2019/09/17(火)
昨日の続き。小説の軽さを文章自体の読みやすさによって定義するならば、その対義語である重さは文章自体の読みにくさだということになる。ここで私はジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』という小説を思い浮かべる。これはもう読みにくいというレベルを超えてしまった文章ですらない何かであるような気もするのだが、時に二十世紀文学の最高峰だとか、小説の最終形態だとか言われていて、私にはわけがわからない。このわけのわからなさをあなたとも少し共有したい。『フィネガンズ・ウェイク』はこのように始まる。
riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.
文頭が小文字なのが引っかかるが、かろうじて文にはなっている。ネイティブでない私にはすぐに意味が取れないが、なんだか少し大げさな言葉を使って川の流れを表現しているのだな、ということが大体わかる。
第一段落はこの一文だけだ。第二段落を飛ばして、第三段落の最初の一文を見てみよう。
The fall (bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthurnuk!) of a once wallstrait oldparr is retaled early in bed and later on life down through all christian minstrelsy.
何なのだこれは。ふざけているのだろうか。調べたところによると、カッコの中の文字の羅列は、色々な言語で雷を表す言葉を集めてきたものらしい(よく見ると日本語の「かみなり」も含まれている)。しかし、だからなんだというのか。その次の段落に至ってはこうだ。
What clashes here of wills gen wonts, oystrygods gaggin fishygods! Brékkek Kékkek Kékkek Kékkek! Kóax Kóax Kóax! Ualu Ualu Ualu! Quaouauh!
私には悪ふざけだとしか思えないのだが、これは小説なのだということらしい。こんな調子で、ジョイスは世界中のあらゆる言語を取り入れながら無数の造語を作って英語を拡張し、この小説において「ジョイス語」を作り上げた。しかしジョイス以外の誰に『フィネガンズ・ウェイク』が読めるであろうか。読みにくいとかそういう次元ではなく、この小説は「読めない」のである。
にもかかわらず、前述のように『フィネガンズ・ウェイク』は文学史上に残る傑作として高い評価を受けている。これは多分、二十世紀のモダニズムという時代背景があってなされたもので、現代の作家が『フィネガンズ・ウェイク』のような作品を発表しても多分見向きもされないだろう。今の時代に求められているのは、やはりモーツァルト的な軽さなのではないだろうか。
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