三、山小屋の娘

「手洗いは以上五カ所。この階段を上ると、正門から見て三階、居館から見て二階にあたる。……そしてこの突き当たりが君の部屋だ」

「うーん……は、はい」

 コナル氏にざっと案内されても、広く複雑な屋敷を迷わず行き来するにはもう少し時間がかかりそうだ。

「村人の訛りは強いが共通語は大抵通じるので、あまり不自由しないだろう。学問をたしなむ人なら古代語Ancientも覚えがあるだろうね」

「あ、古代語なら学院で少しだけ習いました!」

 根が好奇心旺盛なリアンだが、今やすっかり好奇心が不安に勝っている。

「私は森の小屋に泊まるが、昼間はこっちに来る。不思議だらけだろうが、少しずつ話そう。書庫も覗くといい。それと、なにより自分の目で多くを見ることだね」


 わずかな荷物を部屋に落ち着けると、リアンは一人で探検してみることにした。

 表へ出るのに屋敷内で小さな冒険をしたり、覚えたばかりの土地の言葉で挨拶して通りすがった農夫に不審がられたりしながら、村外れの丘までやってきた。

 眼下には里の家々と湖が見渡せ、クローバーの野原の向こうには森が続いている。

 と、遠くからかすかな笛の音が耳にとまった。

 誰だろうと気になったリアンは、音を探って森の方へ近づいていった。

 森と野原の際に、草をはむ仔山羊たちを前にして木陰に座り込み、独り木の横笛を吹いている女の子がいた。

 リアンより三、四歳年下だろうか。森の古木のような深い焦茶ブルネットの髪に、ふんわりと風になびくエプロンドレス。リアンがコナル邸の応接間でハープを奏でたとき顔を覗かせた、あの少女に違いない。

 ふと少女が振り向き、やや遠巻きに眺めていたリアンと目が合う。

「こ、こんにちわ! えっと……Dia dhuit!」

「ん……?」

 あたふたと挨拶するリアンを、不思議そうに首をかしげて見つめる少女。その深緑色の瞳は、やはりどこか現実離れしたような、不思議な雰囲気を帯びていた。

「えっと……ごめん、邪魔しちゃった? 続けてっ」

「んー……」

 相変わらずぽーっとしている少女。まだ子供なので、共通語がわからないのだろうか。

「――その……邪魔じゃなければ、もうちょっとだけ聴かせてもらってもいいかな?」

「……ん」

 リアンは笛を吹くジェスチャをしながら、もう一度声を掛けてみた。なんとなく通じたのか、少女は視線を手元に戻すと、隣のリアンを意に介さぬかのように、また黙々と吹き始めた。

 揺れるリズムは、決して楽団のように流麗ではないが、素朴な音色には不思議な深みがあった。

 ふと思い立ち、リアンは携帯している小竪琴ライアーをかばんから取り出し、フルートの旋律に合わせてそっとつま弾いてみた。

 少女がちらりと振り向く。軽く微笑んだリアンに別段反応を示さず、また視線を戻す少女。

 丘の草にお互い前を向いて座ったたまま、一見めいめい奏であう二人。

 しかしやがて、ぴったりと息が合い心地よいリズムを刻んでいた。

 一曲を吹き終えると、少女はまた不思議そうにリアンの方を振り向いた。

「えっと、僕はリアン。キミは?」

「リアン……?」

 独り言のような反応はあったが、通じたのかどうか、どうもわからない。リアンはふと思いつき、教会の聖句や学術書に使われる大陸の古代語を口にしてみた。

「ええと……『な・ま・えNomen』?」

「ん…………クルト」

 通じたのだろうか、それらしき反応が返ってきた。

「クルト……キミはクルトって言うんだね?」

「ん……」

 こくりと頷く少女。

 よくわからないけど、なんとか通じたのかな。と、リアンは思った。

 と、少女は薄曇りの空に目をやり、雨でも確かめるように掌を上にかざした。そして、すくっと立ち上がる。

「ん、どうしたの?」

 一匹の山羊を導くように少女が歩き始めると、仲間も続いて歩み出した。

 ついて行っていいものかときょろきょろしているリアンに気づいてか否か、少女は一瞬振り向いて目線を送り、また丘を下ってとてとてと歩き出す。

 少しとまどいながらも、リアンはあとを追ってみた。

 丘の下にコナル邸の大きな屋根が見えてきた時、少女は不意に前を向いたまま、小さな手を大きく振り、初めて明るい笑顔を覗かせた。そして再び歩き出した足は、確かに軽やかになっている。

