第5話 14時から15時

 まいごが出かけた後、俺は店の入り口付近にある、レジカウンター裏に置かれた椅子いすに深く座った。客がおらず1人で店番をするときはだいたいここに座り、窓や店のドアにはめ込まれたガラスから見える、道を行きう人々をながめている。


 通り過ぎる人達は、近所の知り合いや、学生や社会人、ご老人と年代はバラバラで、この店に対する反応も様々だ。素通りする人達はお店に興味がないのだとあきらめがつくが、気になるのは店の外観がいかんや看板を見てくれるが中には入らず何処どこかへ行ってしまったり、店の中まで入って商品を見てくれるがすぐに出て行ってしまう人達だ。


 商品の見栄みばえや、手書きで書いてる看板かんばんの書き方がダメだったのかと思い、ときどき表に出てチェックしたりもする。この家も築数十年ちくすうじゅうねんの古い建物のため、洋菓子店にはにつかわしくないのかもしれない。


 何か良い手立てがないのかと考えをめぐらせるが、費用をかけずに改善かいぜんできる手段しゅだんという条件じょうけんを付け加えると結局けっきょくなにも思いあたらない。副業で弁護士もどきみたいなことを始めたのも、この費用の部分を工面くめんしたいと考えたからだった。


 今までは、戒告かいこくをうけた弁護士に仕事を依頼する客がいるはずがないと判断し、法をあつかう道をしばらく放棄ほうきしようと決めていた。


 だが、日々の経過けいかとともに人間の考えは変わるもので、せっかく長いあいだ机にかじりつき勉強してきたことを持ちくされてるのではなく、副業ふくぎょうとして、今している仕事の足掛あしがかりになればと考えをあらためた。これが上手く行けば、人脈じんみゃくや仕事のはばが増え、より自分の思いえがく理想や夢に近づいていけるだろう。


 しかし、この時間だと通りを歩く人もまばらで、前の景色も殺風景さっぷうけいだ。道を1本隔いっぽんへだてた向かいには最近建てられた一軒家がある。その家のあわいベージュ色のへいを超えて、イチョウの木が伸びており、この窓から見えるせまい景色に色をえてくれている。


葉の色が緑から黄色へと変わり、しばらくすると真っ赤に色づいた葉を落としながら冬のおとずれを教えてくれる。それを見ていると植物の存在が気持ちまでもゆたかにしてくれるのを実感する。


 自分も観葉植物かんようしょくぶつを買って店の片隅かたすみにでも置こうかと考えており、近いうちに探しにいかないといけない。買う予定にしているのはポトスという卵型たまごがたの葉っぱが綺麗きれいな植物だ。つるをどんどん伸ばして成長し、丈夫で耐陰性たいいんせいがあるため日光をほとんど必要とせず、部屋の中に置いておいても問題ない。こういったもので店の中をささやかでもはなやかにすることも必要だろう。


 体がいつもより重たく感じる。昨日まいごから渡された友人の日記を読んでいたため、眠ることのないまま朝がきてしまった。確かに眠気はあるものの、頭はいたってえている。

 病気で亡くなった友人の手帳と言われ、どんな重い内容かと思っていたら、意外いがいに明るく笑ってしまう内容でおどろいた。このあたりは、さすがまいごの友人をやっていただけのことはある。


 ただ、日記を全部読み終わった後、友人の探し物の件等けんとうをつけるため重要だと思った部分を書きだし、それらをつなぎ合わせながら考察こうさつしてみたが、あまり気持ちのいいものではなかった。


正直こんなに自分が動揺どうようさせられるとは思っていなかったため戸惑とまどいがかくせない。不明な点が多く実際に調べてみる必要があるものの、もし自分の推理が正しかった場合、まいごにどう説明すればいいか分からない。


 今日の朝もぎこちなさが出てそのことがバレないかとずっと心配だった。自分で推理をしておいて可笑おかしいが、自分の考えが間違っていて欲しいという思いが強い。早く真実を突き止め、この不安定な思いを消し去りたい。


