--------マサキ--------

 壱乃瀬雅己いちのせ まさきは、今をときめく新進俳優として、話題の映画やテレビドラマには必ず何らかの役で起用され、人々の日常に馴染み深いエンターテインメントの新星として、その名を浸透させていた。

 パラレルワールドとしてのこちらの世界、つまり、宇宙における何らかの不具合バグによって「意識」だけが相互に入れ替わってしまった二通りの越智映里子おち えりこ=私のうち、雅己が売れているほうの世界へ(あちらの世界から)やって来た私は、こちらでの彼の相貌の違いに驚いた。

 偶然見たテレビの映像ではあるが、はっきりと映し出された雅己の自信に満ちた堂々たる表情、話し方。芝居ならともかく、それはバラエティ番組で、どちらかというとプライベートなことを聞かれ、自分の言葉で答えている場面だった。


 先程、予告もなく現れて熱い心情をぶちまけるように話しながら、私を優しく抱いて帰って行った婚約者フィアンセ二階堂信夫にかいどう のぶおも、あちらの世界とは別人のようなキャラクターではあったが、雅己もまた、性格の面でも別人なのだろうか。

 私は、遅れて来た疎外感というか、ここは異世界なのだという現実を突きつけられた気がして、急激に心細くなってきた。

 そして、心細さという感情は増幅器エフェクターとなり、恋心を募らせる。

 境遇の違いにより別人のようであろうと雅己は雅己なのであって、私は彼に会いたい気持ちが抑えきれなくなり、実際のところを確かめたい気持ちも相まって居ても立っても居られなくなった。

 気がつけば、携帯端末スマートフォンに秘密のニックネームで登録した彼の連絡先を表示して、暗号のようなメッセージを送信していた。


 数分後、彼から返信があり、私はシャワーを浴びて化粧と着替えをやり直してから指定の場所に赴いた。服装は黒ずくめの目立たない恰好を選んだ。かなり待たされることが予想されたが、何時間でも構わない。どうしても一目会いたかった。

 こちらの映里子=私の記憶では、婚約者である信夫は雅己との密会について感知していないと考えていたが、私は初対面とはいえ先程の信夫の様子から、彼は既に何もかも勘づいていて、その上で私をすべて許しているのではないかと思った。

 そして、雅己に関しては存在そのものを根底から許さないのだ。彼さえこの世界から排除すれば。要するに、私の記憶から消せばいいという結論。愛の裏には憎があると言えど最早もはや一種の殺人計画じゃないか。

 ひぇぇ怖いよう。

 優しい婚約者の一途すぎる熱愛に改めて戦慄しながら、私は一人、まだ見ぬ想い人を待ち続けた。


 ◇


 どのくらい、そこで待っていたのだろうか。流石に心細さが極限に達して、悲しくもないのに涙が溢れて止まらなくなって、密会の待ち合わせ場所である個室で一人、私は幼い子供のように声を上げて泣きじゃくっていた。

「エリちゃん、遅くなってごめん。おいで」

 見られたくない姿を晒してしまったけれど、雅己は一切追及せず、しっかりと抱きしめてくれた。ああ、この安心感。

 だけど、耳元で囁く愛しい声が紡いだ次の言葉は、驚くべきものだった。心なんてどこかに置き忘れたように、具体的な体位の指示だけ。こちらの意思など確かめもせずに。

 勿論好きだから拒絶なんて無理だし、待ち焦がれた身体は瞬間湯沸かし器みたいにひと押しで点火。蕩けるチョロい私、あなたに溺れてIQ急降下して堕ちれば生身のラブドール。為されるがまま。

「悪いんだけど時間がないんだ。服は着たままで後ろ向いて。そう、壁に手をついて……」

 雅己は、着衣のまま駆け抜けるようにして行為を済ませると、時計を見ながら衣服を整え、半ば放心状態の私を置いて、次の現場へと向かって行ってしまった。


 賞味15分程度の時雨しぐれみたいな逢瀬は、満たされるどころか寂しさを何倍にも助長して、私は不意に、さっきまで泣いていたことを思い出し、続きを再開するみたいにもう一度、ひとしきり泣いた。

 短すぎた雅己の腕の中の温もりの記憶が、今にも消えてしまいそうで。

「マーくん、行かないで」

 私は自身を抱きしめるように腕をきつく交差して暗闇で震えていた。

 次の約束はない。万が一とはいえ、今生の別れになるのかもしれないのなら、せめてお互いに見つめ合って。熱く口づけを交わしながら、慈しむように抱いてほしかった。

 時間がないのなら余計に、無言で交わるよりも話をしたかった。抱いてくれなくても、何か、気持ちを確かめるような、いつまでも心に残るあたたかい言葉が欲しかった。


 ……待って。

 私は、雅己の態度に不満を抱いているのか。彼の心中深く秘めた想いを信じられないというのか。一々わかりやすい言葉で確かめたいなんて、ウザい女の典型じゃないか。やだ。

 私の愛は、ちょっと会う時間が限られるくらいで、簡単に揺らぐような脆弱な想いなのか。

 認めたくなかった。私の心は、悲しみばかりが膨らんで、幸福を感じていない。そんなことは、有り得ない。

 いや、有り得ない現実こそが、もうひとつの世界であり、まさしくこちらの現実リアル、パラレルワールドなのだとしたら……!

