第2話 『スライム』を討伐しました
目が覚めた時、視界に映ったのは見慣れた自室の天井だった。
毎朝毎晩、必ず目にする木目模様に、俺はショボショボと涙で滲む目蓋を擦る。
二、三度瞬きをし、ゴロリと寝返りを打って……数秒後、意識を失う直前の状況を思い出して即座に飛び起きた。
「スマホっ!? って、ウィルスどうなった!?」
慌てて布団の上に転がっていたスマホを掴みあげる。しかし電源を入れようとした寸前、ふと俺は周囲の状況に違和感を覚えた。
部屋の内装に変わりはない。今も俺が腰を下ろしているベッドに、パソコンのディスプレイが置かれた勉強机。教科書や漫画、ラノベを収めた本棚に、壁にかかった針時計。何もおかしなところはなかった。
そう、内装には何の変化もない。
変わったのは、窓の外だ。
睡魔に襲われる前までは、太陽の日差しが薄手のレースカーテン越しに差し込んでいたはずの室内。
それが今は、薄暗い影の中に沈んでいる。光量が圧倒的に足りていない。
立ち上がって窓辺に近づき、カーテンを払う。そこから覗く野外の街並みは、すっかりと夜の帳に包まれていた。
呆気にとられて空を見上げれば、太陽の代わりだとでも言うように、これまで見たこともないほど巨大な満月が存在を主張していた。銀の光が照らす見慣れたはずの風景は、何故だが作り物のような薄気味悪さを感じる。
例えるなら、精巧に作られたジオラマを眺めている様な感覚だろうか。
しばし悩んで、理由に気づく。
その光景には、人が活動している気配と言うものが微塵もなかったのだ。
立ち並ぶ家屋からは明かりが消え、道には車の一台も走っていない。真っ黒な影のように浮かび上がる建物の数々は、物音ひとつ聞こえない静寂も相まって不気味極まりなかった。
「どうなってるんだ、これ」
改めて壁の時計を確認するが、その針は意識を失う直前から十数分と進んでいない。
奇妙と言うよりは異常な状況。足元からじわじわと不安が這い寄る感覚に、俺は小さく息を吐いた。
「……いや、落ち着け」
スマホを握った手をこめかみに押し当て考える。
もしかすると、この状況は単に俺が朝から丁度十二時間ほど寝過ごしてしまったせいで短針が一回転し、時刻が午前ではなく午後になっただけかもしれない。
窓から見える明かりが片っ端から消えているのは、この付近一帯が何かしらの理由で停電になったからで、もう数分もすれば普段通りの光景に戻るかもしれない。
何だか時間の感覚がおかしいのは、半日以上寝ていたからだとすれば説明がつく……かもしれない。
「って、そうだよ! スマホの時刻ならデジタル表示じゃ……ん?」
ハッと脳内に舞い降りた天啓に、俺は中断していたスマホの電源を入れようとする。
しかし、既に覚えもないのに起動していた画面に映っていたのは、期待していたホームの時刻表示などではなく、幾つもの赤い光点が点在する地図だった。
見覚えのある地形は、自宅を中心とした近辺だろう。レーダーのように、中央には三角の矢印が浮かび、そこから距離を表す同心円状の薄線が入っている……が、何故こんなものがスマホに表示されているのかがわからない。
しかもよくよく観察してみると、複数ある光点の内の一つは中央のすぐ傍、つまり俺の近くに浮かんでいるのだ。
「この家の中に何かある……のか?」
画面を操作して地図を拡大してみれば、赤い光点はゆっくりとした速度で自宅の敷地内を移動していることがわかった。
もしかすると物ではなく、何らかの生き物を示しているのかもしれない。タッチしてみると、小さく“4m”との数字が出た。
無視することもできるが、どうしてだかこの光点が気になる。
それに落ち着いて考えてみれば、家にいたはずの他の家族の気配が無くなっていることもおかしい。耳を澄ませても足音一つしないのはやはり異常だ。
「…………仕方ない」
覚悟を決めた俺は静かに息を吸い、音を立てないよう注意を払いながら部屋のドアノブに手を掛けた。
じっくりと時間を掛けながら扉を開け、呼吸を止めながら僅かな隙間から顔を出して左右の廊下を窺う。不審なものはなにもなかった。
「ふぅ……」
一旦部屋の中に引っ込み、バクバクと激しく拍動していた心臓を宥める。緊張でこれまで感じた覚えのないほど、胸が苦しかった。
聞きなれたカチカチという時計の秒針の音がいやにうるさい。室内で一息ついてから、俺は再び覚悟を決めて部屋の外へ慎重に足を踏みだす。
やはり廊下には先程と同じ光景が変わらず広がっている。その事実に少しだけ身体の硬直を解きながら、俺は片手に地図を映し出すスマホを握り締めて自宅を探索し始めた。
壁にずりずりと背中を擦りながら、一歩一歩を時間を掛けながら進む俺は、きっと傍から見れば滑稽極まりなかっただろう。
何故だかこの状況に、俺は幼い日の真夜中の記憶を思い出した。
しんと静まり返った廊下の先に、ありもしない化け物を幻視して怯える記憶。
もしかしたら、一瞬の後に自分はあそこから伸びてきた異形の腕に掴まれ、引き寄せられてしまうかもしれないという想像上の恐怖。
見通せぬ暗がりを異様に怖がる今の俺の姿は、きっと当時の自分と瓜二つである。
「二階には何もない……なら、一階か」
スマホの地図を限界まで拡大するが、距離の表示がゼロになっても怪しい物体や見慣れぬ物は見当たらない。
俺は体重に小さく軋む階段を降り、一階へと向かう。