 実は、まいごには内緒でこの後、早めに店を閉め少し遠くへ出かけるつもりだ。というのも2日前、知りあいの不動産屋に寄って立ち話をしたとき、自分が副業の仕事をするつもりだとその店の主人に話したところ、仕事の相談をしたいと言われた。


 なんでも、自分が貸している土地に借主かりぬしが何も言わないまま家を建ててしまい困っているそうだ。家を建てたのは土地が借りているものだと知らない借主の息子むすこらしい。この場合、民法上では不動産屋の主人が家が建つまでに建築作業の停止を要求しなければならず、家が建ってしまうと土地の貸主の主人が家を買い取ってあげなければならない。


 しかし、不動産屋の主人もそんなお金があるはずもない。このとき、1番よくある解決方法としては土地と家を両方売って金にし、その金を土地分と家分でそれぞれ分けて貸主と借主にあげる方法だ。その話をまとめるため、また相談の話が真実か確かめるため土地を一度下見に行こうと考え、今日出かけることを決めた。


 ただこれは、出かける本当の目的の理由づけだ。この土地がある場所は実はまいごの実家がある町にほど近く、まいごの友人の探し物を探すためというのが本来の目的。自分自身このことが解決しないと仕事も手につかず、すぐに行動にうつすことにした。


 俺は小さくため息をついて外を見た。夏の日差しがまぶしく、暗い所にいる自分に外へと手招てまねきしているように見える。

「人助けか…」

そうつぶやくと、俺は自分の手を見つめた。


 思い返すと今まで生きていた中で、助けを求められさえすれば、自分なりにそれにこたえてきた。今もまいごの件で動こうとしているが、自分でも不思議に感じることがある。自己満足だろうか…、それもあるが、きっとこれは自分が過去に犯してしまった罪のつぐないだろう。許されることはないだろうが、自分を保っていられる唯一の方法に違いない。



 昔、弁護士になりたかったのは、物を使わず口と知識と法だけで人を助けている姿すがたあこがれたのがきっかけだった。もちろん社会的地位が高かったのも大きな理由の一つなのは否定しない。ただ、こういったもろもろの理由の根底こんていには、その道に俺を進ませた大きな存在があった。


 母は10年ほど前に病気で亡くなり、その後、5年前まで家族は親父と兄貴と俺そして弟がいた。親父の名前は抑内 久次良(よくない くじら)、あのころ親父は今兄貴がしている仕事をしていて、防衛省の情報本部というところで働いていた。


 そこでは主に、テロや他国の軍事等の脅威きょういから安全を守るために必要な情報を集積しゅうせき分析ぶんせきし、防衛省や自衛隊の運用うんよう反映はんえいしてるそうだ。


 集められている情報の範囲はんいは、大まかに電波情報でんぱじょうほう画像情報がぞうじょうほう地理情報ちりじょうほう公刊情報こうかんじょうほう等と広く取り扱われている。


 集積方法は例えば衛星えいせいからられる地球上の画像であったり、国々で飛び交っている通信つうしん電波傍受でんぱぼうじゅ、友好国から提供される軍事情報、外務省がいむしょう警察庁けいさつちょう等の関係機関かんけいきかんなどから情報がもたらされる。


 ようするに、平和維持へいわいじのために必要な情報を集めて調べるのが親父の仕事ってわけだ。


 そんな仕事をする親父を見て育った兄貴も、親父の道をなぞるように同じ職についた。俺は俺で小さい頃からあこがれていた弁護士になる道を選んで進み、ロースクールに通ったすえなんとか弁護士資格の試験に合格することができた。


 兄貴も俺も社会的には成功できたが、とても勉強が得意だったわけではない。というのも、これら全てが実は弟のための努力だった。



 弟の名前は抑内 依奈久吉(よくない いなくよ)。年の離れた弟は俺とは7歳も離れていて、他人からは兄弟と言うより親子のように見えていただろう。弟は脳に障害があり学習能力はいちじるしく低く、とてもじゃないが普通の学校に通うことはできなかった。物なんかを目で見て判断することはできるが、それを言葉にすることはできず、よく「あーあー」言っていたのを覚えている。


 今でも弟のことを鮮明せんめいに思い出すことができる。小柄こがらで体は細く肌は色白、髪を切るのを嫌がるので、いつも長めの髪だった。顔は綺麗で普通に生まれていたら、3兄弟のなかでは1番モテただろうとよく兄貴と話していた。


