

「まず初めに、娘さんの名前をお聞かせ願えませんか。」

「はい、浅井祥子です。」

青柳先生にいわれて祥子は正直にこたえた。今まで、薬なんかをもらうために数々の偽名を使ったが、この先生の、ハリスホークのような鋭い目が、それを許さないという雰囲気があったので。

「年齢は?」

「19歳。」

青柳先生は、学歴と、職業を聞いた。祥子は高校中退ではたらいていないと、しっかりとこたえた。

母親が、一度レストランのウエイトレスの仕事をしたことがあったが、長続きせずやめてしまったと涙ながらにいう。母親は、すぐに、自分の育て方が悪いんだと言ったが、そういうことをいうのはやめましょう、と、青柳先生は言った。

「別に彼女がどのように育ってきたかなど追及する必要はありません。それよりも、彼女がどうなるかを考えるべきです。」

「どうなるなんてどうでもいいんです。あたしは、もう必要ないというか、そういう人間なんですから。」

祥子は、そう吐き捨てるように言ったのだが、青柳先生は厳しい表情で、

「祥子さん、僕は、入所するかた全員に申し上げているのですけどね。ここは終の棲家ではございませんよ。ここで死ぬのではなく、新たな場所へ帰ってもらう事。それが、ここの最大の目的なのです。」

と、言った。

「ということはつまり、また家に帰ってきてもらうという事でしょうか。」

母親が不安そうな顔で言った。

「ええ、そうですが。」

と、当然のように青柳先生がいう。それを見て、母親は真っ青な顔をする。

「お母さんも、また娘さんがもどってくるという覚悟を決めてください。一度不良と化してしまった娘さんであっても、結局はお宅しか帰る場所はないんですからね。」

そういわれて母親は落胆の表情を見せた。

「いや、大丈夫さ。祥子は、必ず、なにか学んでくるはずだから。それを私たちは提供できなかっただけの事だよ。」

父親が母親を励ます。若しかしたら、彼女よりも、母親の方が躓きの根は深いのかもしれないと思われる。

「あなた方は、つかの間のしあわせですが、娘さんのことは開き直って、彼女の帰りを待っていよう、といった気持で居てください。」

と、青柳先生は笑っている。多分こういう笑いは、慣れた人でないと出来ないだろうなと思われる笑い方だった。父親も母親もそれにつられて笑いだしてしまった。

「じゃあ、また近日中に手紙を書かせますから。」

青柳先生はにこやかに笑って、両親にこの施設を利用するための、費用を手早く支払わせ、速やかに帰させた。母親は、余分に何かだした様だが、先生はそれを受け取らなかった。

「じゃあ、これが、居室の鍵です。」

青柳先生は祥子に、「楓の間」と書かれているカギを手渡した。特に部屋の案内はせず、自身で見つけるようにといった。そして、そのまま車いすを動かし、また書き物の仕事にもどってしまった。

祥子は、とりあえず、荷物を整理するため、応接室を出て、自身の居室に向かった。そこへ行くには、かなり長い距離の廊下を歩いていかなければならなかった。しかも、廊下は鴬張りで、歩くたびにきゅきゅと大きな音を立てるので、施設から、脱走することは出来ないな、と思われた。廊下を歩いていくと、どこかからいち、にい、いち、にいと声がする。それと同時にギイギイとなにかを動かしている音が聞こえてきた。これは、天秤ふいごを動かす音である。同時にざざざとなにかを動かす音、バチバチと火が燃えている音も聞こえてきた。火を使ってなにか作っているのかな。と祥子は感づいた。さらに、廊下を歩いていくと、

「それでは、早く真砂鉄を入れろ!」

とでかい声で中年の男性がそういっている声が聞こえてきた。真砂鉄と聞いてピンときた。実物を見た覚えはないが、あれは製鉄だ。材木を燃やして、その熱で砂鉄をとかして鉄を作る、たたら製鉄と

いう技術だ。しかし、たたら製鉄というものは、江戸時代で終わってしまっている筈なのに、何で今時やっているんだろう?随分古い製鉄方法だ。大量の材木を使うため、山の木を大量に切り倒して、はげ山が珍しくないというし。それで鉄なんか作っても、ほんのわずかな鉄が得られる程度しかないのでは?有名なあのアニメーション映画では、そういうところが徹底的に批判されていた。

でも、祥子は、そういう昔ながらの物が嫌いという訳ではなかった。そんな珍しい体験が出来るなんてちょっとわくわくした。

急いで、楓の間を見つけ出して、製鉄現場に行ってみよう。そうしていい子を演じていれば、早くここから出して貰えるはずだ。そして、ここから家に帰ればまた遊べるのだ。幸い、楓の間はすぐに見つけられた。トイレも風呂も小さな台所もついている、何だかワンルームマンションのような、畳であることを除けば、過ごしやすそうな部屋だった。なんだ、意外と単純じゃない。製鉄をやって、いい子を演じて入ればでられる。演じるなんてちょろいもの。大人をだますなんて、簡単な事だわ。と、祥子は思っていた。どうせ、大人なんて、ただの見てくれや体裁だけにしがみついている、大したことのない人たちだ、と。

祥子は楓の間へはいると、荷物を部屋に置きっぱなしにして、すぐに部屋を出て行った。すぐに裏庭に行って、製鉄現場に加わらせて貰えば、また、良い子だと評価してもらえるだろう。簡単簡単!

