--------私の選択--------

 二階堂信夫にかいどう のぶおは、遂に渾身の新発明、私たちの生きているこの世界をカスタマイズするという、人類史上における大いなるタブーに踏み込んだ大胆な試みをシステムとして実現させていた。

「この間、映里子えりこが面白そうだと言って聞いてくれた計画プロジェクトの話、続きを聞きたい?」


 信夫は相変わらず、暇さえあれば私の家にお菓子を持ってやって来ては、結婚式のことや新婚旅行の日程など(と言っても、そういう事はもう既に全部決まっていて細部を確認するだけの繰り返しなのだが)近い未来の二人の予定を、さながら受験生の特別講習のように綿密に説明レクチャーして、楽しみだね、と言ってにこやかに帰って行く。

 落ち着いた声も穏やかな話し方も、地味に長くて脱線しがちなお喋りも午睡の前奏の子守唄みたいで、退屈というよりは、まるで静かな音楽を聴いているような心地よさだった。

 張り詰めていた精神が、ゆるゆると安らぐ。


「……え、今何て」

「この前、途中まで話した新しい発明のことさ。完成したんだ」

「ほんと?」

「ああ。僕の計画通りそのままってわけには行かなかったんだけど、まあPCシステムの開発っていうのは、生き物を育てるみたいなところがあるからね。なんとか、結果オーライって感じに成功したよ。後で続きを話すって約束しただろ」

 約束だなんて、本当に律儀な人だと思う。言われなければ、私は忘れていたかもしれない。ということは、パラレルワールドからの脱出も、宇宙の不具合バグを修正しないといけないって、あの使命感みたいなものまで忘れかけていたということだ。

 ……どうしちゃったんだ、私。

 もしかしてあの時に死んでいて、今は天国に居るのか。以前が遠くて、帰りたい気持ちが、見当たらない。


「映里子?」

「あ、ごめんなさい。ぼんやりしてた。前回の話の内容を思い出してたの。この世界に、一夜だけ、手を加えることが出来るのよね」

「その通り。よく理解してるなあ」

 信夫は、私にしてはリアクションがよかったので満更でもなさそうに、続きを詳しく話し始めた。

 その中でも応用編というか、現在は売れっ子俳優である私の初恋の幼馴染「壱乃瀬雅己いちのせ まさきを現実世界から排除する」、要するに「私の記憶から雅己との出会いそのものを消去する」という信夫の最終結論は、シュミレーションの段階で失敗に終わっていた。

 原因はわからずじまいだったと言うが、おそらく、信夫の精神に深く根付いた良心という安全装置が作動して、作業中に生じた磁場迷いを介して作成中のシステムに何らかの影響を及ぼしたのではないだろうか。

 専門知識ゼロの私による素人的見解にすぎないけれど、なんかいい感じ。そういうことにしとく。


 そして、現段階で辿り着いたという画期的な新システム。その名も、一夜のキリトリセン。

 ああぁ、なんだかネーミングセンスからしてロマンティックだわ。実際には、神を冒涜するようなエゴの集大成としての研究開発プロジェクトなのに。

「安全の為に、システムの起動は僕のPCから入らないと不可能だ。複数のパスワードが要る。それでも会社のデスクトップだと危ういから、個人のノートPCにデータを入れて持ち歩くことにしたんだ。名前が変だと思ってるだろう。もし他人に画面を見られても、それが重要機密事項だとわからないようにしてるんだよ。読みかけの小説とか、そんなふうに見えるように」

 ほう、セキュリティの一環というわけね。

「それって、この鞄の中に入ってるノート?」

「そう。ある意味、映里子の部屋は最も安全だと思ってさ。ここで宇宙最新の発明が進んでるなんて、普通は誰も考えないだろう」

 彼は、完璧な防犯設備みたいに微笑んで言うけれど、そのシステムを利用したいと目論もくろむ最たる部外者は、この部屋の主だったりするのよ。あなたを欺くつもりはないけど、歪んだ宇宙は正常に戻さないと……


「ちょっとだけ、開いてみようか」

 私は、突然訪れた千載一遇のチャンスと、スパイみたいになってきた自分の黒い立ち位置に少々緊張しながら、未来の夫である彼が一欠片の疑いもなしに私を信頼し、宇宙規模の厳重機密を惜しげもなく見せてくれる様を、目を皿のようにして眺めていた。