 大きな服が好きで、よくぶかぶかの長袖のシャツを着て、そでから手が出せていなかった。ケーキが好きで店に行くとショーケースに両手をり付けてケーキを眺めていたのを思いだす。1度兄貴の誕生日ケーキを兄貴がいない間に弟が半分くらい食べたことがあって笑った思い出がある。


 また、なんにでも興味を持つ性格で、公園なんかに連れて行くと体育座りのように足を手でかこんでしゃがみ、何かをじっと見ていた。草花だったり、公園の池だったりを見て何が楽しいのかは分からなかったが、そんな弟を見ているのは気持ちがやわらいだ。


 ただ、この生活がずっと続かないのは頭の片隅かたすみで理解していた。将来、弟は社会で普通に暮らしていくことはできない。だれかが弟の面倒めんどうを見てやらないといけなかった。そのためには、どうしても金がいる。弟が何不自由なく暮らしていくだけの生活費が。


 兄貴と俺は必死の勉強の末になんとか弟の面倒が見られそうな職につくことができ、正直本当に嬉しかった。俺が弁護士になったとき、理解できないと知っていたが、弟に「イナクヨ、俺が弁護士になったから将来の心配なんかしなくていいぞ」と言うと、弟は何も理解しないまま、うんうんと言うように適当てきとう相槌あいづちをうっていた。今思うと、あのときが人生で1番嬉しかった瞬間だった。


 ただ、このりた時間はそう長くは続かなかった。




 あれは2年前の12月ごろ、俺が弟とショッピングモールへ買い物に出かけていたとき。買い物を済ませ外に出ると、外はすっかり暗くなっていて、街のいたるところにイルミネーションの明かりが綺麗に光っていた。


 クリスマスが近いこともあって、街の広場に大きなクリスマスツリーが設置せっちしてあり、木には色とりどりのプレゼントの箱やおもちゃ、オーナメントボールがかざられていた。弟はそれを見るなり走って行って、その大きな木を呆然ぼうぜんと見上げた。こうなると、だいたい弟はそこから動かなくなり、ずっとそれを見だすことは分かっていた。


 とくに、これから用事があるわけでもなく時間はあったので、気が済むまで見せてやろうと思い一緒にその綺麗に飾られたクリスマスツリーを見ていた。自分も小さい頃は目にするものが全て新しく新鮮しんせんで、こうやって純粋じゅんすいな反応をしていたことを思い出す。


 そんな思いにふけっていると急にケータイの着信音がりだし現実にもどされた。あわててカバンからケータイを取り出すと、画面には登録されていない電話番号がっており、見覚えもなかった。俺は誰だろうと考え迷ったが、着信が切れるよう様子ようすもないため、しかたなく電話に出ることにした。


 「はい、ヨクナイですが」

「…」

まるで返事がない。自分の声が聞こえていないのだろうか?

「もしもし、誰ですか?聞こえますか?」

ケータイの向こうからはかすかに人の気配けはいは感じる。

「すみませんヨクナイさんですか?」


やっと男性の声が聞こえてきた。はきはきと、しっかりしたその声はまるで聞き覚えがなく、頭の中に知人の顔をいくつか浮かべてみたが当てはまらない。

「はい、そうです。すみませんがどなたでしょうか?」

「…あの、外の雑音ざつおんで声が聞きづらいので、静かな場所に移動していただけないでしょうか?」


 そのとき、たしかに俺は街の中心街にいて、周りでは多くの人たちがこの広場に集まりにぎわっていた。弟の方を見るといまだに一生懸命いっしょうけんめいクリスマスツリーを眺めている。少し心配ではあったが、どうせ間違い電話だろうから数秒で終わると思い、弟にココにいてくれと言って、俺は向こうのホテル近くにいるからと指をさして教えた。


弟は最近気に入っている親指を立てて『かった』の合図あいずを俺にしてくれた。いつか見た海外映画の主人公がしていたのをマネしているようだ。その頃は少しづつだが会話の意思疎通いしそつうができ始め、もしかすると普通に人と話すことができるんじゃないかと期待していたのを覚えている。


