第2話 風麗
見栗山は地元の駅裏にある小高い山だ。小さい頃はここでよく日が暮れるまで遊んでいた。なのでどこに何があるかは完全に、と言って良いくらいに熟知している。
と言っても最近では再開発が進み、所々切り崩されているようだ。だがまだまだ緑は多い。数は減っているだろうが、まだ十分に虫は取れそうだった。
俺は山の麓の入り口に着く。待ち合わせ場所は指定していなかったが、美咲はそこで俺を待っていた。
あの頃と違い、山に小さな子供達は見かけない。俺達が遊んでいた頃はあんなにいたはずなのに。これも時代の流れ、というやつだろうか。
「さて、それじゃ二手に分かれて探すとするか」
「えー、一緒に探してくれるんじゃないの? それじゃ、兄貴が来た意味がないじゃん!」
美咲が不満そうに口を尖らす。
「それじゃ少しだけヒントをやろう。なるべく涼しくて、隠れやすい場所を探すんだ。例えば枯れた木とか、生い茂った葉の中とかな」
「……むう、分かった」
美咲はまだ不服そうだ。大方、捕まえた虫を虫かごに入れて貰おうとでも思っていたんだろう。
「それと、あんまり俺を当てにするなよ。そもそもこういうのは、お前が捕まえないと意味がないんだからな」
「へいへい、分かりましたよ。兄貴、時計は持ってる?」
俺は右手首を見る。そこには今年の春に買ったばかりの、クロノグラフの腕時計が付いていた。時間はまだ一時を少し回ったところだ。
「ああ。そうだな、今から二時間後の三時に一旦集まるか」
「うん、分かった。それじゃ兄貴、期待してるからね!」
そう言い終わるが早いか、美咲は山の中へと駆けていった。その姿はあっという間に見えなくなる。まるで熊を追いかける猟犬みたいだ。
「さてと、俺も行くとするか。しかし、まさか高校生にもなってこんな格好をするとは思わなかったな……」
俺はぶつくさと呟きながら、山の中へと分け入っていった。
◇
「ふむ、まあこんなもんだろ」
虫かご一杯に詰め込まれた虫を見て、俺は満足げに頷いた。中には、クワガタやクマゼミなど大物もいる。昔の勘は、まだまだ衰えてはいなかったらしい。虫の習性さえ覚えていれば、余程の事が無い限り取れないという事はないのだ。
腕の時計に目をやると、まだ二時を少し過ぎた頃。美咲との待ち合わせには余裕があった。
「一休みでもするかな」
俺は、どこか涼しげな場所を求めて山をさまよう。坂を登ったり降りたりしていると、びっしりと蔦に覆われた崖下を見つけた。
「こんな場所あったか?」
昔の記憶を辿ってみるが見覚えが無い。どうやら最近切り崩されて、新たに出来た場所のようだ。
そこは木々がいい感じで生い茂っていて、適度に夏の太陽を遮ってくれた。さらに植物による蒸散作用のおかげか、他の場所と比べて少しひんやりとする。
「ふぁ……美咲に叩き起こされたから、まだ寝足りないな」
俺は早速寝ようと、崖に持たれかかった……はずだった。
しかし、俺の体は崖と吸い込まれる。
「へ? うわわわわ!」
俺は後ろ向きにごろごろと転がっていく。そして、しばらく転がった所で突き当たりにぶつかり、思い切り後頭部を壁にぶつけてしまった。
「く……おぉ……」
余りの痛さに、俺は悶絶して転げ回る。
ようやく痛みが引いて辺りを見渡すと、そこは薄暗い空洞の様だった。中は意外と広い。
転がってきた場所を見上げると、微かに光が漏れている。どうやら崖に穴が開いていて、それを蔦が覆い隠していた様だ。その穴からはなだらかな坂になっていて、俺はそこを転がってきたというわけだ。
しかし、その光のおかげで、何とか辺りの様子はつかめる。注意深く辺りを見回すと、俺のすぐそばに小さな祠らしき物が建てられていた。その門戸には一枚の札が貼られている。
「何だこれ?」
何か入っているんじゃないかと興味本位で札を剥がし、祠を開けてみる。すると、その祠からまばゆいばかりの光が走り――
◇
光が収まったら、この幽霊が俺の目の前にいた、と言う訳だ……。
「具合が悪いのなら少し休んだ方が良いですよ。無理をしてはいけません」
幽霊が俺の額に手を当てる仕草をする。しかし、何かが触れている感触は全く無い。見えているのに触れられない。つまり、この幽霊は間違い無く本物なのだ……。
「うわああああぁぁぁぁ!」
もう限界だった。あらん限りの叫び声を上げると、俺は反転して、さっき転がってきた出口に向かって一目散に走り出した!
