2019/09/28(土)

 今日はキース・ジャレットの『スタンダーズvol. 1』というアルバムを聴いて、こんなことを考えた。

 ジャズには熱さという要素と泥臭さという要素があって、これらは独立している。これらの要素のうまい定義を今は思いつかないが、キース・ジャレットはビル・エヴァンスより泥臭い感じがするし、セシル・テイラーはあまり泥臭くないが誰よりも熱い。ロバート・グラスパーはあまり熱くないから好きじゃない。そう、ジャズは熱くなければ面白くないと私は思っている。でも泥臭さは必ずしも必要ではない。ブラッド・メルドーの初期のヴィレッジ・ヴァンガードでのライブのように、泥臭さゼロでも最高に熱いジャズは存在する。そういうのを聴くと興奮する。私にとってみれば、泥臭さは減点対象かもしれない。

 これを小説に当てはめてみるとどうなるか。一般に村上春樹の小説はクールだと言われているけれど、じゃあ村上以前の私小説が熱いかといったら必ずしもそうではない気がする。村上がクールだというのは、泥臭くないという意味で言っているのではないだろうか。もちろん『ねじまき鳥クロニクル』あたりの90年代以降の作品に比べれば初期の作品は熱くないかもしれないが、それでもその辺の私小説に負けるとは思えない。私が『1Q84』以降の村上春樹を読まないのは、そこにおいて泥臭さが前面に出て来て熱さが後退したと思ったからだった。

 じゃあ自分の小説は、と言うと、やっぱりジャズと同じで泥臭くなくて熱いものを書きたい。何人かの人に指摘を受けた「説明しすぎ」は、泥臭さに繋がる要素だろうからなるべく排除する。熱さは、どうだろう、あるかどうかよくわからない。やっぱり小説の熱さはジャズのそれとは違うのかもしれない。もうちょっとよく考えてみよう。

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