 女性の力でも破壊できそうなくらい(しないけど)薄くて軽いノートPCの画面に、起動中……の文字が点滅し、何度かぱちぱちっと切り替わって、歴史の年表みたいな画像が出て、その一点をクリックすると、スケジュール管理用のカレンダーによく似た表が大きく表示された。

「これは普通のカレンダーね」

「うん。人間の限界寿命に死後の影響力をプラスして、個人の誕生から150年後までの人生をカスタマイズできるようにしてある。誕生そのものを削除することは出来ないし、運命として予め存在しない事柄を本人または他人の手によって捏造することも不可能だ。ただ、生涯のうち一夜に限り、宇宙に存在する二つの可能性、つまり並行宇宙パラレルワールドの個人の幽体を相互に入れ替えることが出来る。眠っている状態の脳に特殊な信号を送って働きかけるんだ。ただし、片道の1回きり。転移した後は二度と元に戻すことが出来ない。シビアだよね、人生って」


 人生。そんなものを1回きりにせよ、ちっぽけなノートPCからコントロールしようとしてるのよ、あなたは。

「怖いね」

「そうかな」

「神の領域だわ」

「これは僕の個人的な研究なんだ。倫理とか公共利益とか、社会的な概念は一切無視。エゴの塊だよ。神というより、悪魔の仕業だな」

「使うの?」

「どうだろう」

 いつも通り優しく私の肩を抱きながら、特に操作するでもなく画面に浮かんだカレンダーを眺めているだけの彼の眼差しには、緊張感も狂気も、不穏な感情みたいなものは浮かんでなかった。

 寧ろ、満ち足りたような穏やかさと余裕が感じられ、私は不意に、悟ってしまったのだ。

「ねえ信夫あなた……もしかして、もう使っちゃったの」

 信夫は、私の顔を覗き込むようにして、柔らかく笑った。エイプリルフールの午後みたいな無邪気な微笑みに、すべてを諦めた後の開き直りのような清々しさを湛えて。


「バレちゃったか」

 そうだとしたら、私は。私はこのまま元の世界には戻れなくて、生涯ここで生きてゆくということ。あなたの妻として。

「どうして、私にこのシステムのことを話したの。隠し通すことは簡単だったはずなのに」

 不思議と、憤りや絶望感は湧いてこなかった。ただ、信夫が、わざわざ罪深き研究開発プロジェクトの経緯や結果を、私に教える理由を知りたかった。素朴な疑問。

「怒らないのか」

「だって、あなたは約束してくれたから。私を決して悲しませたりしないって。嘘じゃなかった。私は今、かつてない幸せを感じてるの。段々ね、わかってきたの。あなたが好き」

「ああ、映里子。ありがとう」

 信夫は、私をぎゅっと抱き寄せて愛おしげに髪を撫でながら、システムを行使した時の状況を説明した。

「入れ替わった前後は多分、記憶が重複するんだよね。違和感なく、もうひとつの世界に溶け込む為に、必要な本人の記憶が充分に残っているはずなんだ」

 確かに、今は両方の世界の記憶がある。


「僕は、映里子の心を手に入れる為に、人として許されない領域に踏み込んでしまったけど、準備として最低限の事前調査をしていたんだよ。このシステムを応用して、もうひとつの世界の主要な人物の人格キャラを観察した。そして、もう一人の僕と、もう一人の壱乃瀬雅己の為人ひととなりを把握したんだ。かなり衝撃的だったな」

 それは、私も似たような経験をしたからよくわかる。同じ人でも、まったく別人なんだもの、驚くよね。

「もう一人の僕は、やたら冷淡クールで得体の知れない遊び人だったし、もう一人の雅己は、めっちゃいい奴なんだね。あいつは不思議と憎めなかった」

 そうそう。そうなのよ!