ひたひたと歩くフローリングの床から伝わる感触がいつもより数段冷たい。握ったスマホに滲んだ手汗が張り付き、俺はズボンの裾でそれを拭った。
レーダーが示すのはリビング。その曇りガラスの填まった扉を前につばを飲み込んだ俺は指先でドアノブに触れる。
何かあればいつでも逃げられるよう、引け腰で指に力を込める。金属同士が擦れ合う振動を皮膚が鋭敏に感じ取りながら、俺は腹を括って扉を押し出した。
「………………」
声は出さなかった。
何故なら、どうせ何かがあるのだろうと身構えていたから。
逆に言えば、そうして心の準備をしていなければ、阿呆のように惚けるか、腰を抜かすかはしていただろう。
例えるならば、人の頭部ほどの大きさのゼリー。
リビングの中央、食卓として使っている四人掛けの木製テーブルの上でウゾウゾと蠢いていたのは、奇妙なとしか形容できない物体だった。
色は薄い水色。ソーダ味の飴玉のような色合いだ。
半透明の流体で、外部からの接触もないのに表面が波打っている。移動した跡が僅かに濡れて光沢を放っているから、それほど粘性はないのかもしれない。
その内部には更に直径五センチほどの赤色の球体が浮かんでおり、クルクルとゼリー内部で泳ぎ回っていた。
ピロリン♪ とあまりに場違いで軽快なメロディが短く鳴る。
目だけで音源である握りしめたままのスマホを確認すれば、いつの間にか画面が先程までの地図状態から切り替わっていた。
上部には目の前にもいるゼリーの画像が、そして下部にはその説明らしき文が表示されている。
***************
名称 :スライム
分類 :?
ランク:?
魔法 :?
***************
「……はは、なんじゃそりゃ」
乾いた笑みが漏れる。
それはまるで――そう、俺がよく目にしていたスマホアプリのゲーム画面をそのまま切り取ったかのようで、あまりにも現実感が薄かった。
だけど、まあ、そろそろ認めなければならないのかもしれない。
どれほど馬鹿馬鹿しい推測だろうとも、事実として現実の方がこうなのだから。
俺はスマホをズボンのポケットにしまってテーブルに近づき、備え付けてあった椅子の背もたれを掴む。ガガガ、と床を引き摺る音に普段なら家族の誰かから苦情が飛ぶのだが、今は知ったことではない。
ゼリー、いやスライムの方は俺に気づいているのかいないのか、相も変わらず不規則な移動を繰り返しているだけだ。
「……うぉりゃぁっ!」
そんな物体に、俺は持ち上げた椅子を振りかぶり、勢いをつけて思いっきり叩きつけた。
ダガンッと椅子の足がテーブルを凹ませ、そこにビチャリとスライムが潰れる音が紛れる。飛び散った液体が頬や剥き出しの手の甲にかかり、その部分だけジュウと火で炙られらような熱を感じた。構うものか。
「このッ! このッ! このぉッ!」
そのまま粉々に原形がなくなるまで何度も椅子を叩きつける。その度にゼリー状の身体が跳ね回るが、俺はスライムが文字通りの破片になるまで手を休めない。
理不尽な現実に対する恐怖、焦燥、怒り。
それら心の内側に巣食った感情が、はけ口を求めて爆発したのだ。
「――――はーっ、はーっ、はーっ……」
やがて荒い息を吐きながら、俺は足の折れた椅子を床に放り捨てる。
八つ当たりでも体を動かしたせいか、
呼吸を整えながら確認すれば、テーブルの上は酷い有様になっている。
ボコボコに凹んだ天板には砕けた木片が散らばり、グチャグチャになったゼリーが広がっていた。
と、そうして俺が視線を向けていると、ゼリーは溶けるようにして淡い光の粒子へと変わっていき、俺の方へと漂ってくる。
危険な感じはしないので黙って様子を見ていると、粒子は俺の身体に触れる端から吸い込まれるよう消えていく。
やがてすべての光が消えた後、ゼリーがあった場所には一枚のカードが落ちていた。
同時に、ピロリン♪ と再びあのメロディが鳴る。
今度は何だとスマホを取り出せば、そこには先程までにはなかった新たな一文が表示されていた。
“『スライム』を討伐しました
『3』の魔力を獲得しました”
“おめでとうございます
条件を達成したため、
第七位・隷種 → 第六位・従種
これに伴い、
“【
***************
名前 :高月 弥代
位階 :第六位・従種
魔力 :503
根源 :『傲慢』『統治』『排斥』
属性 :《夜》
特性 :【独裁者】【■■■■】【■■■■】
称号 :――
***************
読み終えると同時に切り替わった画面に映されたのは、自身の名前とその他諸々。
これまでの流れを振り返れば、如何に錯乱した精神状態であろうとも、現状にもある程度の推測は立てられる。
人がいなくなった夜の街。地図の表示されたスマホ。スライム。魔法。
――“ようこそ、裏世界へ”
「これ、ゲームの世界に迷い込んだとか、そんな感じ?」
あるいは、ゲームの世界が現実になったのか。
この世界に放り込まれる直前、読み取った文面を思い出しながら俺は手のひらで顔を覆う。引き攣ったようなヒリヒリとした手と頬の痛みが、この状況が夢でないことを教えてくれていた。
魔法使いのサバイバル。
暇つぶしにインストールしたアプリは、どうやらとんでもない代物だったようだ。
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