 意識としての私の中の宇宙がガラガラと音を立てて崩壊してゆくのを、遥か彼方で視界の端に眺めているような気持ちで、黒ずくめの私は一人、影のように密室を後にした。



 ◇ ◇ ◇



 --------THE OTHER--------


 ある朝目覚めたら、私は、ボロアパートの床にぺらぺらの布団一枚を敷いて寝ていた。

 建付けから何から安普請やすぶしんであることが露呈しているみすぼらしい部屋だ。すごく狭い。

 だけど何というか、人が生活している温もりのようなものが空気の中にあって、今は留守のようだが、同居人との仲睦まじい様子を物語るペアのマグカップや湯呑み、色違いの箸などが台所の水切り籠に並んで置かれている。思わず頬が緩む、素敵な光景だった。

 それはいいとして、私は一体どうしてここに居るんだっけ?

 目を閉じて、じっくり記憶を手繰り寄せてみる。私の名前、周りの状況、最後に何をしていたか。細かい部分は忘れていることもあったが、おおむね思い出した。


 昨夜ゆうべは、不思議な夢を見ていた。

 私の婚約者が、得意の発明を見せてくれるティータイム、いつもの時間だった。やたらリアルな夢だなと、夢の中で思う。

 そして今度の発明は、今までの遊び感覚のものとは大きく異なる壮大な試みだった。人として踏み込んではいけない領域に、深く切り込んだ禁断の装置。

 装置と言うよりはPCプログラムのような形のないシステムなのだけど、それが行う仕事は一つだけ。世界を取り替えること。つまり、運命を変えることだったのだ。


 人生のうちでたった一度だけ、もうひとつの「有り得ない現実」が進行している世界、即ちパラレルワールドへ転移することができるという。一種の瞬間移動ワープということか。

 その後戻りできぬ扉のような禁断の装置の名は、一夜のキリトリセン。なんだか、小説のタイトルみたい。彼のロマンティックな思考回路が丸見えだ。

 まあそれはさておき、切り取り線と言うからには、人生を切り貼りして操作するという明確な意思が垣間見えて、倫理的問題が脳裏をぎる。

 遂に、やっちまったんだな、あなたは。

 君の心を手に入れる為なら神にでもなる、って、あの時いつも言ってたっけ。恐ろしい人。

 物腰柔らかで優しくて、決して嫌いじゃないんだけど、私には永遠のマーくんが居るの。あの人を差し置いて、ぼんやりぬくぬくと富豪の奥様として暮らすわけにはいかない。

 私の心が、私を許さないから。


 確か、そのあたりで目が覚めたような気がする。

 まさか、記憶まで操作されたのかな。ここは「有り得ない現実」の世界よね。私がボロアパートに住んでるなんて、有り得ないもの。

 納得。

 そうよ。婚約者あなたは、私を絶対に悲しませないと約束してくれた。だから私は、きっとここで、真の幸福を見つけるの。

 同居人は、売れない役者のマーくんで、私は糟糠そうこうの妻。ああ、夢に描いたシナリオ。設定だけで萌えるわ。

 貧乏って、未知の世界。面白そう。家事全般を自分でするなんてワクワクする。こう見えて料理は得意だし、っていうか、こう見えても何も、私は既に貧乏暮らしの働く映里子なのだ。いえあ。


 今日はたまたま私の会社は休日で、マーくんはオーディションを兼ねたロケに出張中。早ければ、夕方には帰ってくる。

 今夜の献立を考えなくっちゃ。旅の疲れが吹き飛ぶようなご馳走を作って、愛しい人に、おかえりなさいって言うんだ。

 きゃ。

 これが私の理想の未来。有り得ないと思っていたけど、こんな形で叶うなんて、人生って不思議ね。


 愛とは、相手にとって本当の幸福を心から願うこと。

 神になって、やらかしてくれた婚約者あなた、ありがとう。本物の愛を確かに受け取るわ。

 これからあなたは、貧しい環境で頑張り続けたもう一人の私に、豊かさと安らぎを与えてあげて。もう一人の私は、愛される喜びをちゃんと知っているから、優しいあなたの誠意と献身にはすぐに落ちるでしょう。

 幸せになるのよ。

 adieu~

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