 俺はその場から急いで離れた。高級そうなホテルの入り口付近へ着くと、人はまばらで、立派りっぱな服装の人たちがホテルの前で談笑してたりするが、さっきの場所よりはるかにしずかではあった。ケータイを見ると画面は通話中のままで、相手は電話を切らずに待っていた。俺はまたすぐにケータイに話しかけた。


「移動した。すまないが誰か名前を言ってくれないか。この番号を俺は知らない」

しかし、また返事がない。

「もしもし」

いくら話しかけても何も話してくれない。弟を待たせているし早く電話に出てくれと思っていると、しばらくして急にプツりと電話が切れた。

「いったいなんなんだ…」


 俺がケータイを見ながら不思議がっていると公園の方で突然だれかの悲鳴ひめいが聞こえた。り返るとさっきまでいた場所の近くに人だかりが集まり始めていた。


 嫌な予感よかんがした。心配にはなったが、まさか弟が大勢の人の目がある中で事故や事件に巻き込まれはしないだろうと楽観的予測らっかんてきよそくをし、自分を落ち着かせながら元の場所へと戻った。



 しかし、俺の予想ははずれていた。そこには弟が血溜ちだまりのなかで倒れていた。そのときの情景じょうけいは今でも目に焼き付いている。真っ白な肌に血の赤が悲しいほど際立きわだち、まるでろうでつくった人形に赤いペンキをかけたような姿だった。


 それを見た途端とたん、景色が一気にゆがみ、胸が苦しくなった。

俺は近くに行ってひざをつき弟の顔を見た。呼吸もまばたきもせず、光をうしなった目でどこか空虚くうきょを見ていた。俺は急いでケータイを取出し警察や救急車を呼んだが、弟が生きているとはとうてい思えなかった。弟の手をにぎったが、手はかじかみ、どこまでも冷たかったのを覚えている。



 病院で弟の死因を調べてもらうと、誰かから胸を銃で撃たれていたそうだ。ただ、俺はそれを聞かされても何も考えることができなかった。なんで殺されたかよりも、今ここに弟がいない現実が受け入れられず、ついさっきまで一緒にいたのにという思いしかなかった。そのとき、俺の人生の目的がすべて無くなりカラッポになったのを自覚じかくした。


 まわりから変な弟だと後ろ指をさされても、俺にとってはいなくてはいけない存在で、弟は俺の心臓のようなものだった。



 だが悲惨ひさんなことはこれだけでは終わらなかった。次の日、ビジネスホテルの一室で親父が銃で頭を打ちき自殺していたのを、ホテルの清掃員が見つけた。兄貴からこのことを電話で聞かされたとき、いったい何が起こっているのか分からず混乱し、頭が真っ白になった。



 しかし、どういう分けか警察からこの一連の出来事の詳細ははっきりとは教えてもらえず、「調査をしている」とばかり言われ、どれだけ問い詰めても聞く耳をもたない態度をつらぬかれた。


 だが、後から親父が家族を殺すとおどされていたことを兄貴から聞かされた。おそらく親父の仕事に関係していたのは間違いないとのことだ。国の機密きみつかかわることが多く、警察に聞いたところでムダぼねだから、この事件をぎまわるなと兄貴にくぎされた。





 このとき俺は奈落ならくそこき落とされたが、今こうして平常心へいじょうしんで生活できているのは、俺の精神が強いわけでは決して無い。実は俺自身、弟や親父が本当に死んだと思っていないからだ。これはべつに、死んだと思いたくないわけではなく、そう思えるだけの真実があるからだ。


 いや、確かに弟や親父は亡くなったが、まだ二度と会えなくなったわけではないことを俺は知っている。人間の知識と技術をかき集め、人にゆるされていない範囲はんいにまで手を伸ばし、全てを書き換えてくれるものの存在が、今の自分のささえになっている。そのために、あのときから俺と兄貴でずっと準備を進めていた。もうすぐだ。あのときから止まったままの時間を動かすことが出来る。



