彼女は天使のような小悪魔で

 カフェから出た僕たちは、そのまま流れ解散してもよかった。

 今日は契約の打ち合わせに来ただけで、僕としては別に、彼女と楽しく過ごそうなんて思っていなかったのだ。

 しかし彼女──千冬さんは、解散しようとする僕を引き止めて言った。


『せっかくだから、一緒に公園回りましょう? こんないい天気ですし、ね?』


 柔らかく微笑まれ、断る理由も見つからず。

 僕は今、千冬さんと肩を並べて、公園のウォーキングコースに沿って歩いていた。

 ジリジリと照りつける芝生のグラウンドで、少年たちがサッカーボールを追いかけている。

 遊具エリアでは親子連れの楽しそうな声が響き、体育館からはボールを突く音が軽快に聞こえてくる。

 さすがは夏休みシーズン、というべきか。

 普段よりだいぶ人が遊びに来ているようだった。


「活気のある所ですね」

「まぁ、普段はもっと落ち着いてるんですけどね」

「夏の魔法ってやつですよ。暑いと人は活発になるんです」

「そう……なんですかね」

「はい。現に私も今、その魔法にやられてるわけですから」

「……成程」


 会ったばかりの男子と歩いている千冬さんが言うと、妙に説得力があった。

 そして自分もまた、千冬さんと同じ、魔法にやられてる身なのだと実感した。


「でも、何だか心地いいですよね。素だったら無駄だと思える時間を、心置きなく過ごせるのは」

「まぁ、確かに」

「夏の特権ってやつですかね? ドキドキワクワクするのは、すごく楽しい時間だと思います」

「それは間違いない、かな」


 同意すると、千冬さんが嬉しそうに微笑んだ。

 このお淑やかな表情といい、さっきから首筋に光る汗といい──ドキッとする要素が多すぎた。

 故にまともに直視できず、ふいっと視線を逸らしてしまう。

 すると、


「えいっ」

「っ……⁉︎」


 左手に絡まる感触。

 思わず全身をビクつかせ、手元を見る。

 絹を紡いで出来上がったような、か細くて白い、滑らかな指。

 それが千冬さんの右手だと気づいたのは、数テンポも遅れてのことだった。

 認識した途端、心拍が上がり始める。

 地面から空まで飛び上がるように、急激に、天をも突き抜けていく。


「ち、千冬さん……何をっ」

「いやー。ふと思ったんですけど、私たちってもうカップルじゃないですか? だったら手繋ぎぐらい、出来たほうがいいかなーって」

「いや、その、えーっ?」

「ふふっ。嫌でしたか?」

「いや、嫌というわけじゃ、ないけど……」


 こういうのはもっと、順序を守るべきだと思う。


「意外とウブなんですね、夏貴さんって」

「は、はぁっ?」

「世の男子高校生なら、むしろ女子にがっついて然るべきですよ? 漏れなく性欲の塊なんですから」

「そ、そんなことはないと」

「思いませんね。だって今の夏貴さん、いやらしーい目になってますから」

「えっ」


 千冬さんがニヤッと笑う。

 その顔はまるで小悪魔にも、肉食獣にも見えた。

 たじろぐ僕に追い打ちをかけるように、ずいっと顔を近づけて言う。


「気づいてないと思いました? チラチラとうなじ見てたこと」

「うっ!」

「それに……このスカート。やけに短いなーって思ってたでしょ?」


 ──心の中で頷く。

 膝までスカートを伸ばしていない女子を、生まれてこの方、初めて見たのだ。

 故に歩いているときも、何なら噴水広場で会ったときから。

 健康的な生脚に目を引かれないときはなかった。


「図星ですか。なるほどぉ」

「……すいません」


 軽く頭を下げ、謝る。

 千冬さんが可笑しそうに笑いながら、空いている左手で休憩所の方向を指す。


「ちょっと休みましょう。お話したいこと、いっぱいありますから」

「あ、うん」


 ちょうど僕も疲れてきたところだった。

 頷き、休憩所に向かうと、屋根で覆われた日陰のエリアに入る。

 しかし大量の人で埋め尽くされていて、ベンチは既に満員状態だった。

 遠めの休憩所に行こうか、と提案したが、


「いえ、大丈夫です。地べたでも休憩は出来ますから」


 と、逞しい返事をもらった。

 意外にアクティブなんだなぁと感心しつつ、なるべく人のいないスペースに案内する。

 屋根を支える柱にもたれるように、2人寄り添って腰を下ろした。

 ちらっと横を向くと、すぐそばに千冬さんの可愛い顔がある状態だった。


「ふぅ……やっぱり夏は暑いですね」

「飲み物買ってこようか?」

「そうですね……お願いしてもいいですか?」

「もちろんっ」


 立ち上がり、直近にある自販機で飲料水を2本買う。熱中症になるのが怖かったため、ひとまずスポーツドリンクの類を選んだ。

 持って帰り、千冬さんに1本分ける。

 千冬さんはそれを額に、次いでうなじに当ててから、リラックスした顔でフタを開ける。

 僕もまた隣に座り、普通にフタを開けた。

 千冬さんに続くように、ゴクゴクと喉を潤していく。


「……美味しい」

「キンキンに冷えてますよねー、これ」

「やっぱり夏になると、スポーツドリンクが身に染みますね」

「不思議ですよねー。冬だとそんなに飲みたくなくなるのに」

「そうですねぇ」


 ──これも夏の魔法かな。

