私アムゴッド15 『私が神様になった日』
母は、物事をはっきりと言うタイプだった。
私の友達がどんな人なのか、なんてことには口は出さなかったけれど、私が珍しく家に呼んだ友達に対しても、駄目なものははっきりと駄目だと言う、そんな人間だった。
小学生にとって、友達の母親から怒られると言うのは、それなりにショックな出来事で、当然、そんなことがあれば家に帰り家族に報告をする。
当然、怒られるのには正当な理由がある。
けれど、どんな理由があれ、他人の子を叱るというのは、中々に勇気がいることだ。
具体的にどのような勇気かというと、嫌われる勇気。
「嫌われることに勇気なんて必要ないよ」母はそう言った。「なぜかって? 千尋。あなたは嫌いな人がいる?」
うん、と私はクラスの嫌いな男子を思い浮かべながら言った。
「千尋はその子の事が嫌い。同じように、千尋の事を嫌いになる人間がいるかもしれない。けれど、それは当然の事なの。だって、誰が誰にどんな感情を抱こうが、それは、その人の自由だから」
「でも、私は嫌われたくない」
「心配しなくても、この先何十年も生きていたら、いろんな人から嫌われるし、いろんな人から好かれるよ。千尋の事を嫌う人とは、付き合わなければいい。それだけの、簡単なこと」
もちろん、いくら嫌われてて、仲が悪い人でも、一緒に仕事をしたりしないといけないんだけどね。そう言って、母は笑った。
「そういう時はね、神様にお願いするんだよ」
「神様?」
「そう。千尋の中にいる、千尋だけの神様」
「お願いするとどうなるの?」
「きっと、神様が助けてくれる」
母の言う通り、この世界にはいろんな人がいる。人間の数だけ、考え方が違う。つまり、母のように物事を割り切って考えられる人もいれば、それが出来ない人もいる、ということだ。むしろ、母のようなタイプはあまりいないのではないか、と思う。
母の周りからは、次第に人が離れていった。
小学生になるまでは、ママ友とも仲良くやれていた方だと思う。あまり記憶はないけれど。
けれどそれは、”変わった性格の人”くらいの認識で、小学生にあがると本格的に、母のこの町における異常性は露わになった。
「千尋はどうして朝と夜が来るのか知っている?」
「ううん」
「地動説って言って、むかーしむかし外国の頭の良い天文学者が太陽の周りを地球が回っているって発見したの。宗教の関係でそれはすぐには公表されなかったんだけど……、ってまあ、難しい話は置いといて」母は立ち上がって、言う。「千尋は太陽。今母さんの顔は千尋を向いているから、母さんの顔はお昼だね。分かる?」
「うん。お母さんの後ろは夜?」
「そう。偉い、天才だね」その場でぐるりと半回転して、母が言う。「こうすると、母さんの顔の右側は、太陽の光が届かない」
「うん。夜になった」
「こうやって、地球は自分自身で回っているの。こうしてこの星には朝と夜が出来ました」
「じゃあ、今日はその回るのが早いの?」
「……そんなことはね。本当はありえないはずなんだよ」
「どうして?」
それは、千尋がもう少し大きくなったら、きっと学校で話してくれるよ。
そう言って笑った母の顔は、今ではもう思い出せない。あの時の母は、どんな顔をしていただろうか。
最後にみた笑顔のはずなのに、これっぽちも、思い出せないのだ。
死について、おかしいと言い出したのも、母だった。
こんな理不尽があっていいはずがない。どうしてあんなものが町を支配しているのか。
けれど、誰も母の言葉に耳を傾けようとはしなかった。この町ではそれが常識だから。リンゴの実が地面に向かって落ちることを不思議に思う人はいない。
それでも、母は壊れなかった。何かと文句を言ってはいたけれど、それでも気丈にふるまっていた。
母がおかしくなったのは、私が父親について質問をした時からだ。
「お父さんは、いないの?」
「……え」
予想もしていなかった、という顔。この時の顔は、なぜか鮮明に覚えている。
なんとなく、クラスの子の話を聞いていて、気になったのだ。
私には父がいない。
なぜだろう、と疑問に思って、軽い気持ちで聞いた。
「あー……、そう、そうだよね。お父さん。いるはずだよ。絶対。だって、父親がいないと、アナタは生まれないんだもんね」
「そうなの?」
「そう。うーん、実の子に性教育について教えるのは、なんだか恥ずかしいんだけど……」
「おしべとめしべなら、習った」
「まあ、そんな感じ。なんだか隠語に聞こえて嫌だなあ」
「この町の人はみんな、えっちなことをして生まれてるのに、えっちなことは恥ずかしい事なの?」