 俺は大きく息をいた。とりあえず、あと1時間後には店を閉めないといけない。閉店の準備と在庫が少なくなっている焼き菓子作りを少しずつ進めていこう。


 俺は厨房に向うと、冷蔵庫に張られている手書きのメモを確認し、商品の在庫数をチェックした。その商品の中からこの店で今売れすじのチュイルという日本語で「かわら」という名の焼き菓子を作ることを決め準備に取りかった。


 うすい甘い小麦粉の生地にアーモンドを混ぜている菓子で、かむとパリパリと音がしてこおばしい味がする。冷蔵庫を開け、賞味期限を確認して期限が早い方のバターを取出し、レンジに入れて溶かした。バターを溶かしている間にボールに卵白らんぱくと砂糖、薄力粉はくりきこを入れてまぜ、そこにさっき溶かしたバターとアーモンドスライスを入れまぜた。


 これを鉄板てっぱんにスプーンですくって、1つずつ薄く広げ、後はオーブンで焼きがるのをまつだけだ。焼いている間におもてのショーケースのケーキを引き上げておこうと思い、店の入り口の方にいくと急にカランと音をたてて店のドアが開いた。もうすぐ店を閉めようとしているところだったので、そのことを伝えようかどうかと迷ったが、その店に入ってきた客は見覚えのある人物だった。



 ぱっと見でもわかる高級そうな黒のスーツに茶色い革靴かわぐつ。俺より背が高く180cm以上はゆうにあるだろう。筋肉質でがたいがよく、シャツのえりの首元がきゅうくつそうだ。顔はほりが深く、外人やハーフと言われても信じてしまうだろう。髪をウルフカットにしてあり、見た感じアメリカの学園ドラマで出てくるスポーツ部の俳優みたいといったら分かるだろうか。


 「これはまた、めずらしい客が来たな。会うのは半年ぶりか兄貴あにき

俺は口元くちもとをニヤけさせて言った。

「あぁ、それぐらいになるか。忙しくてな。近くで用事があったんで寄らせてもらった。お前一人か?」

兄貴はどんなに日をあけて会っても、態度も口調も何一つ変わらず接してくる。俺もそうだが、ここらへんは親父にかなり影響えいきょうを受けてるせいだ。

「なんだ、兄貴ほどえらくなるとギャラリーが多くないと不満なのか?」

そう言うとため息をつきながら「相変わらずだなハカセ」とあきれられた。


 兄貴はカウンターの一番手前の席に座り、書類なんかで重くなってそうなカバンを床に置いた。店内を見渡して何か確認しているようだ。俺の店に来るのはこれが初めてで、どんなものかと店構みせがまえを見てるんだろう。


 兄貴の名前は抑内 久未(よくない くま)。歳は27で防衛省の情報本部で働いている。国内にとどまらず海外にまで出張で出かけることも多く、兄貴に会える機会は年々少なくなっている。俺が洋菓子店をしていることは話していたが、食事の約束をしても兄貴の職場の近くの店で落ち会うことが多く、俺の店まで来ることが今までなかった。いつか俺の店にも来てくれとは言っていたが、これまた唐突とうとつに来たな。


 「なかなかいい店じゃないか。家は古いが内装ないそうのセンスは良い。このつくえ椅子いすなんかはお前が用意したのか?」

「あぁ、知りあいの雑貨屋ざっかやで安くゆずってもらった。あとそこに掛かってる絵は俺の友人が書いたやつだ。売れない絵描きにしてはうまいだろ」

俺は店の壁にかかっている、海外の町の風景画を指さして言うと、兄貴はうなずいてくれた。


 「今日は時間があるんだろ?コーヒーでも飲んでいかないか?」

そう言うと兄貴は腕にけた大きく上品な時計を見て

「じゃぁ1杯頼む」と注文した。

それを聞きながら、サーバーの上にあるドリッパーにフィルターをセットし、事前に引いているコーヒー豆を入れお湯をそそいだ。しばらくすると、いい香りが店にただよいはじめた。


