第3話 7時から14時

 私は紫色むらさきいろ花柄はながら浴衣ゆかたを着て、神社の長い石段のすみに座り誰かを待ってた。雨上がりなのかな?若草わかくさの良い香りがして空気がんでる。座っていた隣には、古びている石のきつねの像が建っていて、私を見守るように上からのぞいてる。


前を見ると海が一面に広がっていて、太陽がその海に沈みながら、あたりをオレンジ色に染めていた。何かのお祭りなのか、海岸沿かいがんぞいの道には露店ろてんが並び、暗くなるのを心待ちにしているようにお店の電球がつき始めている。


そんな景色を見ていると、なんだか幸せな気分になれた。波の音と潮風しおかぜが髪をらすのを感じながら、ずっとここにいたいという気分にさせる。私はしばらく太陽が海に沈んでいく様子ながめながら、黄昏たそがれていた。


 すると、カランカランという、はくのにれていない下駄げたの音が近づいているのが聞こえてきた。歩道のほうに目をむけると、そこには青色で椿柄つばきがらの浴衣を着たねむりの姿があった。髪をみ込み、かんざしを使って上手にまとめている。そんなねむりを見れて、私はすごく嬉しくなった。


 私は立ち上がり、「やっと来てくれた。ずっと待ってたんだよ」とねむりに言うと、ねむりは笑って私に何かささやいてる。


でも声が聞こえない。まわりのいろんな音はちゃんと聞こえるのに、ねむりの声だけ聞こえてこない。


私がその状況にとまどっていると、ねむりは、こっちというように手を動かし私を露店ろてんの並ぶ道へと誘導ゆうどうしてくれた。


 わたしは、夕焼けに染まり心地のよい海岸沿いの道をねむりと一緒に歩いた。でも頭の中にもやのようなきりがかかっている変な感じがしていてすっきりしない。ねむりを見ると、ずっと笑顔で海や露店を見ている。二人とも何も話さなかったけど、この時間を共有できていることが幸せだった。


 気が付くと、まわりはすっかり暗くなり気温も下がって涼しくなっているのが分かった。夜につつまれたお祭りに、りんご飴や綿菓子が花をえている。そんな景色を眺めていると、急にねむりが私の腕をとって、海岸かいがん砂浜すなはまのほうへと連れて行った。


私は驚きながらも手を引かれるままねむりについて行き、砂浜の波が打ちせてるところまで来たとき、まわりが急に明るくなった。


 見上げると、空に綺麗きれいな花火が大きな音と共にいくつも打ち上がっていた。火の粉がきらきらとかがやいては消えるのを見て、「きれい」と自然と言葉がこぼれた。


となりを見ると、ねむりも笑顔で花火を見てる。でも、なぜか泣いていて、ほほに涙がつたっている。そして、花火を見ながら、また何かささやいていた。


でも何も聞こえない。花火の大きな音やまわりの楽しそうな声は聞こえるのに、ねむりの声だけがどうしても聞き取れない。私は「ねむり」と呼びかけるけど、ねむりにも私の声が聞こえていないようで、私のほうへり向いてくれない。「ねむり、なんて言ってるの?ねむり」と少し大きな声で呼びかけた瞬間しゅんかん、私は家の天井てんじょうを見つめていた。





 それは、見慣れたハカセの家の木造の天井だった。横を見ると窓のカーテンの隙間すきまから光が差し込み、床にその光を落としている。どうやら夢を見ていたようで、ひたいに汗が流れてるのがわかる。


 ねむりの夢を見るのはこれで何度目だろう。昔より減ってはいるけど、いまだに見てしまう。夢の中はいつも楽しくて、どこかせつない雰囲気ふんいきつつまれている。夢を見ているあいだは、嬉しさや楽しさで心がたされるけど、目がさめて夢だと分かったときは、現実に引き戻され悲しい感情がわいてくる。


前の夢までは、ねむりと話すことができていたのに、なぜか今回はねむりの声が聞こえなくなってた。どうしてだろう…。原因があるとしたら、ねむりの手帳を読んだせいかもしれない。昔、ねむりといろんなことを話していたけど、その言葉の奥にあった本当の言葉を聞き逃していたことに手帳を読んで気がつかされた。声が聞こえないのは、その後悔からきてるのかも。


