第6話

「……はい。ということで、『蛇と人形』でした。これはわかりやすいかも。それじゃあ、ヒント欲しい人は手を挙げてー」


 ますみんが色白の左手をぴんと上に伸ばした。そしてひらひらと指を波打たせる。マオちゃんにはまだできない動きだ。わたしの左手がスマートフォンをにぎりしめる。


「あ、みんなすごいね。当たってる人たくさんいるよ。嬉しいけどなんか複雑ぅ」


 ただし複雑な表情は作れないので、ますみんは頭をメトロノームのようにぶんぶん動かして感情を表現した。配信が愉快な雰囲気に包まれていく。


 そのとき、また『ゆでだこ』のコメントが流れた。


『エトランゼ羽村はむらに着いたよ』


 またしてもこの場にそぐわない文章だ。誰も歯牙にかけない、無駄で邪魔なコメント。


 そのはずだった。


「エトランゼって……」


 ますみんが消え入りそうな声で反応した。わたしの手にも思わず力が入る。


 エトランゼ羽村は、一ノ瀬さんが住んでいるワンルームマンションの名前だ。そしてさきほど書かれていた小岩駅は、エトランゼ羽村から徒歩五分の場所にある最寄り駅だ。


『ゆでだこ』は、一ノ瀬さんの住所を知っている。


 では、『ゆでだこ』は何者なのか。


 その名前から連想される人物はただ一人。一ノ瀬さんに怒りの炎を燃やすオクトパスしかいないだろう。


 でダコのように顔を真っ赤にしたオクトパスが、自分の家に近づいてきている……。


 一ノ瀬さんはそう解釈したに違いない。わたしはスマートフォンを注視した。


『若いくせにいいとこ住んでるよね』


 三度目となる『ゆでだこ』のコメントに、ますみんの口が真一文字に閉ざされた。


『いつも僕の視線、感じてくれてるんでしょ?』


「嘘、やっぱり……」


 かすれたつぶやきが聞こえた。わたしの脇に汗がにじむ。


『いま、階段をのぼってるよ』


 ひっ、とますみんが空気を吸った。事情を知らないマスナーたちも、彼女の様子がおかしいことに気づきはじめる。


 わたしが息をつくと、スマートフォンの映像がカクカクと止まりだした。ロード中を表すマークが出没を繰り返す。本格的に台風の影響が表れてきたようだ。


『ドアの前まで来たよ』


 ますみんが斜め右を向いて止まった。背後の玄関へ振り返ったのだろう。


 彼女は息をひそめているらしく、不穏な静寂が続いている。イヤホンの外から届く雨音が余計にうるさく聞こえた。


「もうやだ……」


 耐えられなくなったのか、ますみんが弱音を吐いた。


 それを耳にしつつ、わたしがまたスマートフォンでコメントを打とうとしたときだった。


 がたん、と物騒な音がイヤホンの中から響いた。それは鍵の閉まったドアを無理やりあけようとする際に鳴る、暴力的な音だった。


「な、なんで私が、こんな……いけないの……」


 わたしはイヤホンを耳にねじこんだ。音声が途切れ途切れになっている。コメントの流れも鈍くなった。


「誰か……助け……」


 彼女がおびえる間にも、ドアは幾度となく殴りつけられる。


 とびきり大きな衝撃がドアを鳴らして、ますみんが短い金切り声を発した。


「うぅ……もうっ……ふざけ……あのタコ野郎……ぶっとばす……」


 マイクをミュートにする余裕もないのか、ますみんが、いや一ノ瀬さんが、取り乱した様子で暴言を口にする。


 直後だった。


「え、なに……きゃっ……」


 配信の空気が一変した。


「やだ……なにが……」


 彼女は明らかにうろたえている。


 すると急に、ますみんが両手で自分の首をつかみはじめた。そして、いやいやをするように体を揺さぶる。


 まるで、自分の首に絡まったなにかを振りほどこうとするかのように。


「ぐえっ……おごっ……」


 喉の奥からしぼりだしたような、くぐもった声。


 跳ねるようにわたしは立ち上がった。心臓が激しく脈を打ちはじめる。


 不穏な気配を察したマスナーたちがざわつきだした。


 さきほどから誰かに襲われているのか、それとも自分たちを驚かすための演技なのかで、意見が真っ二つに割れている。


 マスナーの一人が、すがるようなコメントを書いた。


『これ演技だよね? 襲われてるわけじゃないよね? そうだといってくれ頼む』


 それに答えるようにしてますみんが、


「がぁぁ………………ごぉぉぉ………………げぇぇっ……」


 と吠えながら、満面の笑みを浮かべた。


 わたしは震える手を口に当てた。


 あの3Dモデルで満面の笑みを作るには、目を細めて、口をいっぱいにひらく必要がある。


 けれどこの状況で、一ノ瀬さんが笑顔でいるはずがなかった。


「ぎゃあぁ…………ああ………ぎぃぃ………」


 ぶつ切りの断末魔と並行して、次第にますみんの体から、首や腕の関節がずれてくる。


 やがて体の各パーツが、停滞気味の映像の中で、おかしな挙動を見せはじめた。


 首をしめていた両手は宙に浮いて、おいでおいでとこちらへ手招きをしている。


 胴体は空き缶のようにひしゃげながら、ぎこちないおじぎをひたすら繰り返す。


 頭部は百八十度後ろを向いて、ぎちぎちとびた機械のごとく微振動していた。


 これらはすべて、3Dモデルの対象者が、3Dモデルに無理を生じさせる動きをすると発生しやすいバグのようなものだ。


 わたしは一ノ瀬さんがなにをされているのか、想像しないことにした。想像するのも恐ろしかった。


 それから何秒たっただろうか。ますみんの3Dモデルが通常の状態に戻った。フローリングにコントローラーを落としたらしい、耳ざわりな音が二つした。


 同時に、スマートフォンの映像がなめらかになる。騒々しかった雨風もいまはおさまっていた。


 ますみんは腕をぶらんと垂らして、わずかに口をひらいたまま、正面を向いている。


 生気のない瞳がわたしを見つめてくる。まばたき一つせず、それこそ人形のように。


 そのまま、しん……と無音の配信が流れた。時間が凍りついたかと思うほどの、耳が痛くなる静けさだった。


 それを破ったのは、キーボードを叩く音だった。


「こんばんは。薬師寺ますみです」


 抑揚の失せた女性の機械音声が鼓膜に触れた。


「みなさん、落ちついてください。大丈夫です。私は無事です。通報はしないでください。ここには私しかいません。はい。良かったですね」


 聞いたとたん、わたしの肌が、ぶわっと粟立った。


 オクトパスは、自分が手にかけた一ノ瀬さんを前にしながら、なに食わぬ顔でこのセリフを打ちこんだのだろう。それができる神経に、わたしは途方もない戦慄を覚えた。


 チャット欄は、いまや冷静なマスナーの方が少なかった。ほとんどの人が怒りのコメントを書き殴っている。


 それらをまったく意に介さず、機械音声が無機質にしゃべった。


「では。配信を終わります。ありがとうございました。さようなら。さようなら。さようならさようならさようなら」


 ぷつ、と音が切れた。


 画面が真っ暗になり、『この放送は視聴できません』という文字があっさりと表示される。


 配信は、終了してしまった。


「…………」


 わたしはイヤホンをはずした。全身の血が沸騰している。


 目を閉じて、呼吸を整えようと努める。それでも体の内側から湧き上がる感情をとどめられない。


 もう我慢の限界だった。


「ざまあみろっ」


 夜中にもかかわらず、わたしは涙を流しながら笑い転げた。

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