霧の谷

鳥位名久礼

一、いざない

 谷は、一面に立ちこめた深い霧に覆われていた。

 天と地の狭間に、めぐり廻る風をじっと見つめて――

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 霧の立ちこめる深い森、

 その木立に囲まれた泉のほとり。

 苔むした切り株に少女は座り、

 一人、木の横笛を吹く。

 微風になびく焦茶の髪は森の古木に融け、

 その音色は立ちこめた霧に融けゆく。

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 霧の立ちこめる深い森

 牧草なだらかに、また時に荒涼と広がる緑の大地

 巨石の十字碑と半壊した石壁を風に晒す廃僧院

 そして、地の彼方には荒波打ち寄せる絶壁の海岸線。

 賢者と妖精の島――

 西の果てのこの島国は、かつてそう呼ばれていた。


       *   *   *


 透き通った日差しの注ぐ街に、聖堂の鐘が鳴り渡る。

 高らかなオルガンの一声に続き、聖堂は荘厳な聖楽の響きに震えた。

 複雑に絡み合う四部合唱に、リコーダー、ヴィオール、リュート、ハープ……みな一様に臙脂のベレーと白いローブをまとった少年少女、聖堂付属学院の生徒達だ。

 粛々と、時に力強く、また安らぎに満ちた響きが、代わる代わる聖堂を満たす。

 そして、素朴で哀愁を帯びた讃美歌コラールの和声が、聖楽を静かに締めくくる。


 穏やかな夕日の差す街を、晩鐘がリレーし鳴り渡る。

 聖楽の演習を終えた子供達がはしゃぎながら聖堂を出て、めいめい街に散ってゆく。

「じゃあね、リアン!」「うん、また来週!」

 古びた小竪琴ライアーを脇に抱え出てきた少年は、友達と別れると、一人聖堂脇の道端に腰を下ろした。

 薄汚れたベレー帽を足元に置くと、誰に聴かせるとなしに弦をつま弾きはじめる。実際、足を止める者もそうそういない。

 聖堂前の広場や立ち並ぶ商店の店先は、色とりどりの垂れ幕やカボチャのランタンで飾られ、万聖節の近づいたことを知らせる。

 装飾をまとい立ち並ぶガス灯の行列と、舞い散るイチョウの葉をくぐって、あたかも凱旋パレードのように行き交う馬車や路面汽車スチームトラム

 いつの間にか肌寒くなった夕風が石畳の落ち葉を揺らすが、街行く人々の表情は心なしか祝祭めいた活気がある。

「こんな夕暮れまで街頭演習かい? リアン君」

 ふいに葡萄色のローブが揺れ、少年の前で立ち止まる。

「コナル先生!」

 眼鏡の奥の翠の瞳に微笑を湛えた中年の紳士が、ローブの懐から紙袋に入ったスコーンを取り出し、少年に差し出す。

「どうも! こんど万聖節の聖楽に出るんです。それに、クリスマスに帰るまでに少しでも稼いでおきたいし」

 少年リアンも微笑み返し、脇に楽器を置いて立ち上がる。

「里帰りか……そう、私ももう去らなくてはいけない。もう少し君と話したかったが」

「え……そうなんですか」

 リアンはスコーンを頬張ろうとした手をはたと止めたが、続けて出来る限りの微笑みで答えた。

「今夜の汽車で里に帰ることにしたよ。――もしこのあと暇ならば、研究室に寄ってくれないかい? 発つ前にゆっくり話したいからね」

 返事を忘れて立ちつくすリアンを置いて、男は黒い大きな角帽子を軽く摘みあげて会釈し、ゆっくりと立ち去った。

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 半年ほど前のことか。道端でライアーを弾くリアンに、珍しく足を止めて興味深そうに聴き入る客がいた。

 男はまず、曲の由来を訊ねた。

 普段は聖楽隊で教わる聖楽や練習曲をレパートリーにしているが、真面目な客に気をよくして、その日はふとお気に入りの曲を弾いて聴かせた。故郷の民謡だと思うが、幼い頃から心に残っている曲だった。男が口を開いたのは、ちょうどそれを弾き終えた時だった。

 その日からほどなく、リアンは思いがけず身近な場所――学院の図書館で、見覚えのあるローブ姿に整った黒髪の男と再会した。

 コナルと呼ばれているその紳士は、この国の制度により各地の学院を渡り歩く巡歴学者で、数日前からリアンの通う学院の研究部に詰めているという。

 やがて、図書館や研究室にコナル氏を訪ねるのが、すっかりリアンの楽しみになっていた。珍しい植物、見知らぬ異国など、彼はリアンの好奇心をかき立てるさまざまな話をしてくれるからだ。中でもいにしえの物語に、リアンは強く心惹かれた。神々や英雄、妖精達、そして高徳の賢者ドルイドや風雅な吟遊詩人バルド――。幼い頃に聞いた古の詩人の話に憧れて、リアンは竪琴ハープ弾きを志したのだった。

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「こんなにすごいものを作ったゲールの王国は、どうして滅んじゃったんでしょうね?」

 神秘的な装飾が施された古文書の写本を眺めながら、リアンはふと訊ねた。

 この島はかつてゲールと呼ばれる民の国だった。いつしか隣島の強大な王国の支配を受けるようになり、今は往時の言葉も大部分の風習も残っていない。この国の者なら誰もが多少なりとも知っている歴史だ。

