一夜のキリトリセン

青い向日葵

--------エリコ--------

 アラームが鳴り響く少し前、私はいつも通り自然に目が覚めた。

 朝一番こむら返りの激痛に苦しむのは嫌なので、ゆっくり注意深く、仰向けのままぐーっと1回背伸びをして、ぼんやりした視界をはっきりと見据えるべく手探りで眼鏡を探したが、ちっとも見つからない。

 おかしいなと思って上体を起こし、目を凝らして周りを見渡してみると、なんだか不自然に部屋が広くて、やけに綺麗で、おまけに私は、ふかふかした肌触りの立派なベッドに寝ていた。

 普段は六畳間に、煎餅布団一枚なのに。


 まさか。

 昨夜ゆうべ賞与ボーナスが支給された直後の週末で、ちょっと厄介なクレーム処理がうまくいって上の人にも名指しで褒められ、調子に乗っていたのは確かだ。

 同居人は出張中で数日間帰って来ない為、自分だけの食事を作るのも面倒で、買い物すらおろそかになっていたから家の冷蔵庫は既に空っぽ。

 その結果がもしかすると今、ほんの食事のつもりが解放感に任せて記憶を失うほど泥酔し、終電を逃した挙句に深夜テンションの成り行きで、たまたま居合わせた誰かと迂闊にも流されてしまった一夜ワンナイトの翌朝@宿泊先……誰とも知れぬ相手の一人暮らしの部屋か、それとも豪邸の客間か。或いは街のホテルの一室かもしれない。

 信じられぬことに、キレイさっぱり覚えがなかった。どうしちゃったんだ、私。


 しかし、今一度冷静になって我が身を点検してみると、実際まったくのお一人様仕様だった。これはもう、映里子エリコ容疑者は白だと断定してよろしいでしょう。

 ノーメイクで、就寝時用の野暮ったい下着と露出の少ない形のパジャマをきっちり着込んで、髪には丸いスポンジ製のカーラーが両サイドと襟足に各々2~3個。毛先の内巻きを定着させる為一晩かけて巻いている途中の超絶にダサい状態ですよ、こんな姿、誰にも見せられませぬ。

 それ以前に、意識が混濁した泥酔状態だったとするならば、メイクを落とし、きちんと寝衣ねまきに着替えて、それから細かく分けて髪を巻くなんてことは到底不可能だし、私なら軽く酔っただけでもダルいので絶対にやらない自信がある。そして今問題にしているのは私なのであって、ほらね、私は潔白と。

 それに、部屋の内装は女性的というか、適度に華があって全体としては落ち着いた感じ。何となく、私の部屋をグレードアップしたような、他人の部屋って気がしないのよね。

 ということは単純に、私は夢の中に居るのだろうか。頬をつねったり、耳朶を引っ張ってみたりしても、普通に痛くて余計に目が冴えただけだった。一切は何も変わらず、やはり私は、現実としてここに居るようだ。


 私自身=越智映里子おち えりこは、紛れもなくそのままの私であった。誰かと魂が入れ替わってしまったとか、一晩にして若返ったとか、そういう怪奇現象ではないと思われる。

 或いは、もしかすると異世界転移やタイムリープなどの、流行りの小説にもよくあるような、目覚めたら知らない場所に居て、何故か周りの人々は私を知っていて驚きもせず以前からそこに居る人のように接してくれるので、そのまま異世界で素性を隠して暮らすことになり云々、という典型的なパターンだろうか。

 そんな設定は空想の産物と思っていたが、目前の状況からかんがみて、ぶっ飛んだ発想や狂気的な可能性も視野に入れないことには、いろいろと説明がつかない。


 兎にも角にも、先ずは、眼鏡を見つけなければ。

 私は、サイドボードというのだろうか、容易に手の届く位置にある舶来品とおぼしき高級家具の抽斗ひきだしをそっと開けて覗いてみた。すると、これまた上質感溢れる洒落た眼鏡がすぐに見つかった。私好みの大人可愛いシンプルなデザインである。

 実際に手に取ってかけてみると、文句なしのジャストフィット。まるで私の為にレンズの度数もフレームの幅も調整したかのように。

 そう考えると、ここは本当に私の家で、眼鏡もベッドも部屋自体も、室内にある物すべては私の所有物だと考えたほうが、すんなり辻褄が合うのではなかろうか。


 そうするうちに私は、次の瞬間、唐突に全部思い出したのだった。二通りの映里子としての記憶を。元々の私と、この世界の住人としてのもう一人の私。どちらも本物の私で、両方とも、背景は同じ時代の同じ時間である。

 永遠に交わることのない同時進行。そしてここは、パラレルワールド。もうひとつの世界だ。

 選ばなかった可能性は仮想にすぎないけれども、私たちの知らない世界として、宇宙のどこかに実在するという。にわかに信じ難いが、ここは、その別バージョンの現実世界なのだ。

 こちらでの私は、嘘みたいだが有力な資産家の一人娘で、生まれてこの方、何ひとつ不自由のない健やかな環境に恵まれて生きてきた。誰から見ても、豊かで幸福な夢のように優雅な暮らし。謂わば、もう一方とは真逆の境遇である。