 「店はどうだ?うまくやっていけてるか?」

「開店当初は客もなかなか来ないし大変だったよ。今はやっと常連の客もできて軌道きどうに乗ってきたところだ。まぁ、なんとかやってるよ」

「しかし、本当に洋菓子店を始めるとはな。最初聞いたときは冗談話みたいに笑って話していたから、まったく本気にしてなかった」

「冗談は苦手なんだよ。兄貴も知ってるだろ?」


 コーヒーをれた後、カップにそそぎ兄貴のところにもっていった。

「いろんな産地のコーヒー豆をブレンドしてるんだ。俺が苦手だから酸味さんみはないようにしてる」

兄貴はカップの取っ手に指をかけコーヒーを一口飲んだ。

「いい味だ。れ方は誰かに教わったのか?」

「他の店を参考にしたり、コーヒー豆の専門店の店主にいろいろ聞いたりして豆のブレンドや淹れ方を考えたよ」

「そうか、昔から何かと研究熱心だったからな。それがかせてるようでよかった」

兄貴はそう言うと何か考えてるようなそぶりを見せ、少し間をとった後ゆっくりと話しだした。


 「実は今日ここに来たのは、お前の顔を見るのと、もう一つどうしても話しておきたいことがあったからだ」

「話したいこと?」

直接会うのは久しぶりで、もる話でもあるんだろうか。

「なぁ、ハカセ。前にこの家の部屋を少女に貸してると言っていたが、それはまだ続いているのか?」

「少女?あぁ、まいごのことか、まだその子に貸してるよ。たぶん、大学を卒業するまでは借りるんじゃないかな」

「そうか…。その子なんだが、どんな子だ?」


 急にまいごの話になりとまどった。今まで兄貴とは部屋を貸してること以外はまいごについて話した覚えがない。いったいどうしたのだろうか。

「どうって、普通のそこらへんにいそうな大学生の子だけど。それが?」

兄貴は俺の淹れたコーヒーをまた一口飲むと、俺を一瞬見てまた目線を戻した。


「実はこの前、職場の同僚どうりょうから、お前が部屋を貸している少女は危険だと言われた。同僚は国民の住所、経歴、身体等のあらゆる情報を一括して管理している部の1人だ。間違いないだろう。本当は情報をらすことは許されないが、俺には友人のよしみで教えてもらうことができた」


 まったく予想していなかった内容に驚いた。

「危険?まいごが危険?」

「このままだと、その少女にお前は殺される可能性が高い。できるだけ早くあの部屋から立ち退いてもらうんだ。立ち退き要求は何ヶ月か前からする必要があったはずだ。今日か明日にでもその少女に話してくれないか?」


 あまりの突拍子とっぴょうしのない話しについていくことができない。

「ちょっと待ってくれ、殺される?俺が?」

俺はその話に驚いて笑ってしまった。

「そうだ、何を笑ってるんだ?」

「いや、俺が見ないうちに兄貴もずいぶん冗談がへたになったなと思って」

「まじめな話だ。立ち退いてもらわないと、お前は確実に殺される」

何がどうなって兄貴がこんな話しを信じたのか分からないが、どうやら本当に俺が殺されると思っているようだ。血のつながっている家族が俺しかいないのは分かるが、心配しすぎだ。さすがに兄貴は少し働きすぎて疲れてる。俺は落ち着かせるように話した。


 「兄貴、人違いだ。いくらなんでも殺人鬼さつじんきに部屋を貸すようなポカはしない。1年半その子を見てきたが、人どころか虫も殺せずに俺を呼ぶような少女だ」

「間違いはない、同僚からその少女の身元情報を見させてもらった。本名はいつもまいご。お前の部屋を借りてる少女に完全に一致いっちしている。俺も何かの間違いじゃないかと、何度も確認した」

「なら、そのデータは間違ってる。役に立たない」

「なぜそう思う?」

「まいごが人を殺すわけないからだ。」

「理由になってないぞ。」

「1年半部屋を貸してたんだ。もしまいごが人殺しなら、俺はとっくに殺されて、葬式そうしきも終わり、墓石はかいしが建ってるよ」


 兄貴は俺が頑固がんこに耳を傾けようとしないのに肩を落しているようだ。昔から兄貴の考えはいつも正しく、俺が間違いばかりしているのを正そうとしてくれる。ただ、今回の話しは別のようだ。