そう思いながら、急いで廊下を走って行くと、

「何処へ行くんですか。」

と、青柳先生に声をかけられる。おもわず祥子は、ギクッとして、足を止めた。

「ああ、あの、あたしも製鉄に加わらせてもらいたいなと思って。皆さん何処でやっていらっしゃるんですか?」

と、おもわず聞くと、

「いいえ、もともと加わる必要はありませんよ。」

と、青柳先生はこたえた。

「なんでですか。あたしは、怠けている訳ではありません。ちゃんと、はたらこうという意思をもってここへ来たんです。だから、あたしだって、製鉄に加わってはたらくべきではありませんか?」

「ええ、そのお気遣いはわかっておりますよ。でも、製鉄は、女性がするものではございません。むかしから女人禁止制ですし、作業をするのだって、女性には適しておりませんよ。」

そうカラカラ笑う青柳先生に、祥子はまた怒り出してしまうのであった。

「でも、今の時代はやっぱり男女平等でもありますし。私、手伝いますよ。」

「いえ、そんなことはありませんよ。女性は女性に出来る事をすればいいし、男性は男性に出来る事をすればいいのです。女性が鉄を作るなんて、そんなこと出来るはずもありません。」

「そんなこと、あたしを加わらせてはくださらないのですか!」

むきになってそういう祥子だが、

「当たり前でしょ。ヒトヨの間は、キリトリセンを引いてはならないんです。いちどヒトヨを始めたら、必ずおしまいまで途切れずに作業をしなくちゃ。」

と、青柳先生は謎めいた言葉を言った。ヒトヨというと一夜かなと思った祥子は、

「じゃあ、明日になれば私もたたら製鉄に加わらせていただけますか!」

と言ったところ、

「ヒトヨの意味が違うんですよ。あなたは女性なんですから、女性に出来る事をしてくださいませ。」

とからかうようにいわれてしまった。全く、古いものというものは、女性を馬鹿にしているモノが多い。なんでもいいから、はたらいている所を見せたかったのに。これでは、何も居場所がない。

「さあ、用が無いのなら、お部屋にもどって、勉強でもなさったら如何ですか?」

と、青柳先生にいわれて、祥子はしぶしぶ部屋へ戻った。

部屋へもどっても退屈だ。どうせ、自分のやることなんて、つまらない勉強しかない。家の中ではそういわれている。勉強なんかして何になるんだろう。ただ、周りの者と比べて、出来ない奴には出来るようになる方法を教えてくれるわけでも無く、自分でやれと言って威張っている学校の先生や、将来のために今はいい大学に行くことが先決と言い張る大人たちに、勝手にやらされているようなものである。どうせ、勉強なんて、出来る人だけがやっていればそれでいいのだ。自分のような出来が悪いものは、学校でも、家庭でも、見捨てられて、あっちへいけとか、でていけとか、そういう風にされてしまうのである。そういう扱いしかされていないんだし、自分は、家でも学校でもこの世の中でも必要となんかされていない。大雨が来たら、濁流に飛び込んで死んでしまおう。祥子はそう考えていた。

部屋へもどりながら、周りから鉄を作っている声が聞こえてきた。ああ、男の人たちはこういうことがやれるんだなあと思う。有名なあの映画でたたら製鉄の現場を見たことがあるが、すべて手作業で、機械なんか一切使わない、非常に手間のかかる作業でもあった。ちょっとした細かい作業だって、大掛かりな作業になってしまうことも結構ある。祥子は、想像力があったので、男たちが力を出して、鉄を作っているのを、想像することはすぐにできた。砂鉄を入れる人、火の調節をする人、溶けた砂鉄を炉の中から取り出す人、ふいごを足で踏んで、火に風を送る人。みんなの呼吸があって、鉄という物が初めて出来るのだ。その中で必要のない人という者は何処にもいない。それがたたら製鉄という作業である。いいなあ、あたしだって一度でいいから、誰かに必要とされてみたい。

