--------ノブオ--------

 もう一人の私が、どうやら意識だけ、こちらの私の中に入り込んでしまったパラレルワールド。即ち、裕福な私として存在しているこの世界では、こちらの越智映里子おち えりこ=私には婚約者フィアンセが居て、結婚式を間近に控えていた。

 旦那様となる男性は、二階堂信夫にかいどう のぶおという人物で、新世紀最強の発明家と呼ばれる奇才であった。

 大手PCメーカーの重鎮として、社長の親族でもあるが故に社内では特別待遇。かなり自由な立場が与えられており、新技術の開発を一手に担っていると言えば体裁として聞こえも良いが、実際には趣味の実験をやりたい放題。会社の経費と設備を使って遊び感覚で気まぐれに行なうだけの貴族みたいな為体ていたらくで、普通に仕事がデキる男たちとは一線を画す特異な存在だ。

 頭脳と天賦の才は、名声を裏切らない確かなものであったが。


 プライベートな彼の人柄の面ではどうなのかというと、映里子=私への想いは一途で、態度も甘すぎるくらいに優しいのだが、時として、少々その度合いが過ぎた。愛情も束縛も人一倍。一歩間違えばヤンデレ化の危険を大いに孕んだ過激なまでの熱情の持ち主である。

 彼の社会的立場と経済力が婚約を推し進め、まさに成立させているのであり、個人的に二人が愛し合って結ばれたという恋愛の成就を意味する結婚ではなく、片想いと財力と依存心と打算が奇跡のバランスで絡み合った蜃気楼みたいな結婚だった。

 私としても、嫌いな相手ではないというか寧ろ、客観的に見て理想の相手のような気がするから、決して不幸ではないのだ。けれど、何となく不穏な予感が立ち込めているのは否めない。


 一方あちらの世界、つまり不具合バグが起こる前の私が居た元の世界ではどんな状況かというと、信夫という人物は勿論存在し、映里子=私と関わりがある。しかし結婚相手ではない。

 あちらの私は、無名の俳優である夫を深い愛情と忍耐をもって陰で支える糟糠そうこうの妻なのだ。

 夫を一言で表すならヒモである。年間に1~2本の映画に端役で出演する程度の極めて頻度の少ない本業と、複数のアルバイトを掛け持ちする極貧生活を長年にわたって続けていた。

 彼との出会いは、幼少期にまで遡る。けれど、よくある幼馴染が恋人になり、やがて夫婦になり、という継続した物語ではなかった。

 遠き初恋は拙いながらも燃えるような大恋愛であったが、彼のほうの家庭の事情によって突如、前触れもなく親子は転居。長い間、互いに行方知れずとなる。


 断絶した恋は、二人の心の奥底に燻り続けた。私は、あの人のことを片時も忘れたことはなかったのだ。

 そして遂に、運命は二人を再会させた。離れていた時間を埋めるようにして、再び激しく恋に落ちたその瞬間の熱い気持ちのまま、私たちは現在、内縁の夫婦として身を寄せ合って、慎ましく暮らしている。

 日々の食事にも困窮するような貧しい生活でも、私は彼と共に生きることに心から幸福を感じていた。いつか彼が俳優として名を上げるその日まで、どうにか生き延びようと耐え忍ぶギリギリの生活苦でさえ霞むほどに。

 彼もまた幼き日々と同じく、愛情深く私を大切にして寄り添ってくれる。優しくて楽しくて、本当に愛しい人。天使のような男だった。

 それにしても、どうしてあそこまで売れないのかな。あの性格だから押しが足りないのか。悲しいね。


 あの人のことを考えていたら、急に会いたくなって、本気でつらくなってきた。ああ、どうしよう。

 あろう事か、こちらの世界での彼は私の夫ではなくて、行き別れた幼馴染のまま。

 そして最近になって、俳優である彼は急激に人気上昇中なのである。映画では主演も、テレビドラマには様々な役柄で出演、ルックスも実力も優れた秀逸な若手として各方面から注目を浴び始めた……!

 ちやほやされて満更でもない彼自身も、そのような状況に慣れて、この頃はやや調子に乗っている様子も窺われる。

 こちらの私は、テレビに出演している彼を偶然に発見し、某所で催された握手会イベントに参加して、そこで直接話しかけたのだった。久しぶりねマーくん、私のこと覚えてる?

 驚いた彼は、咄嗟の判断でサインをしたポストカードの裏に、個人の連絡先を書き込んで寄越よこした。


 その夜から早速、彼との密会が始まり、私は多分今のところ誰にも知られることなく、芸能人として既に有名な彼と秘密の交際をしているのだが、そのような相手はどうやら私一人ではない、という噂がまことしやかに囁かれており、私は憂鬱に苛まれる日々を余儀なくされていた。

 変わらず昔のように優しい彼が、人を欺くなんて絶対に思えないのに、私は既に棲む世界が違いすぎるような気がして、日に日に孤独感が募る。

 人気者という立場は好き嫌いに関わらず大勢の人々を相手にしなければならず、当然一人一人への対応は縮小され人間関係はビジネス優先に傾くのは当然のこと……。


 彼との交際は極秘だが、婚約者の信夫にとっては、私がテレビや雑誌などで初恋の君の顔を日常的に見かける、という現実の状況だけで面白くなく、憎き恋敵として非常に疎ましい存在なのだ。

 冷静に考えてみたら、一方的な重たい愛情って怖すぎるな。もしも密会のことが知れたらと思うと、本当に恐ろしい。

 しかも、こちらの世界の映里子は、長年離れていても私を覚えていた幼馴染の彼の一途な想いを何となく疑い始めている。ああ自分なのに、許し難い。

 その点に関しては、どうしたって譲れないと「意識」であるところの転移して来た私は強く思った。私は、心が真に求める愛を大事にして生きたい。たとえ宇宙のことわりに背いたとしても。

 ……でもね、その宇宙が歪んでしまった今、わからなくなってきたんだ。私は、どうなってしまうの?

