2019/08/09(金)
「ジャズの六〇年代」の連載・公開を取りやめた。これは一九六〇年から一九六九年までのジャズの名盤を一年につき一枚紹介するという趣旨の文章だったのだが、一九六三年を代表するアルバムというのが見つからないので続きを書くことができなくなったのだ。まあ3PVしかついていなかったから、特に大きな影響はないだろう。
この「雑感」の第一回(八月二日)の中で、「文学の使命」という言葉を説明なしに使った。今日はこれについて考えたい。しかし文学というのは少し幅が広すぎるから、小説に関心を絞ることにしよう。小説の使命とは何か。こんなことを書いた人がいる。
「人々は人間が小説を形作ることを当然と思っているが、同時に小説が人間を形作るということに気がついていない」
私はこれをどこで読んだか忘れてしまったから、引用としては不正確である。しかしこれは一つの真実であり、小説の使命を考える上での鍵になる。
この言葉が意味するところはこうだ。多くの人は、小説はフィクションであり、現実の自分の人生とはきっぱり切り離すことができるものだと考えている。しかし「文は人なり」という言葉が示す通り、小説の背後には作者という人間がいる。純文学であれミステリーであれSFであれ、小説には作者の性格、考え方、人生観などが色濃く反映されているはずだ。読者は付き合いの深い友人から受けるのと同じくらいかあるいはそれ以上の影響を、夢中になって読んだ小説から受けるだろう。「あるいはそれ以上」と書いたのは、時として小説は日常生活における人とのコミュニケーションからわれわれが得るのよりもはるかに深い感動をもたらすからだ。
これを理解した上で初めて小説の使命を考えることができる。小説の価値は、テキストそれ自体の中にあるのではなくて、読者との関係の中にあり、われわれが思っているよりも多分もっと動的なものだ。評論家の小林秀雄という人が「最近の若い人は本を読まない」と書いていて、それはもう半世紀くらい前のことだから、今の人はもっと本を読んでいないということを考えると、近い将来誰も本を読まなくなるということはありうる。その時にはドストエフスキーも村上春樹も忘れられるだろう。
ここまで書いて、結局小説の使命とは何かという問いに答えを出していない。これはやはり一言ですぱっと割り切れるような問題ではないのであって、もう少しゆっくり考えてみたいと思う。
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