私アムゴッド10 『神様と黒の邂逅』

 目を覚ますと、辺りは真っ暗になっていた。

 部屋の電気はついていないし、窓の外もすっかりと夜になっている。

 明かりをつけ、顔を洗う。

 いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ、とようやく理解してから、まだ少し靄のかかった頭を振り冷蔵庫からペットボトルを取り出した。

 まだ日付が変わるには四時間ほどあるけれど、夜と呼ぶには十分な時間なので、本来なら、こんな時間に目が覚めたとしても家の中で再び眠くなるまで本を読んだり、ストレッチをしたりして過ごしていなければならない。

 髪を束ねるためのゴムを二つ腕に通すと、家の鍵をしっかりと握って、外へと出た。

 たった一日で、随分と夜への抵抗がなくなった。

 虫の声や風が揺らす木々の音を聞きながら、前よりも落ち着いた気持ちでのんびりと道路へ出た。

 彼は、今はどこにいるのだろうか。

 棺ヶ丘を守っているのだから、昨日のようにたまたま私を見つけるなんてことは、あまり期待できないだろう。

 彼が何と戦っているのかは知らないけれど、きっとそれは町の色々なところに出現するはずだ。そうでないと、彼が屋根から屋根へ、まるで空を駆けるように飛んでいた理由にならない。

 どうせなら何か差し入れでも持ってくるべきだっただろうか。

 部活動のマネージャーのように、スポーツドリンクと、はちみつレモンを差し出したりした方が良かっただろうか。

 まるで、安っぽい青春小説だ。

 きっと彼はそれくらいは自分で用意しているだろう。もちろん、はちみつレモンなんてものを持ち歩いているなんてことはないだろうけれど、昼には高校生をやって、夜には魔法少年として戦っている生活をずっと続けているのなら、その生活の中に彼なりのルーチンが存在しているはずだ。

 ならば、それを崩す必要はない。

 夜の町を歩いていると、昼には見つけられなかった発見がある。

 例えば、星の明るさ。

 太陽の代わりに、夜の町を照らす月というのは、思いのほか綺麗に輝いている。

 私──というか、この町の人間はほとんど全員が、夜は暗くて恐ろしい物だと思っているだろう。

 けれど、夜はこんなにも美しい。

 今この世界には私だけしかいなくて、これが、本来あるべき世界の姿なのかもしれない。

 月と星の明かりだけが町を照らしていて、余計な雑音は何もない。

 心臓の鼓動と、息づかいだけが耳に届く。

 思わずスキップなんかをしたくなるくらいに、今の私の気持ちは安らいでいる。

 ふと、耳をつんざく異音がした。

 また、彼だろうか。空を見上げる。

「なに……、あれ」

 確かにそこには、彼がいた。魔法少年として町を守る彼が。けれども彼は、私には見向きもしない。

 そして私も、彼の先にあるものに目を奪われていた。

 

 彼がそう呼んでいたものがアレだと、肌で感じた。確かに、アレはそう呼ぶ以外に、形容しがたい。

 いつの間に現れたのか、彼の右手には大剣が握られている。

 が、その形状を槍のように変形させる。屋根を蹴って軌道を変えながらそれを躱すと、距離を詰めて剣を振るう。

 音もなくは霧散して、彼が息をついた。

 ──瞬間、彼の後ろに突然、新しいが現れた。

 彼は気づいていない。なにせ、音がないのだ。先ほど彼が戦っていたのよりも、一回り小さい。無数の闇のような槍が、彼に照準を合わせる。

「──後ろ!」

「っ!」

 反射的に叫んだ私の声に、驚く動作すらなく、彼はそのまま剣を横に薙ぎ払った。槍の先端が、塵のように消える。は怯んだのか、ゆっくりとわずかに後退した。けれど、それを逃すはずもなく、彼が突き立てた剣が貫いた。剣を上に振り上げると、わずかに彼へと触手のようなものが伸びるが、それは届かない。