 私はベッドから起きると、階段を降りて1階にある洗面台にいき顔を洗った。暗い表情の自分の顔が写っている鏡を見ながら、落ち込んでいたら今日という日がもったいないと自分に言い聞かせ顔をタオルでふいた。


 リビングに行くと、庭のほうの戸が開いていて、朝の光が差し込んでる。ハカセがいるだろうと思って見渡したけど、いないみたい。いつもはだいたいこの時間に朝食を食べてるんだけどな…。もしかしたらもう仕事の準備に取り掛かっているのかも。


 私はテーブルに置いてある紙袋からパンを1枚取り出しトースターで焼き、焼いているあいだに牛乳をコップに注いだ。パンにシロップとバターを塗って食べ、スズメの鳴き声を聞きながら朝食をとった。


 その後、私は部屋に戻り服を着替えへ、この家の1番特別であろう部屋へ向かった。たぶんハカセはその部屋である準備をしているはずだ。私は階段を下りて廊下を渡り、つきあたりの角を曲がってすぐの扉を開いた。




 そこは20畳ほどの部屋になっていて、右側には手前から奥に向って黒いクラシカルなカウンターがあり、椅子が等間隔とうかんかくに並べられている。カウンターとつながっている裏の厨房ちゅうぼうは客席から見えるようになっていて、大きなオーブンや、ミキサー、またいろんな形のフライパンがフックでぶら下がっていた。


左側には落ち着いた色合いで木目調もくめちょうのテーブル席が3つある。壁には、メリルボーンの街並みの絵がかけてあり、天井からつるしてある照明に照らされて、かげの中にぼんやりと絵が浮かんでいた。木造の古い家と相性の良いレトロな内装は、机や椅子なんかをハカセがどこかの家具屋で買ってきて、一応こだわって模様替もようがえしたみたい。見た感じ趣味は良さそうかな。


 奥を見るとハカセが厨房ちゅうぼうの冷蔵庫からケーキが入っているバンジュウを取り出し、おもてのショウケースに色とりどりのケーキを並べているところだった。


チーズケーキや桃のタルトケーキ、ガトウショコラなどオシャレにデコレーションされたケーキ達をお客さんが前から見やすいように調整ちょうせいしながら置いている。


ショウケースの上にはリボン付きの袋につつまれたオートミールやくるみのクッキーなどの焼き菓子がカゴに入れらていた。また、部屋にはコーヒーのにおいがただよっていて、はかせがもう豆をひいてくれているのがわかる。


 そう、この家の一室はお店になっていて、建築業界けんちくぎょうかいで言う店舗兼用住宅てんぽけんようじゅうたく。この家の主人が前に飲食店を開いていたらしく、それなりに繁盛はんじょうしてはいたものの主人が亡くなり、やむなくお店を続けることができなくなってしまったみたい。


今はその主人の息子さんがこの家の持ち主で、この家を賃貸ちんたいで人に貸しているそう。ハカセはこのお店を借りて洋菓子店を開き、ケーキやコーヒーを出しながら生計を立ててるの。


 弁護士の職場を離れた後、すぐに第二の夢だった洋菓子店をする準備に取りかったって聞いてる。前の主人が使っていた厨房ちゅうぼう設備せつびも残っていて自由に使わせてもらえ、おかげで自分のお店を早く開くことが出来たってハカセが言っていた。


 ハカセは学生の頃に、ある小さなホテルのレストランでアルバイトをしていて、そこでは食後に出すスイーツのお菓子を作るアシスタントをまかされてたって聞いてる。そのとき一緒に働いていた年配ねんぱいのパティシエさんにいろいろと教えてもらったんだって。


そこで 料理の楽しさを知ったハカセはレストラン従業員のまかないを進んで作り料理のレッスンをうけたり、有名シェフの講習会こうしゅうかいに参加したりと、積極的せっきょくてきにそっちの勉強を独学どくがくでしだして、数年後にはレストランの新しいメニュー考案こうあんたずさわれるくらいになってたみたい。スイーツ限定だけどね。