どうやら、廊下をまちがえてしまったらしい。なぜか楓の間は見つからず、中庭にでてしまったではないか。鉄がどうのこうのなんて考えてしまっていたから、どこかで曲がるところをまちがえてしまったのではないか?あれれ、あたしは何処へ行ったらいいのかしら。何だかこの建物は、長い廊下といろんな部屋があって、何だか迷路みたいな作りになっていた。初めてきた人は、一度や二度は、迷子になってしまう気がする。

そのまま、祥子は中庭にいく縁側の前に出た。すると、後ろから、咳の音がした。何だろうと思って、後ろを振り向くと、後に松の絵を描いたふすまがあって、そのふすまの向こうがわから咳が聞こえてくる。

何だろうと思って、祥子はふすまを開けてしまった。誰か別の利用者がいるのかと思った。若しかしたら、風邪でも引いて寝ているのかなと思い、病院にでも行った方がいいのではないかとも思ったので。

「あの、すみません。風邪でも引いて寝ているんですかね。それなら、近いうちに病院にでも行ったら如何ですか?」

なぜか知らないけど、そういうお節介をしてしまった。女性ならではの、変なお節介だ。

「あの。」

一人の男性が布団で寝ている。布団で寝たまま咳き込んでいる。布団にはなぜかシーツではなくて、ビニールシートが敷いてあることが異様だ。その上にその男性は、横向きになって寝ているのだが、その口元に朱肉のような液体がついているのを見て、祥子はおもわずきゃああと声を上げてしまったのである。

「だ、大丈夫ですか?」

おもわずそういうと、彼は、口元を枕元にあった手拭いで拭いて、

「あ、あ、ああ、どうも、すみません。」

と言った。

「どうもなんて、誰に謝っているんですか。」

何だか、明治時代にタイムスリップしたような気分だ。部屋の中にしいてある布団といい、部屋の大部分を占拠しているピアノ、その隅にある、木製の机と座布団。何冊かの楽譜が置いてある、本箱。何だか、明治時代、東京音楽学校にでも通っている、書生のような人がここにいるようにみえる。

「あの、大丈夫ですか。病院行った方が。」

その人は、祥子に軽く笑って、首を横に振った。

「行かないの?」

しずかに頷いたその人は、何だか、よく見ると外国の映画俳優のような顔つきで本当に綺麗な人であった。そうなると、また祥子は、ここが別世界のようにみえてしまう気がした。

「あの、私、浅井祥子と言います。今日からこちらでお世話になることになりました。本当は楓の間に行きたいんですけど、なぜかこっちへ来てしまいました。ごめんなさい、この建物、作りが複雑で、何だかわかりにくくて。」

「まあそうですね。」

と、彼は言った。

「確かに、この建物はそういう作りになってますから。」

多分脱走をふさぐためですよね、と、祥子は言いたかったが、それはやめにしておいた。

「一体どうしてこちらに来たんですか。なにか家庭で問題でもあったんですか。」

と、その人はいう。

「問題というか、私は、困ってしまっただけです。何も、やることがなくて、勉強しろとか、大学へ行け

とか、そういうことばっかり言われて。もう、誰かの付属品として生きるの、嫌になったんですよ。家に居れば親が自慢話の道具として私を見ますし。学校の先生は、親の期待にこたえろとか言って、必死に勉強させるように、でかい声で怒鳴りつけるだけですし。あたしのことを、唯一の家のほこりとして、周りに必死に自慢している親が、何だか滑稽にみえてきて。あたしは、結局テストで100点を取るしか、生きる道はないんだって知ったら、何だかがっかりしてしまいました。もう、あたしなんて、生きていてもしょうがないっていうか、どうしようもないっていうか、、、。あ、ごめんなさい。ついぺらぺら。」

もう、何回も学校の先生や、心理カウンセラー、精神科医、いろんな偉い人たちに、同じ言葉を吐いているのだが、彼らは自分が話し出すと、それを打ち消して、でも、あなたは生きなければだめとか、そういう綺麗なせりふを言って、黙らせるだけだった。そうではなくて、自分の話を最後まで聞いてくれたのは、彼が初めてだ。しかも、何も相槌を打たないで、なぜ、黙って聞いていてくれたんだろうか。

「あたしは、もう、生きていたってしょうがないんですよ。周りの人が悲しむからやめろということも言われたけど、あたしにしてみれば、そうなってくれるかどうかも疑わしい。だって、そういう目つきをされたこと、一度もありませんもの。高校に入ったばっかりのときは、優等生として、いつもにこやかに私を見てくれたけど、それにもう疲れちゃったと言って、少し休ませてとお願いした時に、私を叱った時の顔なんて、今でも覚えています。だから、私、気が付いたんです。親は、あたしの事、勉強ができなかったら、愛してはくれないんですよ。ほら親って、よく言うじゃないですか、どんな時でも、何時でも何処でも、子どもを愛してくれるのが親だって。でも、それは、大嘘です。そんなこと、私の家では絶対にありません。きっと今頃、あたしをここに預けて、たのしいバカンスでもやっているんじゃないかしら。ここに来たって、あたしは、鉄づくりにも加わらせてもらえないし、やっぱり社会でも必要なくなっているんじゃないかしら。」