 考えることが多すぎて、頭が壊れそう。


「映里子、どうしたの。やっぱり具合いが悪いんじゃないか。この計画プロジェクトはまだ実現できるかどうかわからない段階だから、また、進んだら改めて詳しく話すよ。君は少し、休んだほうがいい」

 信夫は、発明の話を中断して、紅茶を飲み終えたばかりの私を半ば抱きかかえるようにして寝室へ連れて行くと、扉を閉めるなり、ふんわりとベッドに寝かせた。真っ直ぐに注がれる透明な視線が突き刺さるようだ。

「君の考えてることなら、わかるよ」

 直感的に、この人は本当に私のことを心の底から愛しているのだと感じた。その愛は少々歪んでいるような気がしないでもないけれど、とても純粋で、炎のように熱く激しかった。


「あいつをもう一度、手に入れたいんだろう。君は、何人もの愛人取り巻きたちの中の一人じゃなく、永遠に世界にたった一人の特別な恋人で居たい。結婚しても僕には、魂までは触れさせないつもりだ。何があっても、心は初恋のあいつのものなんだ。僕は、君にとって都合のいい無限の金庫か、暖かくて見栄えの良い毛皮のコートみたいなものか。地位やお金は、実際それが好きだったとしても、命懸けで愛するようなものじゃないよな。そりゃあそうだ。実体がないからね。だから僕は、君にとっては決定的に二番目の男なんだ。そして、もしも今ある地位や財産を失ったなら、君が僕に求めるものは何ひとつなくなって、君はもう僕を必要としなくなる。悲しいね」

 呪詛のような言葉は止まらなかった。


「唯一かけがえのない男になりたければ、そもそも君が、一番の奴と出会わなかったことにしてもらうしかない。僕は、やっと答えを見つけたんだ。考えが実現した暁には、その調整の事実もろごと忘れてもらうよ。そして僕だけを見て、心から愛してほしい。僕は果てしない愛で充分に応え、君の望むものすべてを与える自信がある。僕はこの愛の為なら神にでもなって、君の心を手に入れてみせるよ。絶対に君を悲しませたりしないさ。何よりも大切な君を、誰より幸せにしてあげる。そんな悲しそうな顔をしないで。愛してるよ、映里子」

 信夫は、ゆっくりと言い聞かせるように、恐ろしい話を交えながら、壊れ物を扱うようにそっと、とても柔らかく私を抱いていた。


 その手は慈愛に満ちていて優しく、決して私の嫌がることはしないし、強制的に癒されるような触れ方で。

 見上げれば、悲しみをいっぱいに湛えた瞳には涙が溢れ、零れたしずくが刺さったみたいに、ちくりと胸が痛んだ。

「あなた」

 信夫は、驚いたように手を止めて、私の目を見つめた。

「優しいのね」

 私は、本当に感じたことを思わず口にしていた。嫌な気分ではなかった。切なくてやりきれない思いに包まれてはいたが、私の生活も未来も全部引っ括めて責任を持とうとする婚約者の命懸けの純真に、感動すら覚えた。

 毎日、未来永劫、何の心配もなく、誰かの力によって守られて生きる暮らしなど、想像でさえ、私には一度も経験がなかった。

 パラレルワールド、まさに真逆の現実。


 本来の私が生まれ育って暮らしていたあちらの世界では、二階堂信夫は私の婚約者ではなく、普通ならばほぼ接点のない勤め先の偉い人であり、個人的には、契約を交わした愛人だった。

 時々、彼の求めに応じて、永久に秘密を守る代わりに、気が触れたような金額の札束が、ぽんと手渡しで支払われるのだ。

 私が同棲している恋人には、出会いの時期で負けているから自分は二番目だと口癖のように言い、実際そこは割り切っていて、無茶な要求はしてこなかった。

 やっぱり根本の性格は優しいのかもしれない。というより、こちらの信夫ほど情熱的ではなく、束縛するというよりは、気まぐれに取り出して遊ぶ玩具みたいな扱いである。


 夫が満足に与えられない金銭を、いつでも苦労なしに際限なく与えられるという圧倒的優位が、心の余裕を生み出すのだろうか。いつも穏やかな態度で、執着を感じさせる行動はあまり見せなかった。というか、いつもクールに閉ざしていて、心の中を見せない人なのだ。キレたら怖いだろうな、とは常に思う。

 そんな関係は、倫理的観点からも早く辞めたほうがいいのはわかっているのだけど、たまに得られるその大金が破綻寸前の生活困窮を救ってくれるのも実情で、私は抜けられない地獄に片足を取られたまま、何も知らない夫と明日も見えない暮らしを送っている。

 私は、夫だけを盲目的に愛していて、周りのことを何も見てなかったのかもしれない。闇深い現実に今更気づいてしまって、またしくしくと胸が痛んだ。

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