「それでさ。中身は別人と考えた場合ね、こっちの雅己は、恋敵って言うほど実際には君と気持ちが通じてないこともわかったし、もう一人の君が、酷く生活に追い詰められていることも知った。何故か、映里子は二つの世界のどちらに居ても、そんなにキャラクターが変わらないんだよね。本当に境遇だけの違いなんだ。それなら入れ替わっても大丈夫だと思った。総合的に考えて、それしかないような気がしたんだ。僕はね、どんな世界に居たとしても、映里子には無理なく健やかに生きてほしいと願ってる。だから僕は、君を召喚することにした」

 この人は、あちらの世界に居た私を選んで、呼び寄せたと言うの……

 考えてみたら、私はどちらの世界でも、現状に耐えかねて苦しんでいたんだ。信念と、逆境に蝕まれてゆく心の板挟みで、限界間近、瀕死の状態だったのかもしれない。渦中に居ると、自分のことは案外わからないものだ。


「あなたは、両方の私を救ってくれたのね。やっぱり、私にとっては神様だわ」

「それはちょっと、買いかぶり過ぎじゃないか」

 信夫は、申し訳なさそうに言って、システムを閉じた。

「これ、壊したほうがいいかな」

「だめ。そのままにしておいて」

「どうして」

「システムが壊れた影響で、また宇宙に不具合バグが起きたり、ショックで何もかも元に戻ったりしたら怖いから」

「わかった。このノートは君が持ってて」

「私が?」

「うん。ここなら安全だ」

「そうね。このお話は、私たち二人だけの秘密ね」

「君は本当に、素直で可愛いな」

 私はとても幸福な気持ちで、婚約者の腕の中に包まれていた。後ろめたいことも怖いものも渦巻く憂いはもう全部消えて、とても穏やかな気持ちで。

 何も持たず身ひとつ、神のように寛くて大きな力にすべて預けて、守られ、安らぎの中で。私は、与えられた未来を生きてゆくのだろう。


「あなたは、以前私が居た世界の夫に雰囲気が似ている気がする」

 不図ふと、私は思ったのだ。

 信夫と雅己。二つの世界で、あまりにも性格が異なるのは、幽体と肉体の組み合わせが入れ違っているからではないのかと。

 そう考えてみた時、いろんな疑問がすっきりと解消してゆくような気がした。ただの直感。だけど私の勘は思考よりずっと冴えてるから、わりと信憑性は高い。

「それは」

「私ね、人を外見より中身で好きになるタイプなの。あったかい人が好き」

「ああ」


「あなたと居ると、この世界でも寂しくない。こうして、いつも傍に居てね」

 突然降りかかった運命に戸惑い、わからないことが多すぎて、私はここへ来てからずっと迷子のような心許ない気持ちで過ごしていたから。

「離さないよ、映里子。結婚しよう」

「えっ」

「だめなのか?」

「そうじゃなくて。だって、もう決まってるのかと」

「式場と新居と旅行は手配してあるけど、全部ハッタリで、僕が勝手に予約した。君の返事を待ってるんだ」

 なんて人なの……!

「知らなかった」

「そっか。それなら、もう一回やり直さないと」


 信夫は、私の部屋の机の抽斗ひきだしから金庫の鍵を取り出し、ベットの脇にある黒い金属の箱の重そうな扉を解錠した。ダイヤルの番号は……

「君なら、4桁の暗証番号は何にする?」

「えっと、出生体重」

「いくつ?」

「2983。って憶えるの」

「もしかして、銀行とか携帯とかも全部それか」

「うん。難しいのだと自分が忘れちゃうもん」

「賢明だな」

 ダイヤルを合わせると、扉の重みで自然にゆっくりと開いた。中には通帳と印鑑と、小さな宝石箱ジュエルケースが入っていた。

「あった。それじゃあ、改めて」

 そこから彼が手に取ったものは、見たこともないような大きさのダイヤが燦然と煌めく婚約指輪エンゲージリングだった。

「これは僕から、君への贈り物だ」

 信夫は私の左手を取り、薬指に指輪を嵌めた。ずっしりと重たくて、この世のものとは思えないくらい眩しくて綺麗だった。うっとりするような輝き。ずっと見て居られる。

 大切にしよう。


「映里子、僕と結婚してくれますか」

「はい。……ありがとう。嬉しいわ」

 新しい物語の幕が上がる。与えられた世界に、私の選んだ未来が、今ここから始まる。

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