2019/08/24(土)
気になっている小説家の一人に、古井由吉という人がいる。一九三七年生まれだからもう八十一歳だが、まだまだ現役のようである。ウィキペディアには「いわゆる『内向の世代』の代表的作家と言われている」と書いてある。この人の作品は『野川』(二〇〇四)を少し読んだだけであるが、はっきり言って意味が分からない。冒頭の「埴輪の馬」という章の第二段落をまるごと引用してみる。競馬場での場面の回想から続いている。
あの日、私の買った二頭の馬でもう勝負の決まりかけたところへ余計な馬に間に割り込まれて、相も変わらず半端な眼だとぼやいたが、ややあって考えてみれば私の馬券もすべてはずれたわけでもない。よほど小振りの幸運にはなるけれど、とにかく、取ることは取ったと息をついた。そのとたんに、逸した魚の大きさも算えられて無念やら有難いやら、その足で競馬場の町の蕎麦屋で忘年会も済まし、都心を地下鉄で横切って夜の更けかかる頃に家の近くまで戻り、二軒手前のお宅の前を通り過ぎる時、もう十年ほども昔、同じ年の瀬の日曜の中山からの帰りに、そこの扉から忌中の札が目に止まって、はてと首をかしげながら家に入り仕事部屋の机の脇やら棚の上やらを掻き回すと、つい何日か前に届いた、千葉の先のほうに再入院中のその人からの、葉書が見つかった、ということのあったことを思い出した。
この段落に関しては、漢字の当て方で見慣れないものはいくつかあるけれど、難しい比喩などはないし、よく読めば言いたいことは分かる。しかし何というか、得体の知れない感じがある。段落は三つの文からなっていて、最後の文がとても長い。過去の出来事の回想なのに過去形と現在形が入り交じっている。回想の中に回想が入っている。このような特徴が、得体の知れなさを醸し出しているようだ。
そして文章を読み進めていくと、他にも色々な得体の知れなさを抱えた段落が待ち構えている。何回読んでも何が言いたいか分からないところもある。ましてや段落間の繋がりなど何も分からない。
しかし何も分からない中にも、こちらに伝わってくる何かしらの凄みがある。これが文学的に優れた作品だということが直感的に分かる。それはすごいことだと思う。小説が言語を超越した魅力を持っているということなのだから。
『海辺のカフカ』を読み終えたら、腰を据えて『野川』の続きを読みたいと思う。
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