その人は、黙っているが、その大きな丸い目で祥子を見つめている。其れで祥子は、さらにおしゃべりを続けてしまうのだ。なぜか、その人が黙って聞いてくれているのが、不思議と心地よかったのである。

「それでは、私、どうしたらいいのかしら。どうしたら、またたのしかった生活にもどれるかしら。もう、高校もやめてしまったし、仕事もしてないし、もう死んだ方が良いってことかしら。」

と、祥子は自分のことを皮肉るように言った。

「いいわね、偉い人って。勉強ができて、運動もできて、いい高校に行って、いい大学にもいって、いい会社に入って。いう事なしだわ。その途中で息を切らして、疲れてしまった人のことは見向きもしてくれないんだわ。」

「そうですね。確かに、偉い人のための教育というのは沢山あるんですけれども、低い身分の人の事は、放置したままですからね。ヨーロッパでは、バカロレアの試験を受ければ誰でも大学にはいれるとか、工夫をされていますけど、ここではそうじゃありませんから。」

祥子がそういうと、その人もそういった。その人は、また咳き込んだ。こんなに綺麗な人なのに、なぜそういう発言をしてくれるんだろう。綺麗な人であるというのも、今の時代であれば、運命を切り開いていく、絶好の武器であるはずなのに?

「どうしてそういってくれるんですか?あたしは、そんなこといわれた事、一度もありませんでした。ここでやっている、製鉄にも加わらせてもらえないで、あたしはどうしたらいいものでしょうか?」

祥子がそういうと、その人はにこやかにこう言った。

「別に一代にくわわってもらう必要がないからだと思います。男性は、ある程度力で抑えることが必要なんですけど、女性には、感じるということに優れていますからね。そこから学んで貰えるって、ちゃんとわかっているからだと思います。」

「それなら、あたし、どうしたらいいんでしょう。思っている事といえば今のような事だけですよ。それに、もうこの世に必要ないって、はっきりわかっているじゃありませんか。もう親にも捨てられちゃったようなものだし。もう、どうしたらいいのか。答えなんてすぐそこに出ているのではないですか?」

祥子はそれをもう一回言った。彼女は時が過ぎて行けば行くほど、自分がこの世から切り離されてしまって、どんどん必要のない人間になっていくのが、何だか悔しいという気持もあったのだ。

「そういう事なら、ここにいる利用者たちにその気持をぶつけてみればいいんです。ここの人たちは、多かれ少なかれさっきあなたが言った言葉を感じているでしょうからね。経験者ほど、あなたを直してくれる方は居ませんから。どんな偉い先生方であっても、その人には敵わないです。だから、どんどん利用者たちと話していけばそれでいい。必ずあなたのことをわかってくれる人はいると思いますよ。」

と、その人は言った。そんなヒントをくれるなんて、自分もすごい所へ来たものだ。若しかしたら、ここでの生活は、何か別のものになるのかもしれない。それがもし得られたら、変わってくるかもしれない。

「人間って、どうしてもワーワー叫ぶしか出来ない時ってどうしてもあるんですよ。そういう時は素直に助けてと、叫び続ければそれでいいんです。その代わり、しっかりと自分のされたことをはっきりと説明できるようになってくれないといけないですけどね。」

そうか、先ずそこから始まるのか。私は、それをはっきりさせておかないといけないな。

祥子は、そういう気持になって、まずは自分をしっかりと見つめなおして、問題をはっきりと口に出来るようになることに決めた。そして、それを、周りにいる人たちに、しっかり言葉で話すこと。これが一番大切だった。そのために自分は、ここへ来たのかもしれなかった。

これから、新しい生活が始まるんだ。

「早く行きなさい。もうする晩御飯の時間になると思います。」

と、彼は言った。確かに、近くの部屋の方から、

「ごはんよう。新人さん何処へ行ったのかしら。」

と、いいながら廊下を歩いてくる音が聞こえてくる。鴬張りの廊下は、誰かが歩いている音を明確に知らせてくれるのだ。先ほどはこの音のせいで、自分は誰かに監視されているのではないかと思ったが、今は、新しい生活が始まるのを、予兆しているような、そんな音だった。

「早く。食堂はこの部屋からすぐ近くです。」

と、いう彼に、祥子は、ありがとうございました、と小さく言って、しずかにふすまを開け、部屋を出て行ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一夜のキリトリセン 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