私アムゴッド11 『何かを忘れながら生きている』
十分ほど、ぼんやりと町を眺めていると、彼が向こうから戻ってくるのが見えた。
「ちゃんと待ってたんだ」
こつん、と私の隣に静かに降り立つと、彼は言った。
「もちろん。だって、私一人ではここから降りられないんだもの」
彼は肩をすくめると、隣に座る。
「ねえ、あなたがあの黒い何かと戦っている間、考えていたのだけれど」
「うん?」
「あなたはその大きな剣で、アレを倒すことができるのよね」
「まあ、そうだね」
「それなら、あなたは死も、倒すことができるんじゃないの?」
「……」
私がそう聞いた途端、彼は難しい顔をした。
返事を待って、私も口を閉じるが、彼は一言も発さない。
「……何か、聞いてはいけないことを聞いてしまった?」
「そうだね。今、どう答えようか考えていたんだ」
「答えに悩むってことは、出来るのね?」
「どうしてそう思う?」
「だって、出来ないのなら、今更躊躇する必要なんてないもの。死を消すことが出来ないのは、常識だから。そこにあなたが答えを言わない理由はないと思って」
「君は意外と鋭いね」
「でも答えないっていうことは、相応のリスクがあるんでしょう?」
「その通りだ」
「例えば、死を斬ってしまったら、あなたが死ぬとか」
「残念ながら、それの答えはノーだな」
「じゃあ他に何かがあるの?」
「……それを言えないから悩んでいるんだ」
再び、彼が口を閉ざす。
彼の隠している秘密に関することなのだろう。私はそれに対して「言いたくないなら言わなくてもいい」と言った。けれど今、その秘密が、町を死から救う手がかりになるかもしれない。
頭の中の天秤が揺れる。
彼の思いと、私の目的。
どちらの秤も上下に揺れている。
「やっぱり、話すべきだな」
「でも、私はそれを聞こうとしなかったわ」
「でも俺は話そうとした」
「……この話は、平行線ね」
「そうだな」
まだ夜が明ける気配はない。夜は長いのだ。今すぐに結論を出す必要はない。
「あなたも死は怖い?」
「どうだろう、あまり考えたことはないな」
「でも、黒い何かと戦って、死ぬ可能性だってあるでしょう?」
「そうだな。例えば、足を踏み外して、屋根から転げ落ちた時なんかは、死を覚悟したよ」
「大変。思っていたよりも現実的で、重症じゃない」
まぬけな恰好で、家の垣根に落ちている彼を想像すると、なんだかおかしくなった。
「魔法少年である間は、ある程度頑丈になるんだ。それでも、物凄く痛かったけれどね」
「頑丈になれるなら、痛みだって感じないようにしてくれたらいいのに」
「魔法少年の運営は、俺にはちゃんと痛みを感じてほしいんだろうね」
「なぜ? 痛くない方が、戦いやすいと思うのだけれど」
「痛みを感じていないと、生きている実感が沸かないからだよ」
「そういうもの?」
「そういものだ。人間は、痛みを感じるから生きている実感があるし、人に優しくできる」
「でも、優しくない人もいるわ」
「そういう人は感じないんだよ、痛みを」
「無痛症ってこと?」
私が聞くと、彼はなぜだか声を上げて笑った。
「神崎さんは、難しい言葉を知っている割に、そういうところは子供なんだな」
「……確かに私はまだ中学生だけれど」
「人を傷つける人は、痛みを感じないんだよ。心の痛みだ。君は、誰かの後ろを死が歩いているところを見て、なんとかしなくては、と思ったんだろう? その時きっと、心が痛かったはずだ。だから、君は人に対して優しく在れるんだ」
私が死から町を救わないといけないと感じたのは、確かにあの女子高校生の後ろに佇む死を見てからだ。
けれど。
「私の心は、痛くないの」
「へえ?」
「痛くないのよ。確かに、助けたいと思う。けれど、死と一緒に歩いている人はみんな、死を受け入れている。死から救ってほしい人は、この町にはいないの。私は神様だから、救いの手を差し伸べる。けれど、救いの手を必要としていない人がこの町には多すぎるんだわ。どうして? 死ぬのは嫌じゃないの? たった一言「助けて」って、そう言ってくれるだけで、私はなんだってするのに。なのにどうしてみんな、死を受け入れたりするの? だって、死ぬのよ? 何もしていないのに、悪くないのに、死ぬのよ? どうして? どうしてなの? だって、だって私のお母さんは、あんなに、苦しそうに、辛そうに、悲しそうに……、惨めに、死んでいったのに」
「そっか」
私が吐き出した言葉を、彼はじっと聞いていた。最近、自分の心をコントロール出来ていないことが多い。神様なのだから、もっとちゃんとしなければいけないのに。
「救いの手を欲しがっているのは、神崎さんの方なんだな」
彼が言った。驚いてその顔を見る。
「え……?」
「神崎さんが神様であるためには、神崎さんを必要としてくれる人が要る。でもこの町の人は、神様を必要としていない。だから、神崎さんは自分が思うような神様になれないんだ」
なぜだか、目頭が熱くなる。理由は分からない。悲しさなのか、分かってくれた嬉しさなのか。
「わた……、私、は……」
「この町は、みんな忘れているだけなんだ。死の恐怖を。平和な町だよ、見方によってはね。死は誰にも等しく訪れる。悪人にも善人にも」
「それは、理不尽ではないの?」
「そうかもしれない。けれど、究極の平等ともいえる。どうせ死ぬのだからと悪行を働く人間もいない。それが日常だからね」
「そんな平等、おかしいわ」
鼻をすすりながら言うと、彼がハンカチを渡してくれた。私の汚い涙や鼻水で汚すのは申し訳なかったけれど、ありがたく借りることにする。