 そんな柄にもないことを思っていると、


「夏貴さん。もうそろそろ、公園も一周してしまいそうですけど。この後、どこかでお茶でもしませんか?」

「えっ……」

「もちろん、予定が空いてればですけど。私は今日は暇なので、家に帰っても何もすることがないんですよね」


 千冬さんが困ったように笑う。

 髪をたくし上げる仕草もだが、何とも魅力的なお誘いだった。

 腕時計を見る。

 今はちょうどお昼時と呼べる時間で、まだまだ遊ぶ余裕はありそうだ。

 せっかくの好意を無碍にするのは、もったいない気がする。

 僕は頷き、笑って言った。


「……俺も、この後の予定はないんですよね」

「そうなんですか?」

「はい。だからぜひ、もう少し一緒にいられたらなって。そう思ってます」

「夏貴さん……ありがとうございます」


 お礼を言うのは僕のほうだと思うのだが──謙虚な部分もあるんだなと、ますます可愛く思えてくる。


「公園の近くにショッピングモールがあるから、もし良かったら、そこに行きませんか?」

「いいですね。ぜひ行きたいですっ」

「じゃあ、決まりってことで」

「はい。もう少し休んだら、一緒に行きましょうね」


 意図せずして、デートのような形になっていく。

 女子とショッピングモールを回った経験など、一度もない。

 こういう場合、男側がリードするものだと聞くが。

 交際経験のない僕に、果たして上手く務まるのだろうか。


 時々千冬さんと笑顔を交わし、内心不安に襲われながら。

 何かに縋るように、雲一つない青空を見上げた。


***


 そうして楽しい時間は、あっという間に過ぎ去っていき。

 ショッピングモールで買い物などを楽しんでいるうちに、辺りはすっかり暗くなり始めていた。

 夕日はいつの間にか、ビルの裏に隠れるように沈んでいく。

 夜が近づくにつれて光る街灯は、そろそろお別れの時間であることを告げる。


 僕の左手と千冬さんの右手。

 もう自然に繋ぎながら歩ける仲にまでなった。

 店から出て、公園の外周辺りまで歩き、はたと止まる。

 暗闇によく映える蒼色の瞳と、僕の視線が交差する。


「──今日はありがとうございました、夏貴さん」


 沈黙を破ったのは千冬さんだった。

 にこやかに微笑み、軽く頭を下げてくる。

 僕も釣られるように、慌てて腰を低くすると、


「こ、こちらこそありがとうございました。おかげさまで、楽しい時間が過ごせました」

「そうですか? それならよかったです」


 正直な感想を伝え、笑い合った。

 人通りの少なくなった街路は、車の音に負けることなく、お互いの声がよく響く。

 公園周りを通る人が少ないこともあり、昼間のカフェ同様、あまり人目を気にしなくて済んだ。

 こんなに楽しいと、つい忘れかけてしまう。

 僕と千冬さんは、あくまでカップルのフリをしているだけなのだ──と。


 そう思った瞬間、繋がれていた手を離す。

 そして、ズボンのポケットに入れていた黒革の財布を手に取ると、中から1万円札を1枚出した。

 それを千冬さんに突き出し、告げる。


「今日のレンタル料です。受け取ってください」


 しかし千冬さんは、なぜか首を横に振った。

 突き出されたお札をそっと押し返すと、僕の顔をじっと見つめて言う。


「今日のはちょっとしたサービスですから。お金は別にいいですよ」

「えっ、でも……」

「レンタル料は必ず受け取らなければいけない、なんてルールはありませんし。それに、これから夏貴さんには、私をたくさん呼んでもらうことになりそうですから」

「……それは、そうですけど」

「でしょ? だから今日のお代は取っておいて、明日からの資金に充ててください」


 ──お財布事情まで気遣われるとは。

 ありがたいような、情けないような。

 様々な感情が絡み合いすぎて、お札を持った手が下がり、固まる。

 これで終わるのかと思ったが、しかし。


「それにまだ、本当の夏貴さんを引き出せてませんから、ね」

「えっ?」


 一体、何を言ってるのか。

 思わずキョトンとして、困惑する。

 そんな僕を尻目に、千冬さんは悪戯に笑うと、前へと駆け出した。

 そして振り返ると、すうっと息を吸って、


「──その俺キャラ! 他人行儀に見えて、ちょっとカッコ悪いですよーっ」

「んなっ……⁉︎」


 にこやかに毒を吐いてきた。

 これまた思わず面食らい、今度はかあっと全身が熱くなってくる。

 今の僕は不意打ちを受けて、どんなマヌケ面を晒しているのだろうか。

 千冬さんは笑い声を漏らすと、申し訳なさそうにサインを送り、


「それじゃあまた明日、ショートメッセージ送りますから! 必要なときは返信お願いしますねー!」


 それじゃあ失礼しまーす! ──と言い残して、軽快に走りながら去っていった。

 ブレザーを着た背中が遠くなる。

 やがて暗闇の中に消えて、全く見えなくなる。


 僕は数秒、ぽかんとその場に立ち尽くして。

 はっと意識を取り戻すと、ただ一言。


「……女の子って怖いなぁ……」


 人のいない街路で、そう呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る