一時は弁護士の道を捨てて本気でパティシエになるための学校に通うか悩むくらいだったって聞いてる。



 そして、私はそんなハカセの家の部屋を、お店の手伝いをするっていう条件で安く借りてるの。お金がなかった私は不動産屋に相談し、最近お店を開いたけど人手が欲しくて困ってるハカセのことを教えてもらえた。お給料ももらえるしお金の面では困ってないから、本当に助かってる。


 お店のケーキやお菓子はどれもおいしいけど、私のお勧めはプリン。生クリームを多めに使ったプリンは甘い中にもこくがって、下のほろ苦いカルメラと一緒に食べるとより味が深くなる。お菓子を多めに買うお客さんには安くしたりしてるから、もしお店に寄ったときには私に聞いてほしいな。


 お店の名前はクーヘンっていう名前。最初聞いたときは変な名前だなと思ってハカセに名前の意味を聞くと、なんてことはない、クーヘンはドイツ語でケーキという名前らしい。言われてみればバームクーヘンのクーヘンかとそのとき気づいた。ハカセもいろいろ考えたみたいだけど、途中で考えるのが面倒めんどうになってこの名前で落ち着いたみたい。


 私は厨房横のロッカーからエプロンを取出し身に着けた。

「おはよう。ハカセ、今日は早いね」

私はケーキを並べているハカセの背中に声をかけた。

「あぁ、時は金なりだ。限りある時間を有効に使っていかないとな」

そう答えながらもハカセの商品を並べる手は止まらず、とめどなく動いてる。

朝からほんとに元気だなハカセ…


 「そうそう、お店の売り上げ去年の同じ月の売り上げと比べてかなり上がってる。ふつう暑い時期はケーキやお菓子の売り上げって減るけど、そこまで下がってないし、順調だね」


私はシンクで布巾ふきんに水を含ませながら昨日パソコンで見ていた売り上げ表のことを話した。洋菓子店ではよくあることだけど、クリスマスなんかのイベントがある冬はケーキ等がよく売れるのとは逆に、夏はくて甘ったるい食べ物は避けられるみたいで、あまり売れなくなる。


 「いや、まいご。俺の人生の予定だと、いまごろは大手デパートに俺の名前がついた菓子が並んでいるはずだった。かなり出遅れているから、ここから飛ばしていかないと計画がくるってしまう」


ハカセは物事ものごとに対する意識いしき相変あいかわらず高い。現状では満足できないハカセは称賛しょうさんの嵐がこるくらいでないと、心から喜べないんだろうか。


最初はそんなハカセに付いていけないと感じてたけど、長く一緒にいると不思議で、じつは私も引っ張られるようにハカセの考え方や価値観かちかんまっていった。小さな幸せで満足してた私もひそめていたよくが大きくなってきてるのを実感することがある。


 「でも、食べ物の味の好みなんてみんなバラバラだし、有名になるまでたくさん売るのってホント難しそう。食べ物売ってる大きな会社の人たちはどやってるんだろ。タダで教えてくれないかな」

お店の前に出すブラックボードの看板に何か書きこみをしているハカセに向かって私は言った。


「国が違えば確かに難しいが、同じ日本に住んでるならどこも同じような米が主食で、味付けに醤油しょうゆを使ったおかずが食卓しょくたくに並ぶ確率が高い家庭で育っただろ。食べてるものが同じなら、味覚も似通にかよってくる。日本人全体の一定の好きな味のパターンはきっとあるはずだ」


まいごはハカセの推理をしているかのような説明を聞き、そんなことまで考えてたの?とあきれてしまい、「そうなのね」と言って話しを終わらせた。


 「よし、できた」

そう言うと、ハカセは何か書いていたブラックボードの表を、私に見えるように見せた。そこには新商品のケーキ、レモンのタルトがポップな絵と文字で描かれていた。


この立て看板には旬の果物を使っているケーキや新しく作ったお菓子等、その日その月でのオススメの商品を書いてお店の入り口付近に立てかけてる。この看板を見てお店に入ってくるお客さんもいるから、ハカセがいつもいろんな色のマーカーを使いながら丁寧ていねいに描いてくれている。


