私アムゴッド06 『不倶戴天の影』

 その次の日も幹山さんは公園には来なかった。少女と二人でベンチに座って二十分ほど経過しても、彼は一向に現れないので、仕方がなく帰路につくことにする。今日は時間の流れは遅い日なので、もう少し外にいられるけれど、あまりパトロールに適した精神状態じゃない。

 久しぶりにあの影を見て、嫌なことを色々と思い出した。

 母親のこと、その最後。

 どうすることもできない事を目の前にして何も出来ない事への無力感。やるせなさ。

 変えようとするには、世界の理ごと変えるしかなくて、でもそれは到底可能なことではなくて。

 だからこそ、私は神様になるしかなかったのだ。今はまだ無力な神様だとしても。いつか、世界の理を、陰に取りつかれて死にゆくしかない運命を、変えるために。

 死ぬ運命にある人を救いたい。人が死ぬのは悲しい。人はいつしか死ぬもので、それはしょうがないことなのだと、それこそが正しい理なのだと、それは分かっている。

 けれど。

 何もしていないのに。ただ普通に生きて、仕事をして、家事をして、学校に行って、そうやって普通の、だれしもが経験する生活をしているだけの人間が。ある日突然、何の脈絡もなく死を宣告される。

 その事実が、どうしようもなく不愉快なのだ。

 なぜ、あの影は人に取りつくのか。どうして死を与えるのか。そのホワイダニットはいまだ解明されていないどころか、誰も考えないようにすらしている。

 ──それも、違うのかもしれない。考えないようにしているのではなく、本当に、考えていないのかもしれない。死が可視化された世界でそれが普通のことだと言うように、悲しんだり怯えたりしてもそれを疑問には思わない。

 嫌だと泣き叫んでも、縋るように祈っても、その事実自体を疑問に思う人間はこの街にはいない。

 誰に聞いても、不思議そうな顔をするのだ。

「神崎さんは不思議なことを聞くんだねえ」

 そう言ってだれしもが私のいう事を笑い飛ばす。

 私からしてみれば、そっちの方がよっぽど不思議なことだ。

 なぜ、誰もこの理不尽に気が付かないのか。どこかで誰かが秘密の研究を行っていて、毎夜ひそかに死ぬ人間に向けて影を差し向けている……、といった子供でも信じなさそうな世迷言の方が、よっぽど信用できる。

 影に意思はなく、ただぴったりと死ぬ人間の後をついていくのみ。棺ヶ丘にいつから影が出るようになったのか、それも分かっていない。本当に、誰も興味がないのだ。

 なぜ鳥は空を飛ぶのか。なぜリンゴは木から落ちるのか。なぜ転ぶと痛いのか。そうした昔から当たり前で、それが故に原因など誰も考えてこなかった事のように、棺ヶ丘では死が日常の物となっている。

 そんなのは、おかしい。

 だからこそ、私は神様になった。神様になって、この狂った運命から、棺ヶ丘市を守るために。

 今は、認めよう。私にはそこまでの力がないことを。

 けれどいつかはきっと達成して見せるし、そのための努力だって惜しまない。きっと神様として、死から人々を救って見せる。そう、息巻いていたと言うのに。

 目の前に、もうすぐ死ぬ人が現れて。あの高校生は、死ぬことを恐れてはいても、それを受け入れていた。死が訪れるその時までに、悲しみ、落胆し、それらをやりきったら、きっと「ああ、良い人生だった」と儚く笑いながら死んでいくのだ。

 影を背に連れて歩く人間を見るのは、母親以来は初めての事だった。母親は、そうしたあきらめの境地にはたどり着くことが出来ず、絶望の中に死んでいった。影は、そんな母親に同情するでも嘲笑するでもなくただ静かに命を刈り取っていった。

 だからこそ、人は死を目の前にすると半狂乱になり「死にたくない」と泣きわめくものなのだと、そう思い込んでいたのに。

 あんな─―あんな、諦めた顔をされては、救えるものも救えなくなってしまう。

 死を安易に受け入れるなんて間違っているのに。

「神様は……遠いなあ」

 思わずそう口にしてしまうほど、私は弱っていた。

 家の近くまで来ると、はす向かいから唐乃介が歩いてくるのが見えた。

「よう、久しぶりだな」

「そう? 最近よく見る気がするけど……」

「時間っていうのは、誰もが同じだけ持っているとは限らないんだぜ。もしかしたら俺の二十四時間と嬢ちゃんの二十四時間は違うのかもしれない」

「なんかホラっていうより、適当なこと言ってるって感じだね」

「俺はホラなんて一度も言ったことはねえよ」

「どうだか」

 唐乃介を相手にしてストレスを感じないようにするコツは、適当な相槌を打つことだ。真面目に会話をしていては、余計に嫌な思いをする。

「ねえ、唐乃介」けれど、今の私はだいぶ参っていた。「唐乃介は、自分が死ぬ時のこととか、考えたことある?」

 だから、そんなことをつい聞いてしまった。

「知らないのかい? 犬には時間の概念がないんだよ。俺たちという種族には、今しかない。過去も未来もないのさ。そういう種族なんだよ。これは考え方の問題とか、そういうのじゃない。ゲームの設定みたいなものさ。こう、と定められている。その中で俺たちは生きているんだよ」