 冷たい顔のまま、彼は消えていくを、そしてそれがあった空間を眺めていた。

「やあ、神崎さん」

 やがて、彼は私の方を見て言った。

「こんばんは」

「こんばんは」

「夜は危ないって言ったのに、また来たんだ」

 なんでもない事のように、彼はひょいと屋根から地面へと華麗に着地した。

「ええ、でも、あなたに会いたかったから」

「今のを見ても、まだ同じことが言える?」

「言えるわ。だって、私は遠くからしかあれをみていなかったのだもの」

「じゃあ次は近くであれを見るといい。きっと、恐怖で足がすくんでしまう」

「そうなったら、あなたがきっと助けてくれるわ」

「自分から夜に出歩いておいて、そんな他力本願なのか?」

「だって、私を守らないとあなたは魔法少年ではなくなってしまうでしょう? 町を守ることがあなたの使命なら、その町に住む住人である私を守ることもまた、使命なんじゃない」

「なるほど、確かにそうだ……」そう言うと彼は少し考えて、気づいたように言った。「いや、でも君は確か神様なんだろ?」

「ええ」

「神様なら、自分の身くらい自分で守らないと。俺は神様に守られる市民でもあるんだから」

「でも今は魔法少年なんでしょう?」

「……この話は、平行線だな」

「そうね」

 彼が手を差し出してきたので、それを握る。あっという間に、私は彼に抱きかかえられていた。

「舌を噛むから、黙っているように」

 まるで少女漫画のようなセリフに、私はまったく心がときめかないことに驚いていた。

 とことん、私は神様で、こういった同世代の女の子に話すと黄色い声を上げられそうな突拍子もない事に興味がないのだと実感させられる。

 けれど、私を抱えたまま彼が地面を蹴り上げて宙へと舞うのを見ているのは、少し楽しい。

 下を見ると、先ほどまで立っていた場所が、遥か彼方に見える。

「すごく高い」

「高所恐怖症?」

「恐怖を感じるほど高所に行ったことがないから分からないけれど、この高さが平気なら、違うと思う」

「それはよかった」

 私が喋るときは、移動をせずに重力に身を任せてくれている。気遣いの出来る人だ。

 彼が屋根を蹴る時、私はほとんど衝撃を感じなかった。それが彼のテクニックなのか、それとも魔法少年が持つ特別な力的なあれなのかはわからないけれど。

 五分ほどそうしていて、ようやく彼が、私を下ろしてくれた。

「落ちないように、気を付けて」

 私たちが降り立ったのは、町が見下ろせる鉄塔。確かにここなら、どこにあのが出ても、すぐにわかる。

「いつもここで町を眺めているの?」

「ああ。アレが出ない時は、やることがないから」

「いつもああやって一人で戦っているんだ」

「言っただろ?」

 ずっとそこに置かれていたのか、保冷バックを手に取ると中からサンドイッチの入ったタッパーを取り出した。

「食べる?」

「いいえ」

 何も食べて居なくて本当はお腹がすいていたけれど、町のために戦っている彼の大事な食事を邪魔するわけにはいかない。

「本当に町のために戦っているのね」

「一応ね」

「……私とは、大違いだわ」

「君は神様なんだろう?」

「でも、何も出来ない」

「俺だって、すべてを守れているわけじゃない」

「でも、あのから、町を、人を守っているじゃない」

「それでも救えたはずの取りこぼした命は多いよ。を消すことが出来ても、死からは守れない」

「私はその、を消すことすら出来ない。無力だわ」

 もっと、力が欲しい。神様としての力が。

「この前も、仲良くしてくれていたクラスメイトが死んだんだ。ちっとも怖がる様子もなくて、内心はきっと怯えていたはずなのに、それを俺に悟らせないようにふるまっていた」