「ゲールは滅んでなんかいないさ、今もこの地に暮らしている。君も聞いたことがあるだろう?」

 机で書類をまとめながら、コナル氏は答えた。

 今でも島の辺境にゲールの言葉を残す地域があるということも、わりあい知られたことだ。だがそこでも多くの伝承は失われ、わずかな名残を留めるに過ぎない。

「見てみたいかい? ――都合のいいことに、私の故郷もその一つなんだが」

 一口含んだ紅茶のカップを置きながら、やや含みのある口調でコナル氏は言った。

 予想外のコナル氏の言葉に、リアンは一瞬返す言葉を詰まらせたが、とっさにもう一つの驚きを口にした。

「それじゃあ、コナル先生もゲールの末裔なんですか⁉」

「驚くことはない、この島の民は誰しも、多かれ少なかれゲールの血を引いているんだ。そう、きっと君だってね」

 リアンの故郷でも昔はゲールの言葉が残っていたと聞くが、十年ほど前、親とともに物心も付かないころ街に出てきた彼には、異国の噂話のようにしか感じられなかった。

 しばし言葉を失っているリアンの横で、コナル氏は便箋とペンを取り出し、何か書きつづった。

「これにサインして届け出れば、君はしばらくのあいだ堂々と学校をさぼれる――少々長めの万聖節休みだ。もちろん、単位だって心配ない」

 少しいたずらっぽい微笑とともに差し出された紙は、コナル氏の正式な助手として調査に同行する証書だ。

「は、はいっ! あ、でも僕まだジュニアクラス……」

 あたふたしつつもペンをつかみ、インク壺をひっくり返したりしているリアンに、拾ったペンを渡しながら、また微笑みを含んだ顔でコナル氏は言った。

「いささか異例かも知れないが、学則では問題ないはずだよ。事務所が閉まるまでに考えるといい――あまり多くの時間はないがね。それと、これを持っておいておくれ」

 懐からコインを二枚取り出し、リアンに手渡す。いびつな鋳銀の玉には不思議な模様。それは、ここ研究室で以前見せてもらった古代の銀貨を思わせる。

「……はい!」

 動揺してはいるが、リアンの決意はとっくに固まっていた。コナル氏もそれを悟っているのだろう。

「二十三時に中央駅で」

 差し出したコナル氏の掌を、リアンは固く握り返した。


 真夜中の中央駅は人の気配もなく、巨大な赤レンガの駅舎は冷たい静寂に包まれていた。

 照明もおおかた落とされ、壁のガス灯だけが点々と薄暗く灯っている。

 リアンはそれを辿るように、恐る恐る歩いていった。夜行といってもこんな遅くに出る汽車があるのだろうかと、不安の混じった疑問が湧いた。

 と、入り組んだ駅舎の奥に揺れる灯りと人影を見つけた。少し駆け足で近づいてゆく。

 郵便列車搬入口の角を曲がると、駅員の姿があった。

「Oíche mhaith――こんばんは」

 駅員――茶色のひげを蓄えた大柄な男が、カラスウリのつるの絡まったカンテラを手にしてリアンを見下ろし、何か聞き慣れない言葉とあいさつを掛ける。

 そしてその奥のホームには、アーチ天井に点々と吊されたかがり火に照らし出されて、一輌の汽車が煙を吐いていた。

「あー、切符はお持ちで?」

 しばし言葉を失っていたリアンに、駅員が太い声を掛ける。

 リアンははっとして二歩あとずさり、無意識にコートの胸元をつかむ。と同時に、掌から銀貨が滑り落ち、足元で鳴った。

 あたふたと銀貨を拾い上げるリアンを見下ろし、駅員は鞄から切符を取り出して切る。

「片道一枚でよろしいですかな?」

 立ち上がったリアンの目の前に、白い手袋の大きな手と切符が差し出される。

「えっと……」

 呆然とするリアンの銀貨を持った右手に、駅員は視線を落とす。

 リアンは恐る恐る切符を受け取り、代わってその手に銀貨を渡す。

「お気を付けて」

 駅員は脇の鉄柵をがしゃんと開く。

 リアンは戸惑いながらも、ゆっくりとした足取りでホームへと入っていった。

 ホームは意外にも、待ち合わせの客で賑わっていた。みなフード付きマントやショールを羽織った古風ないでたちで、くりぬいたカラスウリの灯明を手にしている。そして交わされる聞き慣れない言葉。

 まばらな人混みの中から見覚えのある葡萄色のローブ姿を見つけるのは、さほど苦労しなかった。

「コナル先生!」

「リアン君。寒かっただろう、飲みなさい」

 キヨスクの店先から振り向いたコナル氏は、温かい瓶牛乳を差し出した。

「コナル先生、その……」

 リアンは訊ねたいことだらけで、いっぺんに言葉が出てこなかった。コナル氏は顔の前に指を立てて言った。

「今夜は遅い、話はまたゆっくりとしよう。さて、もうじき発車する――ああ、手洗いなら車内にもあるよ」

 歩み出した足を一瞬止めて振り向き、にこりと微笑むコナル氏。そして微笑み返し、後に続くリアン。

 深夜のホームに汽笛が鳴り響いた。

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