 誰しも、人生の岐路に立てば、多かれ少なかれ必ず考えてしまう別ルート。どう考えても有り得ない可能性、或いは自ら決定して切り捨てたほうの選択肢、そのような一方の世界で消し去られた夢想や仮想が、もしも現実だった場合の「有り得ない」ほうの人生。それがここでは真実として、継続的に展開しているのだ。

 怖いよ。


 元の世界=あちらでは今頃、私はどうなっているのだろう。忽然と消えて行方不明ということになっているのだろうか、いやそんなことにはならないはずだ。同時進行つまり並行パラレルと言うからには、常時あちらにも私が居て、絶えず同じように時が流れているのである。

 現状は、何らかの不具合バグによって、あちらの私の「意識」だけが突然こちらへ混入し、この世界の私の中に潜在するようになってしまった。ということらしい。

 ならば、逆もまた然り。本来こちらの世界に生きる裕福な私の中身たる意識は、今まさに、この貧乏育ちの私の意識が元々暮らしていたあちらの世界の私の中へと転移し、あちらの私の意識として内在している、と考えるのが自然だ。


 仕事も掃除も洗濯も家計の遣り繰りも。一手にこなす働く主婦である。

 有り合わせの食材で献立を工夫して節約しながら、夫の分まで毎日栄養バランスを考えて食事をこしらえるのだ。大丈夫なのか。

 ひとえに適応の問題であって、私は私なのだから能力的に出来ないことはないと思うけど、ここでの暮らしが基本だとすると、ストレス半端ないだろうな。

 それって、自分としても、周りの人たちに対しても、宇宙のことわりを脅かすレベルで良くない事のような気がする。なんとかしなければ。一刻も早く、すべてを元に戻さないと。このままでは、取り返しのつかないひずみが生じてしまう。ちょっと、どうします?

 今こそ宇宙の危機ですよ、奥さん!


 まあでも、ここに居る私に関しては、こちらの世界での記憶や知識なども失われていないようだ。私は、あちらの意識を持つこちらの映里子として、表向きは、何ら違和感を与えることなく通用するものと思われた。その点だけは、とりあえず安心と言えなくもないが、朝から、いきなりフル回転させた頭が早くも混乱を極めていた。

 一体全体、宇宙規模で何が起こっているのか。

 今ここで私の置かれている状況の意味、私は何をどうすればいいのか、並行宇宙の不具合の解決法、あらゆる問題を一つ一つよくわかるように解説してくれる親切な誰か、急募。

 お願い、助けて。


 念じてみても魔法が使えるわけではないので誰も現れないし、いけね、今は誰かに会えるような状態じゃなかった、ビジュアル的に。

 私は、誰にも見られることなく室内及び近辺で身支度を整え、あちらの世界では触れたこともないような上質素材の美しい花柄のワンピースを纏い、こちらの映里子らしく優雅に振る舞いながら、心の中では、絶えず驚き戸惑い振り回され、また頭の中では正直、途方に暮れていた。


 ◇


 暫くすると、会社は昼休みなのか、いつの間にか婚約者フィアンセが訪ねて来て、私の好物のRiku Kagoharaの焼き菓子を手土産に、今熱心に開発中の研究課題プロジェクト、といってもまだ彼の脳内にあるだけの設計図アイデアなのだけど、不思議な話を始めた。

 使用人が運んできた香りの良い紅茶を飲みながら、しっとりバターリッチで上品な甘さのフィナンシェを頬張りつつ、私は彼の話に耳を傾けた。アーモンドの旨みと仄かなレモンの香りが安定の美味しさである。

 ああ幸せ。

「珍しいね、映里子。僕の話を真面目に聞くなんて。風邪でも引いたんじゃないか?」

 ある意味、理解のある婚約者ではある。彼は心配そうに眉を寄せて覗き込みながら、私の額に手のひらを当てて首を捻った。


「大丈夫よ、こんなに食欲もあるし。なんて言うか、科学技術のことは難しいけど、今回のお話はファンタジーみたいで、すごく不思議な感じがしたから。面白そうだなあって思っただけ」

 私は事実、彼の発想に強く関心を持ったのだ。その発明が実現すれば、パラレルワールドの不具合を修正できるかもしれない。

「そうか。ファンタジーか、そうかもしれないな。この計画は、僕の個人的な思いだけで出来てるんだ。全人類の為だとか、会社の利益を上げるとか、そういう本来の目的は一切無視してる。それくらい僕にとっては重大な意味を持つんだよ。神に背いても、君の心が欲しい」

 地位も名声も財力も、持って生まれた才能を存分に発揮できる環境も保証され、もうすぐ私と結婚することが確定している目の前の健康な男は、唯一どうしても手に入らないものを得たいが為に、宇宙のことわりを人の手で操作して、運命を変えようとしていた。

 うやうやしく跪いて、私の手を握る婚約者の執念の瞳に見つめられ、私は一転、いわれのない罪悪感に苛まれ、心做しか、息が苦しくなった。

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