「このさいその少女がどんな人物かはどうでもいい。俺は将来確実に起こる事実を話しているだけだ」

「なぁ兄貴。何を知ってるんだ?なぜそう言い切れる?理由を教えてくれよ」

兄貴の気持ちがブレないことで、どうやらこの話しに信憑性しんぴょうせいを持たせるだけの理由があることを感じ取った。ただ、人違いだという考えは捨てはしないが。


 「悪いが理由は教えられない。教えた場合、お前自身を危険にさらす可能性がある。知ってどうする?お前がしなければいけない行動は変わらないんだ。何をしぶってる?」

「すまないが理由を聞くまでは、まいごに立ち退きを要求する気はない」

俺はどうしても折れることが出来なかった。兄貴の勘違いとしか思えず、理由を聞かなければ納得出来ない。


 「お前が弁護士会から戒告かいこくを受けた時のことを忘れたのか?あのときに決めたはずだ、余計なことをお前に教えないと。納得してただろ」

「…」

過去の苦い思い出がよみがえる。情報にり回されて全て無くしてしまったあの日、兄貴のかたい口はさらに開かなくなってしまった。


 「えらくその少女の肩を持つな。同じ家に住んでいるのは1年かそこらだろ?情でも移ったのか?」

不意に痛いところを突かれ言い返すことが出来なかった。昔から兄貴には俺の考えや気持ちを見透みすかされ、そのたびに嫌な気分を味わされてきた。


 「なぁハカセ。実はこの半年でイナクヨの件の調べが大きく前進した」

兄貴のその言葉に息を飲んだ。


「…本当か?」

「あぁ、名前はまだ教えられないが、イナクヨを殺した犯人の特定ができた。しかも、殺し自体は単独たんどくおこなわれたそうだ。殺しを指示した奴らはいまだに分からないが、このままいけばイナクヨは助けることができる。計画を実行するのは近いかもしれない」

「そうか…」

あまりの嬉しい報告に鳥肌が立つ。弟が本当に帰ってくることが現実味をびてくるのを実感し、気持ちが高ぶる。


「そのためにも、不安要素ふあんようそをできるだけらしていきたいんだ。すべてはイナクヨのためでもある。理解してくれ」

兄貴は俺をさとすようにそう言うと、俺の肩をたたき立ち上がった。

「コーヒー代をここに置いておく、また近いうちに来る。それまでにはらを決めておけ」

コーヒー代にはあまりにも多い金を置いて出て行こうとする兄貴に声をかけた。

 「なぁ、兄貴の仕事の方は大丈夫なのか?俺のせいで居心地いごこちが悪いんじゃないか?」

俺はずっと気になっていたことを兄貴にたずねた。


「大丈夫だ、心配するな。もし、まだあのことを気にしているようなら思い違いだ。お前は自分の心配だけをしていればいい。無理にお前の行動を正当化するつもりはないが、気持ちは理解している」


兄貴はそう言うと「じゃぁな。」と言って店を出た。正直、兄貴の心配するなと言う言葉は信用していない。仮にも俺は犯罪を犯している身だ。犯罪者の兄貴という立場がどういったものなのか、容易よういに想像がつく。なんでもないような顔をしているが、兄弟の俺にはそれがうそだとわかる。




 あれは、弟が亡くなって間もない頃だった。あの時の俺は絶望ぜつぼうの底にいて、頭の中でずっと雑音ざつおんひびいているような状態だった。おちついて物事を考えることができず、後悔こうかいねんなやまされ続けていた。


 あのとき、弟のそばを離れなければ。そう思わずにはいられなかった。それと同時に弟を殺した犯人への憎悪ぞうおふくらみ、復讐ふくしゅうが出来ないかと本気で考えるようになっていった。


 ただ、復讐といっても犯人を殺してではなく、法の裁きを受けさせたいと考えていたことを思うと、まだこのときは人の道をぎりぎりはずさずにはいられたようだった。兄貴は弟の事件のとことは詳しくは知らず、捜査が進むのを待つんだと俺に言うばかりだった。しかし、俺は兄貴のように悠長ゆうちょに待つことなど出来ず、自分自身で犯人を突き止めるため、警察本部にいる知人や友人、弟の事件に関わった、ありとあらゆる人物たちから、情報を聞き出した。


