二、霧の谷

 谷は、一面に立ちこめた深い霧に覆われていた。

 荒涼とした岩場と灌木ばかりが続く峠を馬車で登り切ると、霧の谷をはるかに見渡す展望が眼下に開けた。

 明け方に降り立った駅からは、途中の里ごとに何度か乗合馬車を乗り継ぎ、この人里を遠く離れた峠に至っては相乗りの旅人も僅かばかりとなっていた。

 下り斜面の峠道を降りゆくにつれ、谷間の景色が開けてゆく。

 ここに至るまでの広漠とした草地や荒野とは打って変わり、霧をたたえた谷間の湖を、うっそうと古木の生い茂る深い森が取り囲んでいる。

 静まりかえった湖の畔、あたりを囲む深い森に融け込むように同じ色のたたずまいを見せる里があった。

 斜面に築かれた小さな牧場や畑、それを囲う積み石の塀、そして干し草や木端で葺かれた木組みの家々。それぞれの軒に吊されたランタンの灯りが、まだほの暗い朝霧の中にぼんやりと点っている。

 小川に架かる屋根付橋を渡って里にさしかかった馬車の中で、リアンはしきりに幌の外の景色を眺めていた。目は見開いていても、まるで夢心地だった。

「ここが、コナル先生の故郷……」

「ああ、もうじき着くよ。――不思議かい?」

 コナル氏の差し出した水筒を受け取り、リアンはこくこくと頷いた。

 村の広場で止まった馬車を降りた頃には、霧も視界を妨げない程度に薄れてきた。

 広場の一角にひときわ目立つ石組みの建物が目に付いた。古風な教会建築に似ているが、古代遺跡のような不思議な模様や人の像が刻まれた壁のレリーフが、見慣れぬ神秘的な雰囲気を放っていた。

「あれは教会ですか?」

「ああ、あれはドルイドの神殿だよ」

 コナル氏の返事に、リアンは耳を疑った。

 神話に詠われる森の賢者、ドルイド。古の神々に仕える神官にして、深い知性をもってゲールの民を導く高徳の賢者を指す称号。大陸から教会の教えが伝わってからは、古の神々とともに消え去ったと聞き覚えている。それが……。

「そうだ、まだ言っていなかったね。このあたりにゲールの名残りの里ならいくつもあるが、ここは一味違う。ドルイドの教えと古の神々『ダナン神族』の祭祀、そして古いゲールの伝承をありありと伝え残しているんだ」

 目を丸くして神殿の壁をしきりに撫で回すリアンを、コナル氏は眺めて微笑み、一瞬目を遠くへやった。

「それに、少し昔まで妖精だって住んでいたんだよ」

 言うと、彼はいつもの含み笑顔を見せた。

 リアンは少しつたなく微笑み返した。その時はまだ、その言葉を冗談としか思わなかった。


「サウィン祭――教会では万聖節と言ったね。近頃は私のようにひっそりと街に暮らす同胞達も多いが、ゲールの暦で年の始まるこの祭りの時には、一斉に故郷へと帰ってくるんだ」

「十一月が年の始まり? 葉っぱも落ちてこれから冬になる……終わりみたいな季節なのに」

「終わりこそ始まり、そういう考えもあるだろう? ゲールの暦ではまた、一日は日没をもって始まるんだ。教会暦も同様」

 話しながら段差に組まれた家々や牧場の間を抜け、森の端に近い高台まで上ると、ひときわ大きな屋根を連ねた屋敷が、森を背にして里を見下ろすように建っていた。

「代々ドルイドを受け継ぎ、この里の宗家ともいえる、コナル家の屋敷だよ」

「――ってことは……」

 言葉につかえたリアンが続きを訊ねる前に、

「そう。私――アラン・オ・コナル――の生家でもある」

 コナル氏は答え、ランタンの点った木の門を入った。

 屋敷の脇の薬草畑には森から流れ出る沢の水を引いた水路が流れ、斜面を割いた石垣の上には、木組みに土と石の壁、そして分厚い杉皮葺きの屋根を戴いた、大きな屋敷がそびえ立っている。

 門の正面の建物を入る。黒く燻されたオーク材の柱や梁が、吹き抜けの土間なのでよく見える。かまどには大きな釜がかかり、所狭しと並んだ木棚には、乾したりウイスキー漬けにした薬草の瓶が並んでいる。

 階段を上がり戸を入ると、広い応接間だった。

「ちょっとそこで待っていておくれ」

 コナル氏はリアンを残し、奥の部屋へと入っていった。

 年季の入った柱や壁には立派な木彫りが施され、素朴ながら風格を感じる。そんな大昔を思わせる雰囲気の中、大陸製の蓄音機や精巧な柱時計など「文明の利器」も置かれていた。

 ふと、ほこりを被って部屋の隅に置かれた一台の古めかしいハープが目にとまった。

 やや褪せた琥珀色の胴には、複雑に絡み合って無限に続く蔓草のような模様が彫り込まれている。

 しばらくじっと見つめていたリアンは、そっと手を伸ばし、軽く弦をつま弾いてみた。

 かすかな、深みのある音が、静まりかえった部屋に響く――。と、不意に戸をひねる音がそれを打ち消した。

 リアンはびくりとして手を引っ込め、音の方へ振り向いた。奥の戸口には、灰色のひげをたくわえ、ゆったりとしたガウンをまとった初老の男が立っていた。

「ごっ……ごめんなさいっ!」

 とっさに出た言葉と同時にあたふたとお辞儀をするリアンに、男はつぶやくように声を掛けた。

「竪琴を弾くと聞いたが――それを弾けるかね」

「は、はいっ、やってみます!」

 リアンはまたびくびくっとして答えると、場を取り繕うように素早い手つきで、ぽろぽろと弦をつま弾いた。

「ん、少し狂ってますね……こうして、っと」

 手早く調子を合わせながら、即興で短い曲を弾く。

 そっと振り向くと、男は威厳あるまなざしを向けたままだ。リアンはひやっとしてハープに向き直り、どきどきしながらまた弾き始めた。

 男は椅子に腰を下ろし、じっと耳を傾けている。

 森のようにどこまでも深い音色が響き渡る。弾くほどに魅せられる音色に、やがてリアンの緊張も解けていた。

 ふと、半開きの窓から女の子がじっと覗きこんでいるのに気づいた。

 少女は、ハープを弾く手をまじまじと見つめ、その音色に深く聴き入っているようだった。

 視界の先の遥か遠くを、じっと静かに見つめるような、不思議な深みを湛えた瞳――

 ふとリアンの視線を察した少女は、数秒目を合わせると、窓の陰にさっと身を潜めてしまった。

 代わって、戸口からコナル氏がそっと入ってきた。

 続いて、家族らしき子供たちや婦人が、一人また一人と顔を覗かせる。

 やがて広間には大家族が一同にそろい、小さな子供から猫まで、誰もがリアンの演奏にじっと目をこらした。

「ちょっと鈍ってますが、いい楽器です!」

 弾き終えてしばらく余韻に耳を澄ましていたリアンは、振り返ると持ち前の屈託ない笑顔で言った。

「なかなか見事な腕前だ、小さな竪琴弾きよ」

 男はゆっくりと立ち上がり、リアンに声を掛けた。

「申し遅れたが、ようこそホイル・ウォアの里へ。私は彼アランの兄にしてここコナル家クラン・コナルの当主、グレンだ」

 男は隣のコナル氏を掌で指しながら、コナル家の一族に囲まれて赤くなっているリアンに言った。


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