「でも、そう思っているのは君だけなんだ。この町では」
「……誰もそれをおかしいと思っていなければ、それは正常なことだっていうの?」
「この町の死のシステムはね、老若男女に等しいんだ。小さなうちから死が日常になることで、この町から犯罪はどんどんと減っている。君の言葉を借りるなら、みんな諦めているんだ」
確かに、悪い噂は、最近ではとんと聞かなくなった。
「どうして、死が身近にあると、みんな犯罪を犯さなくなるの?」
「詳しい事は俺には分からない。けれどそうだな……。悪いことをしてもしなくても同じ確率で死ぬんだから、悪いことをしても無駄だっていう、そういう心理じゃないか?」
「普通は、死なない可能性があるならどんな犯罪でもするんじゃない?」
「その普通は、普通じゃないからこの町は成り立っているんだよ」
やっぱり良くわからない。
もちろん棺ヶ丘の犯罪率はゼロではない。もしかしたらそのわずかな人間の方が、私はフィーリングが合うのかもしれない。
「君はまるで、異世界から来た人間みたいだな」
「私、生まれも育ちも棺ヶ丘よ」
「けれど神崎さんの考え方は、この町の人間のソレとはまるで違う。全く違う世界の、ルールや理からして別物の、そんな異世界から違う価値観を持ち込んできた人間みたいだ」
「もしそうだとしたら、私がこの世界で得られたのは、フィクションの主人公っていうのは、とても素晴らしい精神力をしているってことだけだわ」
「そんなことはないだろ」
「現に、私は私にある程度の理解を示してくれているあなたにさえ、自分の価値観を納得させることが出来てないわ。けれど、そういう物語の主人公っていうのは、自分の価値観を絶対の是として、周りを変えていくのでしょう?」
「まあ、そうしないと物語は面白くならないからね」
「私はあなたの言葉を聞いて、そういうものか、って今少しだけ納得しそうになったもの。少しだけよ」
ただ私は、目の前で壊れていく母親と同じ末路を、誰にも送ってほしくなかっただけなのに。けれど、その母親こそが、町の人間と違っていただけなのかもしれない。おかしかったのは、母親の方だった。それが、私の内側で納得するかは置いておいて、町ではそれが、真実なのだ。
また涙が、頬を伝う。借りたハンカチを左目にあてた。
「くじけそうだわ」
「きっと大丈夫だ」
「根拠はあるの?」
「ないよ」
あっさりと彼は言った。
「なら、やっぱりくじけそう」
「けれど君は現状をどうにかしようと、動いているんだ。ならきっと、何時か報われる」
「本当に?」
「少なくとも、俺はそう願っている」
「あなたは、どっちなの?」
「どっちって、どっちとどっち?」
「あなたは、この町の現状を、どう思っているの? 理不尽に死が訪れるこの町を」
「……良くは、思っていないな」
「じゃあ!」
「俺も、仲の良かった人に死が憑りついたんだ。なんとかしたいと思った。正直なところ、神崎さんの言う事には、賛同できることが多い。けれどね」言葉を切って、彼は悲しそうに言った。「俺は、魔法少年なんだ」
それの一言が、彼を強く縛っている。
私は言葉を失い、俯いた。
強い風が吹いて、私の体を揺らす。どれくらいの時間が経ったのか、分からない。
「そろそろ帰った方が良い」
「……もう少し、いちゃダメ?」
「ダメだ。……明日は、棺ヶ丘の誕生日なんだからね」
「こんな町の事をお祝いなんてしたくないわ」
「それが町であっても人であっても、生まれた日っていうのは、等しく祝わないといけない」
「それが、嫌いな相手でも?」
「好きな人にも嫌いな人にも、等しく誕生日はやってくる。そのすべてをきちんとお祝いすることが、真の平等だし、神様ならそれは当然のことだと思うよ」
「……それを引き合いに出されるのはずるいきがするけれど、あなたの言う通りだわ」
私が立ち上がると、彼は来た時と同じように私の事を抱きかかえると、家の前まで送り届けてくれた。
「それじゃあ、おやすみ」
振り返った彼の背中に声をかける。
「ねえ!」
「ん」
「明日のお昼、あなたは何をしているの?」
「そうだな、一人で、家でごろごろしていると思うよ」
「ああ、それは良いことだわ。おめでたい日だからって、騒いでいる必要なんてないから」
「それが、どうかした?」
「ああ、ええと……、だから、明日、あなたと会いたいなって、思っているの」
「俺と?」
「あなたと」
きょとんとした顔をすると、彼はなんだか嬉しそうに笑った。
「ああ、いいよ。それじゃあ、二人でこの憎たらしい町の誕生日を祝うとするか」
「ええ、きっと楽しくなるわ」
「それで、待ち合わせ場所はどこにしようか。ここ?」
「そうね。でも、私、あなたに紹介したい人が二人いるの。だから、この先を行ったところにある公園で待ち合わせにしない?」
「ああ、いいよ」
誰かとこんなふうに約束をするなんて、初めての事なので、なんだかとても興奮してしまう。勝手に紹介すると言ったけれど、仮面子と幹山さんは怒らないだろうか。きっと二人とも優しいから大丈夫だろう。仮面子は優しいのかどうなのかすらわからないし、幹山さんがお昼にあの公園にいるのかもわからないけれど。
家に戻り、シャワーを浴びて歯を磨くと布団にもぐる。
頭にこびりついていた興奮がシャワーで洗い流され、一瞬で、私は眠りに落ちた。
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