 彼の声は、いつも通り、淡々としている。表情に変化はない。その事実を、何度も己の中に刻み込んで、無理矢理消化したのだろう。

「いつか、君のところにも死がやってくるかもしれない。けれど俺には、神崎さん、君を死から救うことは出来ない」

「いいわ。それに抗うために、私は神様をやっているのよ」

「頼もしいな」

 頼りなく笑うと、彼は二つ目のサンドイッチに手を付けた。

「君に話せない秘密があるといったね」

「ええ」

「話すよ」

「言いたくないなら、聞かない」

「ああ、言いたくない。けれど、誰かに言わないといけないことだと思うんだ」

「それでも、言いたくないなら言わないわ。……自分でも、分かるの。私があなたの話を聞いても、きっと何も出来ない。神様として、あなたをその悩みから救ってあげることが出来ない。私は無力な神様だわ」

「話すと言っておいて、こういう言い草はなんだか卑怯な感じもするけれど、俺は別に神崎さんにどうにかしてほしいわけじゃないんだ。ただ、聞いてほしいんだよ。俺が守っている町の人間──それが神様であっても、この町に住む人に、聞いてほしい」

 糾弾されたいんだ、と彼は言った。その顔を見ているのがなんだか嫌で、私は話題を無理矢理変えた。

「それより、私の話を聞いてほしいわ」

「君の話?」

「私、昨日はずっと掃除をしていたの」

「へえ?」

「昨日は”誰も何もしない日”でしょう? あなたはどうしていたの?」

「そうだな、俺は他の人と同じように、家で過ごしていたよ」

「私は”誰も何もしない日”だっていうことを忘れていて学校に行ったし、帰ってからは気合を入れて家の掃除をしたの。結構ピカピカになったのよ」

「それは、不思議だ」

「でしょう?」

「どうして君は”誰も何もしない日”に何かをずっとしていられたんだろう」

「わからないの」

「もしかしたら、そこに何かヒントがあるかもしれないね」

「本当に?」

「適当に言ってみただけだ」

 考えてみると、私はもう二度もこの町のルールを破っている。”誰も何もしない日”に何かをしてはいけない、なんてそんなワンダーランドみたいなルールはそもそも存在していないけれど、こうして夜を出歩いているわけだし。この町には、厳しさの程度こそあれ、おかしなルールが多すぎる。

 なぜ、夜に外に出てはいけなかったのだろうか。

 魔法少年という存在を知った今なら、人知れず町を守る彼が公になるのを防ぎたいという思いがあったのかもしれない。

 が夜な夜な町に現れるなんていう、恐怖しか与えない事実を隠しておきたかったのかもしれない。

 突然、彼が立ち上がった。

「──来た」

 呟いて、遠くを見る。

 私の目には何も見えない。ただ、どこまでも続く黒があるだけだ。

「私はどうしたらいい?」

「ここにいて」

 返事を待たずに、彼はその場から身をひるがえした。あっという間に、その姿が小さくなってしまう。私に出来ることはない。理不尽な死に何も出来ないのと同じで、私はあのに対して、対抗手段を何一つだって持っていない。

 ……本当に、そうだろうか。

 もちろんに対しては、きっと彼だけが打ち勝つことが出来るのだろう。

 けれど、死は?

 この町の誰もがやってきたそれを拒まないでいる。抗わないでいる。

 なら、誰も試していないだけで、迫ってくる死をどうにかする方法が、本当はあるのではないか?

 一筋の光明が差した。

 唐乃介は、やはり本当の事を言ったのだ。あのと魔法少年に会うまでは、そこに気が付かなかった。

 もしかしたら、彼となら。神様と魔法少年の二人の力を合わせれば、死を討ち払えるのではないだろうか。

 誰かの帰りを待つということにこんなにもワクワクしたのは、本当に久しぶりだ。

 もう、砂粒ほども見えなくなった彼を待ちながら、私は鉄塔の上で夜風を感じていた。

 

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