「うーん、真理。ま、それはね、アダムとイブに聞かないと分からないなあ」
「……?」
このときの母は、いつも通りだった。
けれどこの日を境に、母はどこか遠くを眺めながらじっとしていることが増えた。
女性だけでは、子供は生まれない。
けれど、私には父がいた記憶がない。
それどころか、母にすら、その記憶はなかった。
「好きな人は、いたんだよ。覚えている。記憶になくても、体が覚えてるんだ。一緒にピクニックに行ったんだ。夜は、そのまま彼のベッドの上で眠った。意外とテクニシャンなんだよ」
ぶつぶつと、うわ言のように私に話しかける母を、怖いと感じたのはこの時が初めてだ。
それから、二週間ほどたった日の朝だった。
母が、眠る私の前に無言で立っていた。
重い瞼を擦りながら、目を開ける。
母の目は、虚ろだった。目に光がない。
母の後ろには、死が立っていた。
日を追うごとに母はおかしくなった、という表現は適切ではない。母は、たった一日、たった数時間でどんどんおかしくなった。
何かをぶつぶつと呟きながら、家の中を歩き回った。
かと思えば、突然雨も降っていないのに、傘をさして町へと出かけて行った。
母の後ろを歩く死を見ても、誰も何も言わないのに、母の奇行には、通り過ぎる人みなが眉をひそめた。
死が母の心を壊した、という事実を、認識できないでいたのだ。
私にはわかる。
母はただ、死にたくなかった。
当然、人間である以上いつかは死ぬ。けれど、母にとって、それは今じゃなかったし、こんな死に方なんて、到底受け入れられるものではなかった。
「どうして? どうして私は、死なないといけないの? ねえ、千尋……どうして?」
母はそう私に言ったけれど、当然私に何かが答えられるわけじゃない。
「大丈夫、大丈夫だよ、お母さん」
何の根拠もなく、そう呟くしか私にはできなかった。
やがて、母はすっかりと寝たきりになってしまった。
万年床に伏せて、ただ自分を見下ろす影を視界に入れない様に、目を瞑っていた。
「千尋は私の事、惨めだと思っているでしょう」
「そんなことないよ」それは本心だった。
「私は、思っている。こんな惨めな死に方ったら、ない」
ああ、死にたくないなあ。やがて母は、それだけを繰り返すようになった。
死に憑りつかれた人が、やがて死ぬと言っても、その期間は人によって違う。今までの記録から、最長期間と最短期間が分かっているだけで、そのいずれかにも該当しないレアケースがあるかもしれないし、そうでなくても、その期間内にいつ、自分が死ぬのかもわからない。
「お母さん、何か食べたいものはある?」「お母さん、してほしいことはある?」「お母さん、行きたいところはある?」「お母さん、欲しい物はある?」「お母さん、やりたいことはある?」「お母さん」「お母さん」「お母さん」「お母さん」
何度も、何度も母を呼んで、次第に返事が小さくなっていくことに気が付かない振りをしながら、母の要望を叶え続けた。
「私に出来ることなら、なんでもするから。お母さん」
「ああ──千尋、そうだ。……してほしいことが、あるんだ」
「なに?」
「でも、千尋は優しいから。きっと無理だなあ」
「お母さんがしてほしいなら、私何でもやるよ」
「でもね。実の娘にこんなことをやらせるのは、私が嫌なんだ」
「なら、なら──」
何を母は言うつもりなんだろうか。分からない。けど……。
「私が、お母さんの神様になってあげる」
私が神様になれば。神様はお願い事を聞いてくれるのだから。
きっと、母にとっての神様は母の願いをかなえてくれる。
母が私をじっと、見て、少しだけ悲しそうな、それでいてどこか嬉しそうな目を向けた。
「ああ、それじゃあ……、神様。どうか──どうか私の願いを叶えてくれる?」
「ええ、もちろん」
「それじゃあ神様。私を、救ってくれないかしら。私が死に殺される前に。惨めな死を迎える前に。理不尽な町のルールに屈してしまう前に。どうか、どうか──」
どうかわたしを、殺してください。
母はそう告げて、両手を胸の前で組んだ。
「……ええ、私は、神様だから。あなたの、あなただけの神様よ」
台所にある包丁を、手に取った。
「ありがとう、神様」
「どういたしまして」
手は震えていない。
今、この瞬間。私は神崎紘夏の娘から、神崎千尋という神様になったのだ。
「千尋」柔らかく、気持ち悪い感触が、手に伝わってくる。母は、言った。「愛してるわ」
「私も。お母さん」
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