2019/08/10(土)
この「雑感」の第一回(八月二日)の中で、私は「小説について自分で一から考えよう」と思う、というような宣言をした。ここはよく読むと前の文との繋がりがわかりにくいが、文学の使命を果たすために、これまでの作家をお手本にして書くのではなく、自分で一から考えて書きたい、というようなことを言っている。このとき私は無意識のうちに、新しい価値観の提示というようなことを文学の使命の中に含めているようであり、これは本当は正しくないかもしれない。小説は英語でノベル(狭義にはノベルは長編小説のみを指すらしい)、それ自体「新しい」という意味を含んでいるが、その名前が付けられてからもう随分経つわけで、小説がもはや新しくなかったとしてもまったくおかしくはない。というか、大体において芸術の世界にはテンプレのようなものが存在する。ある時代に特定のスタイルが流行って、一人の天才がそれを打ち破る傑作を生み出し、それを皆が真似してそのスタイルがまた次の時代に流行る。芸術活動というのは長い目で見ればこういうことの繰り返しではなかったか。だから新しくないからといって、テンプレ小説を文学の使命を果たしていないと糾弾することはできない。
しかし私はテンプレ小説があまり好きではないから、やはり自分の頭でしっかりと考えながら、うんうんうなりながら小説を書きたい。たとえそうして書いたものが結果的に村上春樹とかその他これまでに世に現れた小説によく似ていても、最初から狙ってテンプレ小説を書くのとはわけが違う、と思うのだ。文章のもつ深みというのは、結局は作者が原稿を前にどれほど深く思索したかということによるのではないだろうか。別にその文章自体が思索的であるかそうでないかということとは関係なく、深く考え抜いて書かれた文章からは作者の持つ世界観が自然と立ち上がってくる。
でも真の天才は、文学の使命なんてことを考えもせず、それまでの常識をくつがえすような作品を無意識で書いてしまうのかもしれない。それこそ筆を止めることもなく。私は自分が文学の天才だとは思わないし、そういう人がいても別に全然うらやましくはないが、とここまで書いたところでどう結論をつけていいかわからなくなった。やはり文章は終わりが難しい。しかしこれで終わっては私がうらやましさを感じているみたいではないか。文学の天才なんて全然うらやましくないのだ。いや、本当に。
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