 このアルバイトも始めた頃は忙しく感じたけど、今ではれてきて余裕をもってお仕事が出来てる。ケーキや焼き菓子は保存がきくものが多く作り置きができるため、次の日の準備をしなくていい日もあったりで、お店がひまなときはハカセに店番を願いして、となりの和菓子屋のおばちゃんと話したりもしている。


こうやって1日お店の仕事をしていると自分が大学生だというのを忘れそうになる。でも、喫茶店で働くのはとても楽しい。ほとんどの時間をお客さんとカウンターしにキャッキャとおしゃべりして、笑っていられるのは幸せだ。


 ここでハカセにいろんなことを教えてもらって、自分のお店を持つのも将来しょうらい選択肢せんたくしの1つに入れていいかもしれない。この家に来た理由はもちろん金銭面きんせんめんのこともあったけど、純粋じゅんすいにお菓子やケーキを作ることにも興味があって来たようなものだったし。


 私はそんな自分の将来を楽しく想像しながらテーブルに置かれているコーヒーの砂糖やミルクが少なくなってないかチェックをしていた。厨房の冷蔵庫を見てみると、在庫が少なくなっていたガトーショコラやフィナンシェの生地きじができていて、ハカセがほとんど準備を進めていくれていたようだ。


いつもは2人で準備をするけど、今日はやけにハカセが早く起きてたらしい。朝が弱いから『自分が寝坊をしたときはたのんだぞまいご』とか言ってたくせにどうしたんだろう。


 ハカセを見ると、お店の準備がひと段落したようで、お客さんの席に座ってメニュー表をながめている。しかし、よく見るとハカセの顔に違和感いわかんがあるのに気付き、私はハカセの近くに行ってまじまじとハカセの顔をよく見てみた。すると目が真っ赤に充血し、目の下にうっすらと黒いクマが出来ているのが分かった。


 「あれ?ハカセ、目が赤いけど…もしかして寝てないの?」

私はびっくりしてハカセに聞いた。

「あぁ、今日は試作しさくの菓子を客に食べてもらうつもりだからな。楽しみで寝れなかったよ」

ハカセはゆっくりと、うなずきながら答えた。

「まさか、昨日渡したねむりの手帳をずっと読んでいて寝てないんじゃ?」

私はハカセの冗談を無視むししてたたみかけてたずねた。しまったと思った。昨日の夜ハカセにねむりのことを思いつめて話してしまい、手帳を読むのを急がせてしまったかもしれない。


「確かに読んだが、寝てない理由は他にもすることがあったからだ。手帳を受け取ってなくても同じだったよ」

そう言うハカセを私は疑いの目でじっと見た。じつは今日、午後から大学のゼミの先生にお願いされている課題かだいの準備をするため、お店をハカセ1人にまかせて大学に行くつもりだった。でもこの様子ようすだと今日は少し難しそう。


 「私、今日はやっぱり1日お店にいることにするよ。べつに大学の課題をするのはいつでもいいんだし」

私は厨房ちゅうぼうに行き、お客さんが来る前に在庫ざいこが少なくなっているケーキやお菓子を作る準備を始めることにした。お客さんがいないときやお店の開店前にこういったものを作っておくと、あとあと楽になる。


 「いや、午後からは自分一人で十分だ。昼の忙しい時間までいてもらえれば、後はほとんどコーヒーだけを飲みに来る客だけだ。コーヒーをそそぐだけなら眠っていてもできる」

「眠ってたらできないわよ。そんな状態のハカセを一人おいて大学に行っても、気になって課題に集中できないし」


 私がそう言うと、ハカセは顔を片手かたてでおおい、困っている様子だった。「実は今日、少し考えたいことがあるんだ。それが一人だとかなりはかどる。もしよければ自分一人に店をまかせてくれると助かるが」


今日のハカセはどうやら引きそうにない。正直この言葉が真実なのか分からない。いつも冗談ばかり言ってる弊害へいがいだ。でも1人でいたいのは本当なのかもしれない。


 「本当に大丈夫なの?」

「あぁ平気だ、1日寝ないくらいたいしたことじゃない。客がいないときに適度てきどに休むさ」

あまり信用できなかったけど、そう言うハカセの言葉をしかたなく聞き入れ、午後からは大学に行こうと決めた。


 でも、それまでにできるだけ明日のお店の準備を進めておこうと思った。ハカセが明日のことまでする余力よりょくは残ってなさそうだし、私がしておかないと。だけど、ハカセが1人で考えたいことって、やっぱりねむりの手帳のことかな…。もしそうならかなりハカセに負担をしてしまってる。様子を見て、きつそうなら私だけでねむりの探し物を探すことにしよう。あまり迷惑はかけれない。