今ならきっと、見なかったことにできる! それに、外は日の光がさんさんと照りつけている。もし幽霊なら、そんな所まで追っては来れないはずだ!
俺は穴の外へ弾丸の様に飛び出した。真夏の光が暗闇に慣れた目に突き刺さり、脳の奥がズキンと痛む。
息を切らしながら恐る恐る、今さっき俺が出てきた穴の入り口を見てみる。しかし、そこからは誰も出て来る事はなかった。
「は、はは……よし! やっぱり俺の気のせいだったんだ!」
「あのう、何がそんなに面白いのですか?」
「そりゃ、あの幽霊から逃げ出す事ができたんだから……って何!」
背後から、聞こえるはずの無い声を聞いて、俺は思わず振り向く! そこには、あの幽霊が日の光など物ともせず、ふわふわと空を漂っていた……。
「ちょ、ちょっと待て! 幽霊は日の光が苦手なはずだろ! 何で平気な顔をしてるんだよ!」
「別に幽霊は日の光が苦手な訳では有りませんよ。
幽霊は、俺に微笑みながら軽やかに答える。
俺を落ち着かせるための笑顔だったのかもしれない。しかし、疑心暗鬼に陥っていた俺には逆に、“これからお前を呪ってやるぞ”と暗に示している様に感じた。
「お、お前は、一体何なんだよ! やっぱり俺を取り殺すつもりなのか!」
恐怖で口がうまく回らずどもりながらも、俺は今考えている事をストレートに幽霊へぶつけた。
幽霊はびっくりしたように目を丸くしていたが、やがてカラカラと笑い始めた。
「あはははは! わ、私が貴方を取り殺すってそんな事はしませんよ。第一、私は悪霊じゃ
余りに毒の無い幽霊の様子に、ようやく俺は自分を取り戻してきた。
(そうだ、こいつは最初に会った時、俺を心配していた。これから取り殺す相手を心配する奴がいるだろうか?)
考えてみれば至極簡単な事。だが俺は、完全に気が動転していて、それに気付く事ができなかった。
もう一度、恐る恐る確認してみる。
「本当に……俺を殺すつもりはないのか?」
「一体何の為に貴方を殺すのです? 安心して下さい。
幽霊が俺を見つめる表情はとても優しい。そこに悪意など少しも感じる事はできなかった。確かに、俺に害を加えるつもりなどさらさらないようだ。
「あんたは……一体何なんだ?」
悪霊ではないと言う事は何となく分かる。しかし、とりあえず正体を知っておかないと、安心はできない。
「私はですね、簡単に言ってしまえば、今から昔に
即身仏。少し前にテレビの特集で見た覚えがある。木棺の中に生きたまま入れられて、読経をしながら死んでミイラになる、だったか。口で言うのは簡単だが、実際は壮絶なことに間違いない。
「即身仏って、確か生きたまま埋められるっていうあれだろ? 何でそこまで?」
「両親は既に他界し兄弟も居ませんでした。私が死ぬというのは家の血筋が絶えるという事です。私の家は代々、
笑って幽霊は語るが、そんな生易しい話じゃない。病で苦しんだ挙句、埋められて窒息死したのだから。なんでこんな事を笑って話せるのか。俺には全く理解できなかった。
だがそこまで聞いて、今の話でとんでもない事をしでかしたのに気づいてしまった。
「ちょっと待て。今、お前はここを守ってたって言ってたよな? って事は、俺とんでもない事をしたんじゃないのか!?」
「
「でも、そのせいで不幸な事が起こり始めるんじゃ?」
あせる俺を見ておかしかったのか、幽霊はクスクス笑いながら小さく頭を振った。
「私の役目は結界を張り、不吉なものを入れないようにしていました。
