2019/09/16(月)

 今日はオーケストラのコンサートを聴きに行った。小さなホールで、オール・モーツァルト・プログラムだった。モーツァルトはそこまで好きではないのだが、色々あって聴きに行くことになった。前半の曲目は少し退屈に感じられるところもあったが(それは演奏よりも私の好みの問題だと思う)、メインの交響曲第41番は素晴らしいと思った。なんというか、音楽のエッセンスが凝縮されているような感じがした。それで、聴いていて考えたことがある。

 モーツァルトの音楽はその軽やかさによって知られていると言っていい。あの天国的な軽やかさはモーツァルトに独特のものであるように思われるが、ではそれは何に由来するのだろう。楽譜に「軽やかに演奏せよ」と書かれているわけではないのだから、軽やかでないモーツァルトの演奏だって原理的には可能なはずだ。しかし多分そういうものはあまり評価されないだろう。おそらくモーツァルトの曲の内部に、軽やかさに対する要請がある。言い換えれば、モーツァルトの曲を演奏する人は、「この曲は軽やかに演奏されるべきだ」と直感的に思うことになるのである。

 それで結局この軽やかさに対する要請はどこから生じるのかというと、それはモーツァルトの速筆と関係がありそうだ。モーツァルトの作曲には迷いがなく、ゆえにモーツァルトの音楽には迷いがない。迷いがなければ心は軽やかだ。ちょっと雑だが、大体こういうことではないだろうか。

 ここまでを前振りとして、小説の軽さと重さについて考えてみたい。いわゆるライトノベルと純文学といった分類が、モーツァルトの軽さとベートーヴェンの重さに対応しているかというと、そうではない気がする。そもそもライトノベルの定義が定まっていないからあまりはっきりしたことは言えないが、ライトノベルと純文学は、その人物やストーリーの造形の仕方に主な違いがあるような気がする。つまり題材が違うのであって、文章そのものの肌ざわりというか読みごたえというか、そういうものが軽いからライトノベルだということにはならないと思われる。例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、これまでに書かれた小説の中でも特に重いテーマを扱ったものの一つであろうが、読んでみると文章自体は意外にやさしい(とはいえこれは翻訳によるものかもしれないし、そもそも私はこの本の最初の数十ページしか読んでいないからこのことにそれほど自信は持てない)。

 あまり読書家ではない私はぱっと名前を出すことができないが、モーツァルト的な軽さを持った小説家というのはいるはずで、しかしモーツァルトだけが偉大な作曲家であるのではないように、モーツァルト的な軽さを持った小説がいい小説だとは限らない。ただそういう小説は、モーツァルトの音楽がそうであるように、より多くの人々に親しまれるだろう。

 長くなってしまった。今日はここで終わる。

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