 なんだか随分と難しい話をする。

 どうせいつものホラだろうけれど。

「でも、その設定が理不尽だって怒ったりしないの?」

「なぜそんなことを思う必要がある?」

「だって、おかしいでしょう? 死ぬのはしょうがないことだとしても、何もしていないのに突然「あなたは数日後には死ぬでしょう」って言われるんだよ?」

「それも、設定の一つなんだったら、しょうがないわな」

 理不尽だと思おうがなんだろうが、その中で生きていくしかないのさ、と唐乃介はいつも通りの寝ぼけた顔で言った。もしも犬じゃなくて人間なら、きっと煙草でも吸いながら明後日の方向を向いて言っていたことだろう。

「……嬢ちゃんが、どうしてもその理不尽と戦いたいっていうならな」

 ふと、唐乃介がつぶやいた。

「え?」

「夜遊びを、してみるといい。そうしたら、何かヒントが掴めるかもしれないな」

「……でも、夜は出歩いたらいけないのよ」

「誰が、そんなことを言ったんだ?」

「……それは、お母さんが……、学校の先生や、みんな言ってるし」

「おいおい、嬢ちゃんの思いって言うのはそんなもんだったのかい? ダメだと言われたからやらない、その程度で本当に嬢ちゃんは神様としてこの街を救おうとしていたって、そういうのかい?」

「そうじゃない。でも、神様が町のルールを破るわけにはいかないでしょう」

「なぜ神様がルールを守らなきゃいけないんだ」

「だって、それは──」

「夜に外に出てはいけない。これはな、確かにルールだ。この町で、棺ヶ丘で生きていくのには必ず必要なルールだ。けれどな、それはこの町で暮らすのルールなんだぜ」

「……っ!」

 神様ならば。そのルールに抵触しても、それは許される……?

「まあ、もちろん嬢ちゃんが本物の神様なら、っていう前提があるけれどな」

 もしも嬢ちゃんの身に何があっても、責任は取らないからそのつもりでな。

 唐乃介はそう言うと、どこかへと去っていった。

 唐乃介の言う事は基本的にホラ話で、信用に値するものなんてないと思っていたけれど。

 今の会話は、ホラでもなんでもない、唐乃介の所感だったように思う。少女の事を知らせてきた時と言い、唐乃介がホラばかり吹聴する犬だという事実は、どうも最近崩れつつある。

 ……それはともかく。

 先ほどの、唐乃介の言葉。

 確かに、その通りなのかもしれない。私は神様で、それが本当であるのなら、この町のルールに抵触しても、何の罰も与えられない。

 本当に、神様なら。

 もちろん私は私が神様であるということを信じて疑わないし、そもそもそれは事実なのだから疑うとか本当にとかそういう次元の話じゃない。

 けれど、だからと言って、それがすぐ行動に移せるかと言うと、それもまた違う話だ。

 生まれてこの方、ひたすらにいけないことだと言い聞かせられ続けてきた。それを、今更はいそうですかと変えられるものではない。

 私にとって──おそらく町のだれにとっても、夜に外を出歩かないという事は、生活の一部になっているのだ。それを破るなんて、人を殺すことよりもずっと愚かで、恐ろしい事なのだ。

 唐乃介は、夜に外に出たことがあるのだろうか。ルールは人間ではない神様には適応されないのと同じように、犬も外を出歩いたところで何も言われないのだろうか。だから、あんなことを言ったのだろうか。

 私の知らない何かが、この町の夜に起こっているのだろうか。

 それが、私が神様となってこの町を死から救うために必要なことなのだろうか。

 そもそも唐乃介はホラ吹きで有名だ。彼の言うことはそのほとんどすべてが嘘であるというのは学校で教わってもいいほどの一般常識。

 そんな彼の言う事を、本当に信用できるのだろうか?

 分からない。分からない、けど。考えるだけで、想像するだけで、何が起こるのか恐ろしさで身がすくんでしまうけど。

 神様として、町を救うことができるのなら。

 自分にとって都合の良い神様でいるだけでは、いられない。

 夜へと一歩、踏み出すべきなのだ。

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