 弟や親父が殺された理由は、コカインの大きな取引とりひきあばいた親父が犯人に報復ほうふくを受けたとか、他国の機密漏洩きみつろうえいうたがわれたやら、言っていることはバラバラで、裏付けが取られていない憶測おくそくの話しだけだった。しかし、全員が口をそろえて同じことを言っていたことがあった。それは弟を殺した犯人ではないものの、事件に関わりがある犯人グループの1人の名前や年齢、住所等の身元や見た目の特徴だ。


 その犯人の名前はスグル ケムリ。顔は色黒でせ型、身長170ほどでまった体をし、表向きは運送会社で働いていることになっていた。今考えれば、あやふやな情報源じょうほうげんから得た、憶測おくそくだらけの推測すいそくで、勝手に犯人だと決めつけたのはおかしかった。ただ、このときの俺は正常せいじょうな考え方ができず、数人の知人が同じ証言だったということだけが頭に残り、他の考えが消えていた。


 俺は決意し、ある夜そのケムリという人物の家へと行くことにした。そいつの家は川沿いのマンションで、かべ劣化れっかから見るとちく20年以上は経ってそうだった。俺は近くの交差点の曲がり角でそいつが帰ってくるのを待ち、2時間ほどして、調べていおいたケムリの顔とおぼしき人物が家に近づいてくるのが見えた。



 その瞬間しゅんかんに俺はその男に近づき声をかけた。俺が殺されたイナクヨという人物の兄だと名乗り、弟の事件のことで知っていることを話せとせまった。


ケムリという男は俺を見るなり目をそらし、何も知らないの一点張いってんばりで、迷惑めいわくだから帰ってくれと言うばかりで相手にしようとしなかった。


事件のことを話せばお前を警察に突き出すことはしないでやるとうその取り引きを持ちかけたが、まったく応じない。このやり取りを何回かつづけた後、俺は自分をおさえることができなくなり、気付きづくと手を出していた。


 男は口元から血を流していたが、なぜか笑っていた。その男が「どうした、もう終わりか?」と言ったとき違和感いわかんを感じた。


なぐられたにもかかわらず相手があまりに無抵抗むていこうなのが、どう考えてもおかしかった。


 おれがその状況に戸惑とまどっていると、急にどこからか来た数人の男に囲まれて羽交はがめにされた。


その手際てぎわの良さから私服警察官しふくけいさつかんだというのがすぐに判断できた。警察には特有とくゆう逮捕術たいほじゅつがあり、自分や犯人の怪我を最小限にし取り押さえるよう訓練されているからだ。


俺が男をなぐった瞬間に警察に囲まれ、まるで俺がこいつを殴ることが分かっていたような警察のありえない行動から、俺がハメられていたことが容易ようい推測すいそくできた。


 ケムリという男は前科もない普通の一般人だった。その男に関係ない事件の犯人だと思い暴力をふるった俺は傷害罪しょうがいざいに問われそうになったが、その殴った男と兄貴が話してくれ、示談金じだんきんを払うことで丸く収めてくれた。しかし、俺はこの事件で弁護士会から戒告かいこくを受けることになり、そのときいた職場を離れることになった。


 後に嘘の情報を提供した奴らに電話をしたが、全くつながらなかった。犯人の虚像きょぞうの情報を流し、その嘘を信じ込んだ俺がそいつの家に行くのを待ち伏せするという簡単なわなだったのだろう。警察もからんでの組織的そしきてきな国の罠。弟の事件は国としても隠しておきたいことが多く、事件をぎまわっていた俺が邪魔じゃまだったに違いない。



 兄貴にはずっと迷惑ばかりかけ、本当にできそこないの弟ですまないという気持ちになる。いつか恩を返したいとは思うが、生活にも困っていない兄貴にどうやって恩をかえせばいいか分からない。せめてイナクヨを助けることができれば、こういった考えも前に進めそうだが…。


 店の時計を見ると短針が15時の近くを指していた。店を閉めてそろそろ出かけないと。


 俺は店の外に置いてある看板を中に入れシャッターを閉めた。




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