とりあえず大事にはなりそうになくて、俺は胸を撫で下ろした。ちょっと時代がずれていたら大変なことになっていたかもしれない。
「そ、そうか。良かった。まあ悪い事をしたわけじゃないみたいだし、俺は用事があるからこれで」
「あ、
そそくさと退散しようとした俺の前に、幽霊が両腕を広げて立ちはだかる。さっきとは打って変わって、至極真剣な表情だ。
「な、何だよ!」
「実はですね、貴方の珍妙な格好を見て、今の時代に興味が沸いてしまいまして。
「珍妙言うな! 大体そんな事だったら、自分の目で確かめればいいだろ? なあ、もうさっさと成仏してくれよ……」
悪い奴じゃないのは良く分かったが、正味な話、もうこれ以上訳の分からない事に関わりたくはなかった。なのに、今度は体を貸せなどと言われても冗談じゃない!
「そんな! 見るだけなんて寂しいじゃないですか! 触って話して干渉出来るからこそ、
「だったら他の人に頼んでくれ! 何でわざわざ俺なんだ!?」
「
「……もし、それでも俺が拒否すればお前はどうするんだ?」
今までの説明で、何となく想像は付いていた。しかし、
「そうですねえ。何なら気が変わるまでずっと貴方の傍に居ると言うのも良いかも知れませんね」
のほほんと、見事にほぼ想像通りの脅しじみた答えが返ってきた……。
ここで俺が、この幽霊に体を貸さなければ、これから先ずっと幽霊は俺についてくるのだ。そう、何をするにも。抵抗できず、俺のプライベートが無くなる生活。考えるだけで気が重くなってしまう。だから俺は、この幽霊の提案を飲むしか道はなかった。
「数日って具体的にはどのぐらいだ?」
「そうですね、良ければ三日程」
「……分かった、三日でいいんだな?」
「本当ですか! 有難う御座います!」
観念して折れる俺とは裏腹に、幽霊は嬉しそうにあちこちを飛び回る。
考えてみれば、そう悪い事でもない。別にこの幽霊は俺の体を悪用しようとしているわけじゃないんだ。そう、たかだか三日。その僅かな時間を付き合うだけでいい。そう思えばさして問題もない。少なくとも、一生付いて回られるよりは。
飛び回っていた幽霊は何かを思い出したかの様に、あっと小さく叫ぶと、ふわりと俺の前に降りてきた。
「済みません。そう言えば、まだ名乗ってもいませんでしたね。私の名は風麗と申します。
と、地面に正座すると三つ指をついて、深々と俺に向かってお辞儀をした。その仕草がまるであれみたいで、妙に照れてしまう。
「……まるで嫁ぎに来たみたいな言い方は止めてくれ。俺の名前は九十九零次。まあその、なんだ、短い間だがよろしくな」
そう言って、俺は風麗に向かって手を差し出す。これから取り憑かれる相手に名乗る、というのも変な感じだ。
しかし、俺は手を差し出してから相手が幽霊だと言う事を思い出した。しかし、風麗はそんな事など気にもしないといった感じで、差し出した手を両手で握り返してきた。もちろん、その感触はない。
ふと俺は一つ思い出した。そういえばそろそろ、美咲と合流する時間じゃないだろうか。腕時計を見ると、三時五分前だった。
「悪い。体を貸すのは、ちょっと待ってくれないか?」
「ええ、構いませんよ。何か用事でも有るのですか?」
「ああ、妹を待たせているんだ」
そう言って虫かごがある事を確認すると、美咲が待っている場所へ走り出した。
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