「さん」から「くん」へ

 7月27日。友達との約束の日、その前日。

 今日は生憎の曇り空で、太陽は隠れてしまっていた。

 空気も冷たく、ときどき吹く風は妙に強い。

 半袖の白Tシャツと薄い生地のズボンで出たことを、思わず悔やんでしまうほどだった。


「うぅっ……寒っ」


 昨日までの晴れ間は、一体どこへ吹き飛んだのか。

 白鷺運動公園には全く人がおらず、僕は今、園内の噴水広場に寂しく突っ立っていた。

 腕時計を見る。針は正午を指そうとしている。

 そろそろ来るかな──と考えると、


「──夏貴さーんっ!」


 遠くから僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 声のしたほうを振り向く──すると僕は、思わずその姿に見惚れてしまった。


 私服姿の千冬さんが、明るく手を振って走ってくる。

 無地の白Tシャツの上に、淡い琥珀色のキャミワンピースという組み合わせは、とてもカジュアルな雰囲気を醸し出していた。

 スカートの丈は膝がギリギリ見える長さで、時折ちらっと太ももが覗ける。

 それに堪らなくドキッとして、さらに鼓動が高鳴ってしまう。


 軽く息を切らして、僕の目の前で微笑みかける千冬さん。

 主張の激しくない自然なメイクが、元々可愛いと思っていた顔を、さらに美しく仕上げている。

 肩に掛かった黒髪を搔き上げる仕草も、艶やかに浮き出ている鎖骨も──学生服姿のそれとは、全く比べられないほど魅力的だった。


「すいません、お待たせしてしまって」

「いや、大丈夫です。さっき来たばかりなので」

「本当ですか? なら、よかった」


 安心したようにため息を漏らすと、千冬さんは照れ臭そうに言った。


「実は今日の打ち合わせが楽しみで、昨日あまり眠れなくて。服を選ぶ時間も、いつもよりだいぶ掛かってしまって……」

「そうなんですか?」

「……はい。お恥ずかしながら」


 頰を赤くし、目を伏せる。

 こんな弱々しくなることもあるんだなぁと、珍しく思いながら、ついニヤけてしまう。

 今日会えることを、千冬さんも楽しみにしてくれたんだ──同じ事を考えていた僕にとって、それは何より嬉しかった。


「じ、じゃあ夏貴さんっ。この前と同じカフェで、作戦会議しましょうか」

「……はい」


 穏やかに頷くと、心なしか千冬さんの顔が、ますます紅潮していった。

 そんな千冬さんと肩を並べ、横目で見つめながら、いつものカフェへと向かった。


***


 閑古鳥の鳴く店内は、曇り空も相まって寂しいものだった。

 ゆったりとしたBGMも、今日はクラシックの夜想曲のように、どこか儚げに聞こえる。

 客足は少ないと踏んだのだろうか。

 顔見知りの店長以外に、アルバイトなどの店員は見当たらなかった。


 この前と同じ、隅の席に座る。

 向かい合った千冬さんに照明が当たり、顔のほぼ左側が陰影に染まる。

 メニューを眺める蒼色の瞳は、暗さに褪せることなく、むしろ輝いて見えた。

 悠々と佇むその様子は、さながら額縁に納められた現代絵画のようだった。


「……夏貴さん、決まりましたか?」

「えっ? あぁうん。決まった決まった」

「じゃあ押しますね」

「お願いします」


 中指の先で呼び出しボタンを押す。

 何気ない仕草が、妙に妖艶に見える。

 僕は冷えた身体を温めるべく、コーヒーとスライスパンを頼んだ。

 そして千冬さんは予想通り、デザートの欄から、


「えっと、このデリシャスグレープの、デザート大盛りでお願いします」

「かしこまりました」


 今度は、この店で2番目に高いメニューを頼んでいた。

 オーダーを承った店長も、目を丸くしてキッチンに戻っていく。

 まさか作る日が来るとは思ってなかったんだろうなぁと、その心中を察する。


「……あの、千冬さん」

「はい?」

「注文したあとで言うのも何ですけど……今頼んだグレープ、結構ボリュームありますよ」

「そうなんですか?」

「はい。俺も1回食べたんですけど、中々の食べ応えでしたから……」


 僕としては「あまり無理しないでね」という、注意喚起のつもりだったのだが。

 千冬さんはそれを聞くと、ぱあっと目を輝かせて言った。


「それはとても楽しみです!」

「……そ、そう」


 ──本当にデザートが好きなんだなぁ。

 子どものように期待する姿は可愛いが、僕としては複雑な気持ちになる。


 10分ほど経って、料理が運ばれてきた。

 普通のコーヒーとスライスパン──そして、両手でやっと持てるレベルの、巨大なグレープ。

 パイ生地で三重巻きにされた中には、クリームはもちろん、フルーツの盛り合わせが贅沢に使われている。

 千冬さんの手元から漂う、空腹を刺激する甘い匂い。

 思わず生唾を飲ませるには、十分すぎるほど美味しそうだった。


「おー。これがデリシャスさんですかぁ」


 まじまじと見つめ、僕と同じく生唾を飲む。

 しかし、堪え切れずにかじりつく、なんてことはせず。

 あくまで冷静に「いただきます」と言ったあと、豪快に一口目を食べた。

 口周りを白クリームで汚しながら、幸せそうな表情で噛みしめる。

 ときどき甘美な声を漏らし、あっという間に口の中を空にすると、


「──美味しいっ‼︎」


 今までで一番の笑顔とともに、ストレートな感想を叫んだ。

 僕をじっと見つめる熱視線。

 漫画だったら間違いなく、蒼色の瞳にハートマークが描かれていただろう。

 口元は緩みきり、至福に包まれているのが外から見ても分かる。