 私はケーキを作るため、小麦粉をふるいで細かくしていく作業をし、それを砂糖や卵、バターと一緒にミキサーで混ぜ、オーブンで焼きながらアレコレと考えていた。そうこうしていると、お店のドアに掛けてあるすずがなって最初のお客さんが入ってきた。





 お昼がすぎて2時近くになるとやっとあわただしさが落ち着いてきて、嵐が過ぎ去るようにお客さんたちがいなくなっていった。


私は洗物あらいものを一通り終わらせ、やり残したことが無いか確認し、ハカセに言って大学に行く準備をしに自分の部屋へ戻った。


 大学の講義があるときはだいたい手提げかばんを持っていくけど、今日は向こうで作業があるので両手がく大きめの黒いリュックを選んだ。その中にデジタルカメラとノートや筆記用具、あと下の冷蔵庫で冷やしていたお茶の入った水筒にタオル、お財布とケータイ電話を入れ、服掛けにかけている帽子をかぶって完璧だ。


 私は他に持っていくものがなかったか考え、そうだと思いだし机の引き出しを開けてハっとした。先週から持ち歩いてたねむりの手帳を持っていこうとしたけど、ハカセに貸していることを思い出した。持っていないと、落ち着かなくなっている自分にこのとき気が付き、何日間かはがまんしないとと自分に言って、机の引き出しを閉めた。


 私は階段を下りて、お店の部屋とは別の玄関げんかんに行く前にハカセに行ってくるよと声をかけた。


「眠って、カップにずっとコーヒーをそそいだりしないでよね」

ハカセを見ると、お客さんのいなくなった席に座り疲れている感じだった。

「あぁ、大丈夫だ。安心して大学に行ってきてくれ」

そう言うとハカセはレジ下のたなからねむりの手帳を取り出し、私に渡した。


「え?これ」

「探し物で重要な部分はメモを取った。これは返しておくよ」

私はその時、さっきの眠ってない言いわけうそだったことと、なんでハカセが眠らずにこの手帳を読んでいたかがわかった。私が手帳を毎日持ち歩いていることを知っていたんだ。昨日の話を聞き、早く私に手帳を返そうとして無理して読んだに違いない。


 「今日はなんか変だなと思ったよ。こんなに急いで読むなんて」

「べつに急いだつもりはないさ。面白い本を1日で読んでしまった経験は誰だってあるだろ?それと同じだ。いろいろと知ることができて有意義ゆういぎだったよ」

ハカセの目はぼんやりとしていて、まぶたが重そうだ。


「でも、ありがとう…。手帳持ってるとなんだか落ち着くから」

私がそう言うとハカセは黙ってしまい、私から目をそむけた。死んだ友人のかげばかり追ってる私をあわれに思ったのかもしれない。でもそれは、私自身にもどうすることもできなかった。


 「それじゃ行ってくるね。お店は頼んだよハカセ」

私は黙ったままのハカセに声をかけ、部屋から出ようとした。


 「まいご」

すると急にハカセが部屋から出ようとする私の背中に声をかけた。

「俺はその手帳の子ほどやさしい人間を見たことがない。いい友達を持ったな」

私はその言葉におどろき返す言葉にまってしまった。それは、なにか胸に刺さって痛いようなさみしさを感じたからかもしれない。


 「気つかわなくていいから。じゃぁね」

ハカセにそう言って部屋から出て行った。玄関げんかんくつき、引き戸のドアをガラガラと開けるとセミのき声が一段と大きく聞こえた。


上には真夏まなつの空に入道雲にゅうどうぐものぼっているのがにじんで見える。やっぱりダメだ、ねむりの話しをするとどうしても悲しくて胸が痛くなる…。さすがにハカセにこの顔は見せられない。私はリュックの取っ手をぎゅっとにぎり歩き出した。

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