煙に巻く

馳怜

短編

友人を待っていた。

数人ほどしか客のいない、この寂れたカフェで、僕は手元の熱いコーヒーに映った自分の顔を見つめていた。力無く揺れる湯気が、鼻孔に苦く強烈な香りを染み込ませる。

「すまん、待たせたね」

その声に僕は顔をあげた。

久し振りに会う友人は、くたびれたコートを脱ぎながら僕の前に座った。

「待つのは嫌いじゃないから構わないよ。昨日、いきなり連絡が来たのはびっくりしたけど」

僕が笑うと友人も笑った。友人はウェイトレスを呼び、アイスティーを頼んだ。

「冬なのにアイス?」

「今飲みたいのがアイスだからね」

そう答える友人に、そんなものか、と呟く。やって来たアイスティーを一口飲んだ友人に、僕は尋ねる。

「それで、僕を呼び出してどうしたんだ?」

「……明日、遠くに引っ越すんだ」

僕は目を丸くした。久々に会って積もる話でもするのかと思えば、別れ話だろうか。

「それは急だな。遠くって、何処に?」

「遠くは遠くさ。それしか決まってないから」

その返答に、訳がわからないと言う顔をした。

「遠くは遠くでも、住所とかあるだろう?それすら知らないのか?」

「うーん、そうだな……。そこは秘密ってことで」

まるで悪戯好きな子供のように、友人は笑った。僕は詳しく訊くことを諦めた。昔からそうだ、自分のことはあまり話したがらない。

僕は一つ溜め息を吐き、別の質問をする。

「引っ越しなんていつ決めたんだ?」

「それは結構前だよ。いつだったかは忘れたけど。決めてから色々と挨拶みたいなことしてたんだ。それで君が最後」

また一口、友人はアイスティーを飲む。

「前から決めてたんなら、メールで済ませても良かったのに」

「別に良いじゃないか。久し振りだから、こうやって話したくなってね」

友人は短く笑い、アイスティーに浮かぶ氷をしばらく眺めているように見えた。

「……とある一人の少年の話をしよう」

不意に友人は口を開いた。僕は何も言わず、ただ静かに彼の言葉を聴いた。

「一つの家族があってな、彼は周りの皆と同じ人間だと思っていたんだ」

彼は普通に生きた。皆と同じように寝て、起きては物を食べ、勉学に励み、趣味に興じ、再び寝る。父は働き母は家事をこなす。愛する家族、愛する家庭があった。至って普通だ。充実した日々を送った。

しかし時折、母と父は真顔で言う。「お前はおかしい」、「頭がおかしい」と。別に怒られているわけでもない。普通に談笑していると、いつの間にか話は「彼」に転じ、そして最後に決まって、二人は彼の目を見ながら「おかしい」と言う。

繰り返し、繰り返し。

「おかしい」。「おかしい」。「おかしい」。「おかしい」。

彼が成長するにつれ、その言葉はよく掛けられるようになった。ああ、また言われるのだろう。「おかしい」、と。その予想は当たった。悲しいほどによく当たった。そうしていつしか、感覚が麻痺してきた。「おかしい」が己自身のように思えてきた。何か失敗しても「おかしい」のだからしょうがない。妙な特効薬のような、麻薬のようなものだった。しかしふと思うことがある。自分のどこがおかしいのかと。考えても答えは出なかったので、疑問に思う度に放棄した。

彼は社会人になった。独り暮らしも始めた。わからないことだらけだったので、他の同僚をできるだけ真似た。独りで生活するために何をどうすれば効率良いか、ひたすら真似た。仕事に追われ、独りで充実を求めた。いつしか自分自身を認めてもらえた。「おかしくない」同僚達を真似た自分が認められたのだ。だからもう自分は「おかしくない」、自分は「普通」である。そう思えた。

そんな彼のもとに、両親から一度は帰ってこいと連絡が来た。嫌だった。行きたくなかった。

頭の中で、「両親」と「おかしい」の二つの言葉が完全に結ばれていた。容易く「おかしい」と言われる未来が想像できた。そんな彼の様子を見て、上司は言った。「お前は立派に成長した。その姿を両親に見せてやると良い。胸を張れ」と。

彼は両親に会いに行った。



此処で、友人は口を閉ざした。

「…………そこで終わり?」

僕は思わず訊いた。友人は笑いながら続ける。

「彼は、期待を抱きながら両親を目の前に、昔のように談笑したんだ。そうして最後は、両親から『お前はおかしい』って言われて、彼は笑ってしまった。その後、自殺してしまったそうだよ」

その締め括りで、二人の間に沈黙が流れた。何だか口の中がカラカラに渇き切ったような感覚がした。上手く喋れなかった。

「彼の予感は、面白いほどによく当たってしまったんだよね」

他人事のように友人はアイスティーを口に運んだ。

「何、というか……良くわからなくて胸糞悪かった」

ようやく絞り出した僕の感想に、友人は大いに笑った。

「そうか、わたしもできるだけ簡潔にまとめたつもりなんだが、うん、難しいもんだね。そうかそうか、胸糞悪かったか」

友人は少し肩を震わせた。

「それで、今のって作り話だろう。要するに何が言いたかったんだ?」

「つまりね、一度平凡な『幸せ』の味を占めると、心がそれ以下のものを受け付けなくなるって教訓さ」

「……人によると思う」

「なら君にはこの教訓は不要ってことか、残念だ」

友人は空になったグラスの横に代金を置いた。

「さて、わたしはもう行くから、お会計頼むよ」

冷め切った僕のコーヒーを見ながら友人は言う。僕が頷くと、友人は手を差し出してきた。

「もう会うことも無いだろうし、最後に握手しよう」

「そりゃあ、住所も何も教えてくれなかったら、もう会うことは無いだろうな」

僕は照れ臭く思いながら握り返した。

「住所、決まったら教えろよ」

「…………忘れてなかったら」

最後にまた、子供のように笑った。



数日後、僕のもとに一本の電話が入った。あの友人の両親からだった。

どうやら何日も連絡が付かないらしく、何か知っているか、とのことだった。

僕は首を傾げながら答える。

「彼は何処か遠くに引っ越したので、わかりません」

あの日の苦く強烈な香りがよみがえった。

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煙に巻く 馳怜 @018activate

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