「え? え??」

 きょろきょろしながらあとを追ったリアンは、三十歩ほど足を進めたあたりで目を凝らしてようやく、屋敷の庭で手を振るコナル氏の姿を遠目に見定めた。

「えっと……『お父さんPater』?」

「んっ……!」

 リアンは駆け足で少女の横に追いつくと、古代語で聞いてみた。微笑んだ顔を前に向けたまま頷く少女。コナル氏の娘なのだろうか。

 屋敷の裏庭門に山羊たちを導き入れると、少女は森の方へと歩き出した。

「あれ、そっちに行くの……?」

「山小屋」

 リアンが訊ねると、少女は森の奥を指さして言った。

 初めて返ってきた共通語の返事を聞いて、少しは分かるのかな、と考えつつ、リアンはあとに続いた。

 霧が立ちこめ、昼なお神秘的な静けさに満ちた深い森。霧は分け入るほどに深まり、やがて小雨が降り始めた。

 ときおりふと道端の野草を摘みながら、小川沿いの山道を身軽に進む少女。

 杉の木立に囲まれて、古びた丸太組みの山小屋が一軒あった。森の空気に混じり、薪の煙の香りが漂う。

「ここ」

 少女は小屋に向かいながら、指をさして言った。

「ここがクルトの家?」

「ん」

 少女は小屋の木戸を開けると、リアンを促すように振り向いた。

「あ、うん。おじゃまします……」

 リアンは少女に続いてゆっくりと入った。

 居間には夫妻らしき二人の老人が座っていた。

『お帰り、クルト。お友達かい?』

 振り向いた老婆は、そんなことを言ったように見えた。

「リアン」

 リアンのコートの袖を軽くつまんで答える少女。

「あ、こんにち……えっと、Dia dhuit!」

「ふむ、君がアランの助手の竪琴弾きじゃな?」

 白いひげを蓄えた老人も、リアンを見て声を掛けた。

「あ、はい! リアンです、初めまして!」

「鳩の便りで話は聞いて待っておった。アランはわしらの末息子、そしてその子――クレントーナは孫娘じゃ」

「ゆっくりしておいで、今お茶を入れるからねぇ」

 老夫妻が声を掛ける。少女に袖を引かれ、リアンもソファに座った。


「ほう、古代語での。小さいのに本は何でも読むので共通語だって解するじゃろうに、どうもあまり話したがらんようじゃの」

「根から他人とはろくに話さない子だけどねぇ」

「そうなんですか。てっきり言葉わからないんだと思ってたよ、クルト」

「ん……?」

「ていうか、もしかして古代語の本とかも読むの⁉」

「ん。リアンも本、好き?」

「うん! でもえっと、古代語のは読めないかも……」

 ハーブ茶と干苺入りのケーキを囲み、打ち解けて話す四人。もっとも、少女――クルトは相変わらずマイペースだった。リアンの横に座り、摘んできた草花を片手に一人まじまじと植物図鑑をひもといている。道草遊びかと思っていたそれらが全て薬草だったと先ほど知り、リアンは感心させられた。

 と、クルトは不意に本を置くと立ちあがり、戸口の方へ駆けていった。続いて、木戸を開く音が鳴った。

「ああクルト、ただいま。また大きくなったね」

 そして、リアンにも聞き慣れた声がした。

「コナル先生!」

「リアン君。そのうちここにも案内しようと思っていたが、私より早く着いたとはね」

 コナル氏は、ローブの裾にしがみついたクルトの髪を優しく撫でながら、笑顔で言った。

 つかみどころがなく、しかしあどけない見かけによらず芯はしっかりと賢そうに見えたクルトだが、父親に甘える姿はやっぱり一人の子供なんだな、とリアンは微笑ましく思った。

 いつの間にか雨は上がり、日も暮れかけていた。

「あ、いけない! 僕もう帰らなくちゃ……」

「ああ、心配は要らないよ。下には言ってきた、今夜はここに泊まるといい」

「もし気に入ったなら、今夜といわず泊まっておゆき」

 慌てるリアンに、コナル氏に続いて老夫人も言った。

「……」

 クルトも、何か覗うように父親を見上げている。

「それじゃあ……お世話になりますっ!」

 リアンは元気よく、老夫妻に会釈をした。クルトも、父に向かってくすっと微笑んでいる。

「人見知りなクルトがこんなに気を許すとは。いい友達ができてよかったね、クルト」

「ん?」

 コナル氏も微笑ましそうに娘を眺めた。

      :

      :

  賢者と妖精の島――

  西の果てのこの島国は、かつてそう呼ばれていた。

  はるか昔、この地に神々が棲み、やがて人が住んだ。

  神々は人に地を譲り、恩寵を与えることを約して、常世とこよの国へと去った。

  ひきかえに人は神々を畏れ敬い、その名を語り継ぐことを約束した。

  神々の見守る下、賢者や騎士達の王国が栄えた。

  しかし、次第に人の心は神々から離れ、現世に及ぼす神々の力と恩寵は薄れていった。

  やがて新たな民が侵入し、理性Logosの名を持つ「唯一の神」が奉られ、血と略奪に地は穢された。

  忘れ去られた古の幻想Mythosの神々は力を失い、その末裔やしもべ――妖精は、もはや忌み遠ざけられる存在へとおとしめられた。

  神々の世は去り、神々の民の世もまた去った。

  霧の谷に抱かれた一つの里を残して――


「――おや、クルトは眠ってしまったようだね」

 詩を詠むようなコナル氏の語りを聞くうちに、クルトはいつの間にか父の膝元にもたれて寝息を立てていた。

 夜の静けさと暖炉の温もりも手伝って、リアンも夢うつつになっていた。

「クルトって一人でいる時はしっかり者だけど、コナル先生には本当に懐いてるんですね」

「私がいない間はずっとこの山小屋に三人暮らしで、寂しい思いをさせているからね……」

 リアンは夕方から考えていた一つの疑問を思い出す。

「この子は物心つく前から、母親を見たことがないんだ」

 続くコナル氏の言葉は、それに間接的に答えていた。

「そう……なんですか」

 一口飲みかけたマグカップを止め、リアンは脇に目を落とした。

 コナル氏の腕の中で、クルトは心から安らいだ顔をしていた。

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