 千冬さんはこの前、僕のことを分かりやすい人間だと笑ったが。

 デザートを目の前にした千冬さんも、大概分かりやすくて、単純な気がした。


「夏貴さん、夏貴さん! これ、すっごく美味しいですよ!」

「はい、知ってますよ。俺も食べましたから」

「カフェのサイドメニューで、ここまで高級なデザートが食べられるなんて……感無量です!」

「喜んでもらえたなら、よかったです」


 よほど美味しかったのだろう。

 この前のパフェ以上のペースで、グレープを貪り食らっていた。

 最初に圧倒された巨大な見てくれも、数分のうちに半分以上がなくなり。

 まるで扇子のようなサイズにまで小さくなっていた。


 千冬さんの食いっぷりに、思わずコーヒーに伸びた手が止まってしまう。

 また一口も飲んでいないのに、冷えることも忘れて、彼女の口元に釘付けになる。

 そうして、はっと気を取り戻したときには、


「──ごちそーさまでした! あーっ、美味しかったぁーっ」


 千冬さんは既に食べ終え、手を合わせていた。


「ねっ、夏貴さん」

「は、はいっ」

「ここ、いいカフェですねぇ。これから打ち合わせするときは、このお店で食事しながらにしたいものです」

「そ……そうですか」


 食事というのは、果たしてスイーツに限るのだろうか。

 純粋に気になったが、追及はやめておいた。

 微かに熱さの残るコーヒーで、喉を潤しながら身体を温めると。

 僕のほうから本題を切り出す。


「それで、千冬さん。その打ち合わせの件についてなんですが」

「あっ……はい」

「メッセージにも書いた通り、明日が友人たちに彼女をお披露目しなければいけない日です。なので今日は、当日の振る舞いについて、色々話し合おうと思いまして──」


 そうして僕は、当日の簡単なスケジュールについて説明した。

 明日は朝10時から夜遅くまで、この前デートしたショッピングモールで遊ぶということ。

 集まるのは僕と千冬さんを除いて、男友達3人、女子のクラスメート3人ということ。

 そして、


「──何か盛り上がった場合は、モール近くのイケてる店で、2次会をやるかもしれない……だそうです」


 千冬さんは頷き、「なるほど」と相槌を打つ。

 僕としては下世話だと思う友人の提案を、しかし澄ました表情で、さらりと受け取った。

 すぐに僕の顔を見つめながら、微笑んで告げる。


「大体の割り振りは分かりました。偶然とはいえ、事前にショッピングモールを回っておいてよかったですね」

「確かにそこは、すごく助かりました……」


 遠めのアトラクション施設や市民プールに行こうと言われるよりは、だいぶ気が楽ではある。

 ホーム戦──と表すのは語弊だろうが。

 ともかく気分としては、大体そんな感じだった。


「見知った場所なら、事前リサーチはしなくてもよさそうですね。となると……」


 意味深に区切って、僕をまじまじと見てくる。

 何を言われるんだろう、と身構えていると、


「……問題は、私たちのほうにありそうですね」


 千冬さんはそう言って、困ったように笑った。

 ひとまずほっとする──しかしすぐに尋ねる。


「私たちって、どういうことですか?」


 すると千冬さんは「そこです」と突っ込んで、続けざまに言った。


「今の私たち、変に他人行儀だと思いませんか?」

「えっ……」

「世間一般のカップルって、丁寧語ばかりで話したりしないと思うんです。もうちょっとこう、ナウでヤングな流行りのフレーズとか、交わすぐらいのノリがあって然るべきだと思うんです」

「……は、はぁ」


 ナウでヤング、なんて言い回しが既に古臭いことに、ツッコんではいけないのだろうか。

 ともあれ千冬さんの言いたいことは、何となく察してきた。

 その予感通り、千冬さんは言った。


「つまり今の私たちには、距離があるんです。どことなく遠慮して、相手の出方を伺ってしまうような……そんな壁を感じてるんです」


 ──それは仕方がないのではないか。

 僕はふと、心の中でそう思った。

 千冬さんとは元々知り合いだったわけでもなく、たまたまサイトでレンタルして、ほんの1週間前に出会ったばかりの仲なのだ。

 一応、彼氏彼女という関係ではあるが。

 それでもやはり、ドキドキこそすれど、仲睦まじいことをする関係になるのは──どこか憚られるような気はした。


 しかし千冬さんは、そんな僕の気持ちを見通すように告げる。


「だから夏貴さん……いいえ。夏貴くん」

「っ……!」

「もうちょっとだけ、歩み寄ってみませんか。私も頑張って、距離を縮めてみますから」

「……千冬さん」

「それがきっと、本当の恋人らしさの始まりだと思いますから……」


 そして、机に置かれたままの僕の右手を、両手で柔らかく包み込んで。

 天使のような微笑とともに、いじらしく言った。


「……ねっ、夏貴くん」


 ──この時の僕の顔は、果たしてどれほど情けなかっただろうか。

 ぽーっと惚けて、顔が火照るように熱くなって、千冬さんの瞳に吸い込まれそうになったことは覚えている。

 ただその感覚すら、うっすらとしか記憶していなかった。

 強く印象に残ったもの。

 それはやはり、何といっても──。


「は……はい……」


 胸の高鳴りを抑えきれない。


 千冬さんの穏やかな笑顔に、僕は思わず、こくりと頷くしかなかった。

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